はじまりのなかの赤

 赤、藍、黒。
 三本のラインが天球を覆い尽くしている。中でも赤はいちばん遠くまで広がる色だ。私の足元に転がってくる赤く反射した小石を蹴った。黒い影の方へ落ちて、あっという間に赤が退散する。遠くまで届くだけで、しつこいわけじゃない。扱いの面倒くさい色は、どうしてもクラスメイトの髪の色を彷彿とさせる、誠に、遺憾ながら。
 あんなやつのこと気にしてても仕方ない、とカメラの電源を入れる。ファインダー越しの赤は、肉眼で見るよりも艶やかで、目に刺さるような気がする。校舎裏で、たった一人、カメラを抱えて空を仰いでいるのを見つかったら何と言われるだろうか。きっといい顔をされっこない。知ってた。実際、ここが特別棟といえど、人が誰もいないわけではないので、え、という視線は嫌という程浴びた。そんな視線より、太陽が沈む時に広がる赤の方が私のこころに響いたというだけ。思い切って、カメラのシャッターにかけた指に力を込めていく。撮る瞬間の胸の高鳴りは形容できない。いま、見えている景色が入るとは限らない。もしも、もっと美しくなったのなら。ぎゃくに、ありえないほどひどくなったら。

「みょうじちゃん、なぁ〜にやってんの?」

 背後からの声。肩が跳ねて、身体の角度が浅くなる。空気を読めずにぱしゃり、とおとがなってしまった。そんな、最悪。愕然とする私などおかまいなしで「早く帰んないと危ないヨ」などと続ける。最悪だ。くるりと踵を返して声の主をねめつける。赤い髪は、校舎のなかの影でいくらか彩度が低かった。たがしかし、よりによって赤いのだ。私は撮り逃したのに、こいつはマジックアワーなど、関係なく年がら年中この髪色だ。目には悪いし、印象最悪だし、なのに、赤だ。支離滅裂。馬鹿みたい。心の中でぶうたれているのを見透かしたクラスメイトのあいつが、きゅっと目を細める。天童覚、十八番のゲスだ。奴の逆立った赤髪が目にしみるので、思わず顔がしかめっ面になった。

「なんか用なの、天童」
「いやいやいや〜!むしろみょうじちゃんのほうが用事あるんじゃない?俺だって話くらい聞くケド」
「そう。なら話しかけないで」
「ひっどいなァ。全然体育館にも来てくんないし〜、冷たいし〜」

 天童はよくわからない腕の動きをしてから最後に、ひどい!ともう一度叫ぶ。それしかないのかお前は。「不満なら話しかけなきゃ問題ないでしょ」視線は手元に落として、さっき間違って撮っためちゃくちゃな写真を削除する。マジックアワーは大体15分しかない。なのにその貴重な15分を天童との不毛な会話に費やすのは損失だ。私は決して天才じゃないから、こういう際どいところまで責めなきゃ並べないのに。天童などそっちのけで、もう一度ファインダーを空にかざす。すこしの会話でも、色の勢力争いはだいぶ進んでしまっている。赤はだいぶ地平線のそこへ押し込まれる段階まで陥っている。校舎が邪魔で地面を這う赤は取れそうもない。もっと視界の開けた場所へ行かなくちゃ。左手につけた時計を一瞥。時間はまだギリギリある。

「どこいくの?」
「視界の開けた場所だけど……て、まって」
「ん?」
「いや、『ん?』じゃないわよなんで普通について来ようとするの」

 キョトン、とした顔で私を見る天童のアクションを、手で静止させる。私の指示に従ったのはほんの一瞬で、天童はいつも通りの読めない顔のまま窓枠に足をかけた。私の指摘に口角を上げて、どこか誇らしげに笑って窓を乗り越えた。ひょろりと身長が高い天童に見下ろされるのはどうにも苦手だ。余すところなくみられているように感じる。隠していたいこころの隙までなにもかも。

「流石にそれはみょうじちゃん自意識過剰すぎ〜」
「悪かったわね……」
「俺はみょうじちゃんのそういうトコロ好きだからいいけどネ。見てて面白いもん」
「あんまり遊ぶと金とるからね」

 天童の行動原理はわたしにはとてもじゃないけどわからない。理解しようと思っているのか、わからないままでいいのか、それについても考えたことはない。天童は私の世界ではただのクラスメイトにすぎなかったから。雑念を払うように、スクールバックを肩にかけ直す。空は赤が解けて、藍色と融合して紫色の雲が漂っている。もくもくと天球の流れに逆らって広がる雲は、私の好みではない。今日はもうマジックアワーも終わりかな。
 それでも諦めきれなくて、カメラを空に向けた。絶妙な色も画面の中では曖昧な表現にまで落ちる。考えたってしょうがないよね、と一回シャッターを切る。パシャリという軽快な音は、あまりにも質量がなかったので、重たい心で跳ねてあらぬ方向へ飛んで言ってしまった。

「あっれ、どうしたのそれ」
「…………距離感故障してるの?近すぎるでしょ」

 てっきりもう体育館に帰ったと思ってたのに、天童は興味深々といった風に私のカメラを覗き込む。視線の先には液晶に表示された禍々しい紫の飛んだ画像がある。失敗したものをみられた。恥ずかしくて耳と頰に熱がたまっていく。落ち着いて欲しくても、生理的な熱が表層まで進出するのを抑えきれない。気にしてたからなんだ、という話じゃないけど、どうしても天童には見られたくなかった。

「返して」

 喉から出たのは、尖った声だった。言葉こそふつうのものだったけれど、私としては人ひとり、殺せるような武器のような音に思えた。発した私の喉の方がズタボロで、ぽたりぽたりと大粒の赤い血が溢れている。かえして、ひらがな4文字。それだけの言葉。天童の顔を見るのが怖かった。みょうじちゃん、天童がつぶやく。



 私とて、ひそかに嬉しかったことはたくさんある。嬉しいにも種類がいくつかあって、ふわりと心臓が浮かび上がるようなものから、痛みさえも走る立っているのがやっとなものまで、多角的に取り揃えられている。私からすると、写真についての言葉は、いつだって火傷のように熱くて、跡が消えないようなそんな嬉しさばかりだった。嬉しい、ずっと覚えていたい。それでも、私だって数多くあるうちのひとつでしかない。それでも。……それでも、『特別』と、はなまるをもらえる日はこれからも一生こない、なぜか、そう知っていた。
 世の中にあるもの全部が馬鹿馬鹿しいと思っていたから、だから、何もない白が好きだったし、採点で使われる朱色のインクが大嫌いだった。青白い自分が鏡に映るたび、安心すると同時に、採点している自分に飽き飽きした。
 
 ふわりと、跡を撫でられるような、凍ったところがじんわりと溶けるような。天童が時々私に振りまく、無差別なはなまるが私をめちゃくちゃにする。存在だけで、私の心は赤い跡だかけになる。ふざけた話だ。私だって、自分に付けられたはなまるを憎めなんてしない。目を離した隙にまた影が濃くなる。天童の表情は黒く塗りつぶされてしまって見えない。「みょうじちゃん」名前が呼ばれる。手にカメラが押し付けられた。世界で唯一、天童だけが私の世界を歪めているのだ。よくも悪くも。

「みょうじちゃんて俺のこと嫌い?」
「…………そう見えるなら、むしろおめでたいわね」



「あ。若利くん、若利くん見てよコレ!俺、この写真好きかも」

 その言葉は、私に直接投げられた言葉じゃなかった。わかとしくん____牛島くんに投げられた言葉だ、ともだちとの間の何気ないやりとり。多分天童はそんなことがあったのは全然覚えてないだろう。まぁ、だからこそ腹が立つし、完璧じゃない私なんて気づかないで欲しいんだ、天童に笑ってほしいから。

 たった一言で変わった世界があることに、あなたはまだ気づかないでいて。

20.11.08

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