サファイア逆さまおやすみなさい


「みょうじ、今すぐ風間迎えにこい」
 会話と会話と会話が折り重なっている。どうやら居酒屋からの電話らしい。声にはなにも答えずに、机に落ちた淡いグレーの影を眺める。電話を耳にくっつけたままの私がアホにでも見えたのか、枝豆をむさぼり食っている太刀川がだれからの連絡だよ、と言葉なしに問うてきた。流石にこんな場所の私は飲酒はしていない。これでもか、と店のひとに念を押された、ウーロン茶をストローで吸い上げた。
 まず、最初に聞きたいことといえば。
「レイジさんの携帯なのに諏訪さんの声がするの面白いです。ね、太刀川」
「オマエいま太刀川といんのか?」
「あ、大丈夫です。これから飲み会抜けて、先輩んとこ行きます」
 脇に置いておいた鞄をもつ。幹事にもう会費は払ってあるから一言さえ言っておけば問題がない。多分だけど。
「そんなで平気かよ」
 電話口からの声で、諏訪さんの呆れ顔が目裏に浮かぶ。はは、と軽く笑って明快な答えをさけてしまった。大学近く、チェーン店の居酒屋の灯りに背を向ける。ジィ……という電灯の生み出す白い円を飛び越える。そのままの勢いでボーダー最寄り、21歳の先輩方の溜まり場へと向かう。

 夜というのもそうだけど、紺色とも黒とも境がわからないほどに、今日の空は彩度が落ちている。大学辺りには目に優しくないビビットピンクや視界を乱す傾向イエローやら、ネオンライトと人の会話があるから、そこまで変化は感じない。夜のアスファルトよりもさらに黒いマンホールをグラスホッパーを使う要領でジャンプしてみたり。
「お、きたな」
「諏訪さん、タバコ吸ってるときにこっち向かないでください。けむい」
「おー、おー、今日も減らず口だなァ……」
 全く、と不服そうにいいつつも、ポケットから簡易灰皿を取り出して、そのままタバコの吸殻を落とす。その所作はなんとも様になっているように見えてちょっと腹ただしい気持ちになる。諏訪さんのくせに。ヤンキーみたいな格好のくせに。「諏訪さんのくせになぁ」後ろを歩くときに漏れた言葉にはああ?という母音のみ帰ってきた。
「風間〜、おまえのカノジョきたぞ」
「彼女ではないですね。そこ重要なので。……あ、寺島さんもいたんですか」
「いたよ。風間回収班の隊長さんあとはよろしく」
 言い得て妙だな、でしょ。なんて不毛なやりとりをする先輩方は放っておこう。幸か不幸かレイジさんはちょうど席を外しているらしい。ジョッキーはちょうど4人分。半分残ったビールジョッキーを片方に座っているのが風間先輩だろう。いや、いるというか、むしろ机と一体化しているけれど。背中しか見えない小さな先輩は、意識があるかも怪しいところだ。
「先輩〜、風間先輩〜。起きてますか〜?」
 肩を掴んでゆるく揺するが、先輩は唸り声ひとつとあげない。これはごく稀にあるガチで落ちているやつだろうか。先輩の酔い方は落ちるというよりかは奇行へ走るという表現がしっくりくるので、これは本当に珍しい。
 いつだったか、これまたベロベロによっぱらっている太刀川から「いま風間さんがあ、ポストと闘ってんだけどさあ。みょうじお前どっちにかける?」とかなんとかかかってきた印象が鮮烈だ。それでも不思議な気がする。今までの経験的にみると、こういう状況に陥る前に呼ばれるはず。
「ねてるんですか?」
「いや、正直オマエの彼氏について聞きたくて呼んだ」
「うっわ下世話、諏訪さんとか一ミリも関係ないじゃないですか。なんなんです?」
「レイジが心配してたぞ」
「私、レイジさん大好きです。弟子でよかった……」
「それは……師匠として僥倖だな……」
 わたしの後ろからレイジさんが入室。落ち着いてはいるけれど、頬は赤いしどこか目が据わっている。どうやら、こっちもかなり酔っているらしい。
「風間がどうでもよくなっちまうほどのいい男なのかよ」
「……フツーの人ですよ。フツーに映画がすきで、フツーにご飯食べてくれて、フツーの身長」
「へぇ」
この後には沈黙がくればいいな、と先輩の肩のラインを眺めつつ思う。けれど、そんな私を嘲笑うみたいに、諏訪さんの言葉が続く。温度のない相槌。グラスの中で小さくなった氷が沈んだ。
「風間と全然違うじゃん」
「……諏訪さんに遊園地のチケットあげようと思ってましたけどやめます。三上にあげます」
「いやいらねーよ。誰得だよそれ」
「風間を諦めさすために付き合ってんならやめりゃいいだろ」
「まあ。私は普通の人だよってわかってもらおうと思ってはいますね」
 口の中がからからで、私は残してきたウーロン茶が恋しくなる。こんなことなら太刀川にあげなきゃよかった。そもそもアイツだって連れてくればよかったんだ。早く恋愛話なんて関係ないところまで行きたい。
「つーか、いいかげん折れてあげれば?正直、というか……どう見ても風間も心配してるしそろそろコッチもメンドー」
 寺島さんは一個一個丁寧に枝豆を絞り出すついでにわたしの方を一瞥した。わかってない、全然誰もわかってない。
「相手はA級3位チームの隊長ですよ?恋だとか愛だとか以前に、人間の価値として並ぶか超えてからがスタートラインと思いますが……」
 うっわ、三人の声が重なる。質問者の寺島さん、諏訪さんだけじゃなくてレイジさんまで、眉根をピクリと痙攣させた。やっぱり男は3歩後ろを歩く女が好きなのかな。
 ぶすくれて改めて風間先輩へ視線を投げるとむくり、と先輩が起き上がる。赤い目は焦点があっていない。まだ九時前なのにこれはひどい。とってもひどい。ぼんやりしたまま、風間先輩が口を開く。みょうじ、微睡みのなかでも風間先輩ははっきりと私を呼んだ。
「おまえ、いつカノジョになった」
「なってませんよ」
「…………なんでなってないんだ、いつまでまたすきだおまえは」
「酔っ払いの先輩には宇宙で〜す」
 面倒くさい問いだけ渡して置いて風間先輩は私の手の甲に触れる。酔っ払いめ。
「おまえ、手冷たいな」
「先輩があついんじゃないですかね」
「そうか?……そうだな」
「……ここまでいちゃついておいて付き合ってないの?」
 寺島さんが信じられない、というようにぼやく。なにもしていないのに頭痛がしてきた。いまベタベタしてきてるのは風間先輩の方だし、先輩は私のことがすきだからこうなってもおかしくない。そういう話だ。
「私今彼氏いますからね?」
「いやほんともう、電話でよびだされてんじゃねぇよ……」
「それは電話で呼び出した俺たちにいう権利があるのかどうか怪しくないか」
「悔しいけどこれはレイジのいう通りだよ」
「先輩方好きに言い過ぎじゃないですか……」
 酔っ払い三人なら太刀川一人のほうが扱いやすいのかなあと思った。やっぱアイツも連れてくるべきだったか。それに彼氏がいるのに来るのは最悪、という論調で言われるのは不愉快だ。何回でも言うけど呼び出したのはそっち。
 レイジさんのいうようにそもそも呼び出したのは先輩たちであり、風間先輩を送る気なんて諏訪さん達にはさらさらない。そうなれば私が出張る以外に選択肢なんてないのに。
「それで……私は純粋に先輩回収して帰ればいいんですよね?」
「おーおー、さっさとどっかに消えちまえ」
「諏訪さんは言葉選んでくださいよ」
「オメーの相手は死ぬほど面倒くせえんだよこの遠回りヤロー!ったく、風間も物好きだよなあ」
 諏訪さんのおおっぴらげな言葉に背を向けて、きこえてますよ、と口の中でぼやく。酔っ払いの耳には入らないだろうけれど。風間先輩の荷物を拾い上げて、風間先輩の身体を背中に担ぐ。脱力した成人男性は流石に重い。風間先輩は見た目そぐわず結構、いやかなり鍛えてるし、尚更。
「送られ狼には気をつけてね」
「なんですかそれ……。別に今日は特別な日じゃありませんよ」
「うっるせ、先輩の大人しく忠告は受け取っとけよ後輩」
「充分気をつけろ、いくら風間相手といえど気を抜くな」
 送るために今すぐ来いとか横暴なことで呼び出す先輩たちのくせに、毎度毎度こういうことは念押しする。結局、私たちになにもないことを願っているのだ。
 今日も特別は起こらなかった。私よりひとまわりも小さな先輩を背負って、カバンから鍵を出させて、それで終わり。部屋に上がることが大抵で、時折、夜勤に行くこともある。それでも一度だって特別なことは起こらない。いつもと同じ夜。
「せんぱーい、冷蔵庫のミネラルウォーターもらっていいですかー?」
 冷蔵庫のひんやりとした風を頬で感じつつ先輩に問いかけた。返事は「みょうじ」という私を呼ぶもの。まじで風間先輩今日はだめだな。ミネラルウォーターを取り出して、玄関へ戻る。うつ伏せで床にべっとりと潰れた先輩を発見して、大きなため息が漏れた。こんな風間先輩をボーダーの人間が見たら卒倒しそう、特に風間隊の子たちとか。
 真っ暗の中で先輩の腕がゆっくりと私にのびる。先輩の目は赤く光っていて、その中には私が写っている。みょうじ、先輩の掠れた声が耳元で囁く。目に見惚れていたら全部が一瞬のうち、私は先輩の隣に寝っ転がる。それから、ぎゅう、と抱きしめられて息が詰まった。
「よ、よっぱらい」
「…………今日は、もう帰るのか」
「違いますよ、先輩がずっと動いていないんです。立ち上がれますか?」
「嫌だ、おまえが帰る必要はない、ずっとここにいればいい、あんな男やめとけ」
「ちょっと先輩、潰さないでください」
「俺の方が、みょうじのことを大切にできるだろう」
 特別なことは何もなかった。
 ずっと先輩が言い続けていたことしか繰り返されない。だろう、なんて推定ぶったワードチョイスのくせに、その実、ただ同意を求めるだけのものでしかない。大切にされたいのか、もうわからないんです。先輩の腕にぎゅうぎゅうと潰される。私たちは、多分、どこまでいってもどうしようもない。
「おまえの彼氏は」
 先輩がまた沈黙を破る。私の背中に回った手は離れる兆しが見えないまま。
「笑わなかったおまえをしっているか?」
「知りません」
「……おまえの哲学は、俺には理解し難いがとても綺麗だと思う。それだけじゃ足りないのか?」
 欲しいのは愛の言葉じゃない、そう告げたらきっと、あまりにも欲深いと笑われるんだろうなあ。でも、ほんとうに欲しいのは、私が一番望むものは。
「私が欲しいのは、それじゃありません」
「ちゃんと言われなきゃ、俺にはわからない」
「じゃあ耳貸してくださいよ」
 不満に黙ってから私を抱きしめる腕を緩める。ふたりで寝っ転がっていればフローリングでもぬくい。これを言ってしまったら、きっと『今日は特別じゃない』なんてこと、気にする必要なくなるんだろうなあ。

 どうか、あなたの地獄でおやすみを言わせて。

21.04.13

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