デザートローズは雨を謳う
雨が降る。砂漠にも雨は降るから、わたし達の街にも雨は降る。当然の話。
帰りたいと思う場所を無くしたのはつい最近のことじゃあない。わかってる、『帰る』という形容が正しい場所ならわたしとて持っている。帰ろう、と思うのに、傘もあるからなんの心配もないわ、と笑って見せるのに、何も足は全く動かない。ねえ先輩、帰りたい場所に帰る理由は雨の日の窓辺に置いておいて欲しい。
地面の匂いの輪郭がはっきりしていく様をぼんやりと見つめていた。なんだっけ、と口が嘯く。ああ白々しい。嫌になるほど真っ白だ。忘れたいことは今までの人生たくさんあったけれど、満足に忘れられたことなんかどこにもないのに。わたしは濡れたアスファルトから視線を逸らして、ゆっくりと神社の方へ進んだ。車通りの多い場所なのに、数歩歩いただけで、あっという間に音が遠のく。空の代わりに新緑が満面に広がっていて、風とささやいている。さらさらさら。音に耳を傾けているだけで、なぜだか生きているような気さえした。一日三回の食事。七時間程度の睡眠。家賃、学費、仕事。何もかもが木々に吸い込まれて、ただの微量な二酸化炭素と酸素に変換されゆく。ずっとこのままなら、きっと永遠になれる。永遠なんか誰も知らない方が幸せだろうし。止めどなく雨が降っている。どこに?わたしの心臓の中で。
円の終わりを目指す記憶と、二酸化炭素の中で終わりをまつ心臓。全部が虚構で空想だ。
大きな木に手を添える。ゴツゴツしていて、手触りの悪い木。大きくて緑色で、死んでいるように生きている。雨音を唄うように時々細い枝先を揺らす。踊っているようにも見える。小さな小さなコンサート。誰も気に留めない。小さくて、幾重にも折り畳まれた永遠。わたしの脳裏に小さな背中がすぎた。先輩の横顔、落ちた視線。それから。
「迷子か」
やけに馴染みのある声だった。わたしはゆっくりと顔を上げる。
「風間さんこそ、雨の中傘もささずにこんなところまでどうしたんですか」
「どこかのアホが帰れていないんじゃないかと思ってな」
「太刀川ならまだ本部ですよ、アイツ『今日夜勤だー』って。レポートやってないですよ、十中八九」
赤い目がわたしだけをじっと見ている。泣きたかった。どうしようもないから、ここに永遠があればいいのに、ともういっかい同じ願いを繰り返す。
「帰るぞ、おまえは明日もやることがある」
「いま明日のこととかどうでもいいんですけど……」
「またおまえは意味わからんことで悩んでいるのか。迅でも連れてくるべきだったか」
「え、どうして」
先輩は心底呆れたというようにため息をついて、大きな木に背中を預ける。
「俺におまえの思想は重すぎる。パソコンなら処理落ちしているだろうからな」
「風間さんは機械じゃないでしょ」
「…………おまえの方へ寄ったらこう言われる」
「無理しなくていいですよ風間さんは風間さんでいてくださいよ。っていうか変わっちゃったらわたしが風間隊のみんなにボコボコにされますよ」
「そんなことはないと思うが」
いまいちピンと来ていないのか首を捻る先輩にわたしは顔を歪める。可愛がっていて、尊敬されていて、お互い信頼関係が強固。わたしには眩しいのに、その光の中にいるとわからないものなのかな。
「ありますって。菊地原は確定だし、ああ見えて遼もかなりの風間さんのこと尊敬してますよ。かなりっていうか正直びっくりするほど」
「誰もおまえには言われたくないんじゃないか」
「え、わたしそんな有名ですか?言うほどじゃ……」
「諏訪と木崎の談だ。寺島も概ね同意という顔をしていたな」
「いや酒の肴にしないでくださいよ」
いつものメンバーの飲み会でいじられているだけならそれは所詮ちょっとした話題だ。わたしと風間先輩が関わっているのを見たことがあるボーダー隊員は意外と限られる。先輩は先輩で忙しいし、わたしは隊に属していないからそういう話題と基本的に縁がない。
「事実じゃないのか?」
「答えづらい質問やめてくださいよ、そりゃ尊敬してますけど」
「そうか」
「なんかわたしだけ恥ずかしくないですかこれ?なんか普通にずるいし」
「俺も疑問に思うことぐらいある。例えば今まで先輩先輩先輩やかましかった後輩が突如風間さんって呼び出すとかな」
赤い目がわたしにめくばせを送る。風間先輩らしい言い方だ。端的。直球。だからわたしも「ピンポイントだなあ」と笑うことしかできないから、先輩の視線を甘んじて受ける。わたしの返答に満足したのか風間先輩はわたしの右手を取る。帰るか、と小さくつぶやいた先輩の横顔は昔と全く変わっていなくて、一瞬いまがいつなのか分からなくなった。
「どこに帰るんですか」
先輩が傘を開く。花が咲くように、鮮やかな青が広がった。知らないうちに風間先輩に傘を取られていたらしい。
「おまえが帰りたい場所がないなら、ついてくればいい」
「……傘貸すのでチャラですよ」
「ああ、半分だけ間借りする」
◇
雨が上がるまでの時間のつもりだったのに、雨はいつまでも止まなかった。知らない浴室で、わたしの家のものとは違う湯船に体を沈める。わたしたちのボーダーラインは水面に乱反射する光よりも曖昧だ。特に濡れていないのに、風間先輩はどうして入れと言ったのかがわからない。
「すみません、お借りしてしまって」
「いや、気にするな」
「服お借りしてよかったんですか?サイズ的に先輩のじゃないですよねこれ」
「…………そうだな」
「諏訪さんあたりですか」
それには答えがなくて、やっぱり、と口の中で呟く。沈黙は肯定だと思おう。シンプルな黒いアウターはどう見ても風間先輩には大きすぎるもの。わたしの反応には構わず、先輩はわたしの手をおもむろに握る。
「風間さん、どうしたんですか」
「よし、ちゃんとあったまったな」
「え、あ、はい」
「さっきまで死人のようだったからな、よかった」
先輩の横顔が、頭の中でぐちゃぐちゃになる。深く考える横顔がほどけて、安堵の色に染まる。照明から広がるオレンジの光はわたしたちのいる床までくまなく伸びている。あ。風間先輩の短い黒髪で透明な水滴が光る。
「風間さん、髪の毛乾かしてないんですか?」
口に出してから、ふと気がついた。短い髪なのに、まだ乾いていないなんてことあるんだろうか。
「乾いてなかったか」
「人には風邪引くとかなんとか言っておいて、風間さんがそれじゃだめじゃないですか。ドライヤーとかあります?」
「ないな」
「もー、じゃあタオル借りますよ」
近くの洗濯物の束からタオルを拝借する。近くに転がっているコンビニの袋を踏みかけたので、机の上に戻しておく。中にはレシートがあったから、念のため。ねえ先輩。先輩ってほんとに。
風間先輩の頭の上にタオルを乗せる。どう切り出せばいいのかわからなくて、いつ帰れるのかもわからなくて「風間先輩」と呼んだ。
「わたしが死ぬなら雨の日がいいですね」
「……雨だと何かいいことがあるのか」
「自分の感情を出すのが下手くそな人がいるでしょ?」
雨の日なら、顔が濡れていてもそれが涙か雨粒かわからない。何もできない理由は喪失じゃなくて全部、低気圧のせい。ちゃんと悲しめる。たとえどんな死に方をしたって、どんな遠い土地へ行ったって雨の日にはそこが墓地になるの。ねえきっとこれは素敵でしょう?そうだって言ってよ。
「泣きそうな声で言われてもな」
「別に、ないてませんけど」
風間先輩の髪からは雨の匂いがした。
「俺はおまえの棺にはならないが……。この先は、おまえがよく知ってるだろう」
そうですね、の代わりに嗚咽の鳴り損ないが落下した。
21.05.23