永遠論的クリスタル

「おまえは笑っている方がいい」
 その言葉は不意に落ちてきて、わたしはただ風間先輩の顔を見つめた。昼間の任務前。午前10時。本来なら授業中なのに、わたしと先輩は並んでコンクリートに二人並んで腰をおろしている。突拍子もない言葉に、二回瞬きを繰り返す。どうしてこれから戦うっていうのに、わたしはアホ面を晒しているんだろ。だけれども、先輩はいつも通りの涼しい表情でそよそよと地面を撫でる風を眺めている。
 やっとの思いで「先輩」そうわたしが彼を呼ぶと、赤い瞳が、わたしを映す。きゅう、と心臓が黄色い声を上げたかと思えば、今度は、ふわふわ、と心臓が別の生き物になったみたいに動いてくる。ああ、おかしくなりそう。
「……わたし変でした?」
「そうだな。いつも以上に空回りが鼻につく。せめて笑ってた方が見られるものになる」
 そっちかい。
「ときめき返してください」
「嘘つけ、微塵もそんな素振りではなかっただろうおまえは」
「風間先輩も大概ですね」
 不満げに言葉を吐き出す。それだけじゃ口が寂しくて、先輩のネクタイを引っ張ってやった。唇が重なる。キスをするのは不意打ちでできるけれど、終わりは頭がふわふわしてしまう。古典的な、行きはヨイヨイ帰りは怖い、かもしれない。先輩に行ったら怒られそう。わたしの方が身長が高いせいで、今まで散々周りから揶揄われたけれど、これはこれでありかも。
「ここは学校内だぞ。加古や二宮もいる」
「……やめれます?万が一に、やめて先輩は何してくれるんですか」
 赤い目がぎゅっと細まる。沈黙は肯定のサイン。勝手にそう判断して、もう一度顔を傾けた。ぱらりと髪が落ちたけれど、それにかまっていることすら出来なくて。触れる直前、先輩の口がわたしの名前と同じ動きをする。先輩の指先が頬を通って、目尻を過ぎて、髪をかきあげていく。あったかい軌跡がわたしの頬に宿る。
「なんですか、て、わ」
 問いかけに先輩は、わたしを腕の中に引き寄せてくる。突然バランスを崩したから、腕は近くのコンクリートを敷き詰めた床で、かろうじての身体を支えた。
「……言っておくが、煽ったのはおまえのほうだからな」
「風間先輩?」
「おれはおまえが好きだと何回言えばわかるんだろうな」
「……何する気ですか」
 わたしのうわずった声に、先輩は「そうだな」とふっと笑った。ああずるい、ずるいなぁ。わたしたちの頭上で、木々が揺れる音がする。まるで世界でたった二人だけになったような気さえしてくるのだから手に負えない。先輩だってわたしの気持ち全然分かってないでしょ。
 あったかい手のひらがわたしの首裏に回って、そのまま先輩の唇がわたしものと重なる。すぐに離れていくと思った、のに、先輩はしつこくてわたしの薄く開いた唇から舌を捻り混んできた。コンクリートに落ちたわたしと先輩の影法師はどっちかどっちかなんて区別ができないぐらいに混ざり合ってた。
「……せんぱい、きす、しつこい」
「そういうのが好きなんじゃなかったか」
「それは言ってません」
「次は善処する」
 その言葉を吐いた唇は再びわたしに近づいて、分かってないじゃないですか、というわたしの言葉は全部先輩の唇の中に吸われて消える。目を閉じ損ねたせいで先輩の赤い目の中にわたしが写っている。ああ、いやだ。やっぱ先輩には敵わないや。わたしの目元は幸せそうな皺を描いているんだから、隠しようがないじゃない。
 集合時間まではまだ時間があるから、今日ぐらいは許してほしい。誰かに言い訳をして、わたしはまた瞼を閉じて先輩のキスに身体を沈めた。



 せっかくの日曜日なのに、寝たのは時計の針が2を回ったところだった。9時、正確にいえば9時55分に起きても、全然よく寝た!という解放感はない。してこない。
 休日の朝遅くにふたりでおきるのもすっかり板についてしまった。でも夜が長くなってしまったせいで、朝の開始が遅くなっているのだから仕方ない。そしてそれは全部、先輩のせいだから、どうにかしてほしいものだ。ベットの隅に転がったまま「昔はキス下手くそだったじゃないですか」と続けてみる。キスというか、感情表現全てがおかしかったような気がする。普通は付き合ってない相手とキスはしないし、いくら後輩でも母親の見舞いに通ったりしない。いくら後輩からあからさまに好きだという確信を得ていたとしても、だ。
「いつもどうして急なんだ?」
 横着して洗面所がわりになっているシンクと向かい合っていた蒼也が振り返る。唇の端に白い歯磨き粉が付いている。ちょっと間抜けな顔をしている蒼也が、なんだか愛おしかった。こんな抜けてるところを見せられて喜ぶなんてどうかしてる。わたしの笑う顔を見て蒼也は、こめかみを抑えた。
 蒼也は、わたしの笑った顔が好きって言ってたのに、変わってしまったんだろうか。たった一つの所作でそういう不安が肺を満たす。面倒くさい女すぎる。けれど、記憶を辿ると笑った顔が好きだと言われたことはない。無表情よりも笑っている方がわたしらしいと評されただけだった覚えがあるもの。
「キス上手くなったよねって話でしょう」
「いつの話をしているんだ」
「高校生の時……わたしがことし20で、蒼也いま21だから……え〜と……」
「およそ3年前だな」
 わたしの遅い計算に、蒼也はため息を吐いて答えを掲示する。そうか、もうそんなになるんだなぁとひとり頷く。朝の歯磨き粉を終えた蒼也がわたしの隣へ腰を下ろす。せっかく起きるモードに移行したのに、ベットに座ってしまっては困るだろうに、動く様子は見られない。
「蒼也」
 呼ぶと、赤い目がわたしに視線を投げてくる。蒼也の小指に人差し指を絡める。それから蒼也、甘えるみたいにもう一回名前を呼ぼうとしたのに、それは敢えなく不発に終わった。背中が軽く上下に揺れる。スプリングをきかせているのはどう考えてもわたしにまたがる蒼也が犯人だ。
「朝ですよ……?」
「そうだな、朝……厳密にいえば午前10時だ」
「昼のが近いです」
 わたしの言葉に「ああ、その通りだ」といつものボーダーの風間隊長の顔で頷く。そろそろシフト表を組み終えなきゃって言ってたでしょ。ローテーブルに置かれた無機質な黒いノートパソコンに視線をやる。なんとなく、口にするのは憚られたので。
「煽ってきたなのはそっちだ。俺にはおまえをどうにかする権利がある」
「らしくない無茶振りやめてください。起きてすぐお酒飲んだんですか?」
「酔っ払いに見えるか?」
「だったらどれほど楽だったでしょうね」
「じゃあ観念しろ」

 首筋に蒼也の顔が埋まる。首のカーブのところにちょうど綺麗に蒼也は額を当てる。火照った身体には少し冷たい。

「でも、昨日、散々したとおもいます」

 蒼也の方を見ていたらそのまま流されてしまうのは明白だ。だって先週も先々週もその前も、ちゃんと付き合い始めた時だってそうだったんだから。そっぽを向いて、なけなしの抵抗を試みる。耳に何かが触れて、肩が跳ねた。え、なに。首から背中のあたり、脊椎のあたりがゾワゾワして思考も乱れる。ああ、これ唇だ。耳にキスされた。

「……本当にしなくていいのか?」
「してから聞かないで」

 多分今の私は耳まで真っ赤に染まっているんだろう。でも、どうしろっていうの?蒼也がわたしの身体を仰向けに戻す。深い赤のおもざしががわたしにまっすぐ落下する。

「キスなら押し倒す必要性ないでしょ…」
「いや……それはあくまでついでだ」
「どういう意味ですか、それ」

 要領の得ないわたしに、これみよがしにため息をついた。なにもそこまで露骨に嫌そうな顔をしなくてもよくないですか?菊地原や歌川や三上には見せない、蒼也の素の表情。すきなひと、というか、常に鋼鉄の表情筋を持つ人だから、嫌そうな顔はレアってことで、うれしいっていうか。

「変なこと考えずに、こっちに集中しろ」

 視界いっぱいに蒼也の顔が広がる。見下ろされるのって、ドキドキする。蒼也はわたしよりも身長が低いのもあるけど、なんだろう。せんぱい、口から懐かしい呼称が出た。数ヶ月前まで先輩先輩先輩、風間先輩、と呼びかけてはついて回っていたのに、今じゃなんか照れくさい言葉に思える。意地悪な表情は氷みたいに解けて、蒼也もふっと力を抜いて笑う。名前を呼ばれる。優しい手のひらがわたしの前髪を梳く。だいすきです。
「先輩も、蒼也のことも好き」
「……おまえがそんなにストレートに好意を口にするのは珍しいな」
「ふふ。だって、いつもいっぱいもらっているので」
 優しい手につられて、わたしも笑みを深める。蒼也に触れられるたびに、心臓は新しい生き物になったようにきゅうとひと鳴きする。わたし、この人と出会えて幸せだ。
「……昔は、いえなかったんだが」
 締め切っていなかった窓から、強めの風が吹いて、ふわり、とレモンイエローのカーテンが広がる。窓枠には美しいスカイブルーが収められている。「そうやって、笑っている顔が好きだ」まるで、なにも失われなかったような、完全な世界の中でわたしは蒼也の首に手を回した。いつかのように、わたしたちの区別がつかない影が、淡いカーテンに映っている。

 午前10時のキスは、ミントの味がした。

21.11.03

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