夏は青い

 指先から、睫毛のさきまでぼんやりとした温かさが私を包む。輪郭の滲んだ瞼の裏は目には優しくなんてなかった。けれども、君がいま、どんな表情をしているのかは分かる。しらぶ。私の口からふわふわぐにゃぐにゃの声が聞こえる。

「今日の賢二郎は、月みたいできれいね」

 白布がため息をついたように見えた。

「俺が、お前を太陽だとか、そういうものに例えるとでも思ってる?」

思ってないよ。思えないし、もしも白布がそんなこと言ったらさ、ばか、って笑ってあげるから。とびきり、やさしくしてあげるよ。


 ゆっくり瞼をひらいた。視界は全部、黒いシャツだけ。夏なのに、いや、夏だから私も白布も暑くてたまらなくて、それでもあと少しだけこのままでいたい。制汗剤のにおいが鼻にすうっと通った。ほら、やっぱり君は正直でやさしい。

 無茶ぶりをしたって許される、なんて思っているわけではない。白布賢二郎という男は性格上、並びに彼の行動論理上、嫌なものにははっきりと感情表現をするからだ。

 例えば、いつまでも仲良しこよしの幼馴染でいられると思ってるんですか、とか。涼しい色をした瞳と、よどみなく吐きだされた無色透明かつ、無味乾燥な言葉。

 多分彼のそれに「正直」という表現はきれいではあるだろうが、やさしさと呼ぶにはあまりに四角形と似すぎている。メッセージアプリを開きながら、白布とのトークルームに「勉強キリなくて泣きそう」と打ち込む。薄目でメッセージの下に表示される文字をにらむ。既読の文字はない。

 教科書をスマートフォンと間に挟んだまま閉じる。体のいい栞だってことにして、メッセージの行く末を見ない振りした。

 図書館の窓枠の先はもう地面まで紺色に染まっている。窓はすっかり鏡のように私の顔を映しているだけだった。まばたき二回。目を凝らすと、ガラスの向こう側でチカチカと危なっかしく街灯が灯り、アスファルトを白く照らしているのが見えた。もうすっかり夜だなって。

 部活優先、大いに結構だ。好きにすればいい。好きにする方が白布にはぴったりだと思うし。言い訳じみた言葉が脳内でとぐろを巻いている。
 既読の文字なんてどうだっていい。それでも、私が白布に無茶ぶりを続けるのなんて、もう半分以上が意地ばかりだった。こんなんだから顔を合わせればいつだって拗れる。

 薄っぺらな紙に閉じ込めただけでは、バイブレーションは隠せなかったらしい。教科書の白い表紙にてのひらを重ねる。いち、に、さん。三秒数える頃にはてのひらは、教科書の表紙のつるつるした感触だけだった。これが白布からの着信だったら拗れるなんてものじゃない。その点では助かったかもしれない。

 機嫌を損ねた白布の険しい眉間だとか、荒れた言葉だとかを思うと、最後に真っ向から喧嘩をしたときが思っていたより遠くだったことに、驚いた。奥歯をかむ、図書館内は私語厳禁なので。
 指を隅に引っかけて、スマートフォンの画面を明るくしようとした瞬間に、考えてもいなかった言葉が大きくなる。
 さっきの通知が必ず白布だっていう確信なんかない。白布は大概こういう連絡ツールを使わないタイプだし。これで、どこぞの企業からのメッセージだとか、ただの両親からの連絡だとか、クラス連絡だとか、その類だったら、どうしよう。

 途端に怖くなって、私は白い表紙から目を背けた。半ば投げるように許可書を手放したせいで、シャープペンシルがコロコロと転がる。

 青いシャープペンシル。図書館の横にばかり長い机を転がって、そのまま斜辺だけを描いて床に落下した。

 前にかがんでシャープペンシルを拾う。意味もなく、剥げた側面に指を添わせた。そうか、君とはもう丸々三年の付き合いになるのか。センチメンタルな語りをシャーペン相手に繰り広げる私をみたら、白布だけじゃなくて同級生連中だって大笑いするんだろうな。
 消しゴムにかぶさった淡いブルーのキャップ。消しカスとかいろいろなもので汚れ切っていたけど、相変わらず彩度は高いまま、透き通っている。
 白布が使っていたあの頃と何も変わらない、改造もしてなきゃ消しゴムだってつかっていないんだから当然だ。でも、その変わらなさに救われている。がんばらなきゃ。こぼれた言葉はさらさらのスポーツドリンクみたいに、私の身体に吸い込まれていった。
 閉じてしまった教科書を開いて、新しいルーズリーフを一枚取り出す。スマートフォンは伏せて、机の隅っこに置いておいた。ここ、ここがちゃんと理解出来たら、そうしたら、白布にメッセージを送ろう。コンビニでスポーツドリンクでも買って、何食わぬ顔で電話をかけたっていい。


「賢二郎のシャーペンと交換して」

 そう切り出したとき、白布__賢二郎は特にお小言を零さなかった。晩夏の、真っ赤な夕日と、ぞっとするような影がまとわりついた日だった。廊下で偶然すれ違った私は、賢二郎の制服の袖を掴んで、脈絡のないワガママを口にする。手は震えていない。視線も合わない。

「……とりあえず、手離せ」

 はあ。大きなため息。そうやって仕方なくのポーズをとったくせに、賢二郎のてのひらが私の手の甲を覆った。ちゃんと話聞くから。声変わりしたての聴きなれない声と、よく知っている賢二郎の言葉。目の奥がじわりと熱をもつから、賢二郎の肩に額を寄せた。

 あの時の賢二郎はどんな顔をしていたんだっけ。あがり症のわたしに見かねて、受験期に聞いてもらったワガママ。

「好きにしろよ。勝手にベソ書かれる方がよっぽど厄介だから」
「私のことなんだと思ってんの」
「泣き虫、ビビり、いつまでも手がかかる、とてもじゃないけど年上とか信じられねえ」
「もっとやさしい言葉選べないんですかねえ、賢二郎くんは……」

 顔をこっそりと伺う。賢二郎の色素の薄い榛色の目が二回瞬きをした。私の視線とまっすぐぶつかる。言葉を飲み込みかけて、それでもやっぱり口を開く。

「家にリンゴゼリーあるけど、食う?」

いじわる言ってごめんね。ちゃんと、全部、わかってるよ。

「ウン、食べる」

 世界で一番やさしいけど、間違いなく、あの夏の終わりの賢二郎は世界で一番、不器用だった。


 そういえば、まだ夏だった。遠い日の赤さはもうどこにもないけれど、今日だって同じような背中にじっとりと汗をかくような、そんな晩夏だった。

「連絡するなら途中で投げるな」

 前髪が額に張り付いていた。目の前に出た男は息が荒れていた。私をみて、不機嫌そうに顔を歪めて、手首をとった。もしも、不格好な前髪を指摘してやったら白布がどんな行動をとるのかなって思った。昔と同じだったら、きっと。

 それを確かめる気力はどこにもなかったので、私はせいぜい大人ぶって「白布じゃん」と笑ってやる。
 白布の口はまっすぐ引き結ばれたまま、これっぽっちも面白いことなんてない、と言外に語っていた。らしさ、全開の白布に私は両手を上げてコミカルに白状する。だって。子供みたいな言い訳。

「白布が見てくれるか自信なくて」
「……俺はそこまでお前のメッセージを無視した覚えはない。勝手に被害妄想膨らませた挙句自己完結してんじゃねえよ馬鹿」
「なにもそこまでボロクソにいうことないでしょ」

 色素の薄い目が険しくなって、そのままふい、と視線を外された。

「……お前、国語得意だろ」
「それとこれは一切関係ないから。いずれ皆死ぬっていったとしても、それは哲学じゃなくてただのクソガキ発言だし、それはただの事実なんだってば」

 正論を吐いても涼しい顔で、知るかよ、って白布は返す。私の歩幅に合わせて、夜の路地を歩く。アスファルトのせいで、四方八方が夜だった。時刻19:43分。

 夜と呼ぶには気が早すぎる。どんな良い子だってこんな時間に眠る子は片手で足りるほど。でも、街は眠っていて、私と君だけがまばたきをしているような錯覚が、した。アスファルトを踏む足が現実感を失う。側溝の汚れたグレーだけが場違いなリアリティを持っているなんてどうかしている。

 遠くで踏切の音が聞こえた。なんとなく駅の方向へ向かいながら、この次の電車に間に合わなかったら、どうしようかな、と思案する。

「……門限とか平気なの?」
「ランニングだって言って出てきたから。万一、怒られてもお前のせい」
「なんでよ」
「どう考えたって、お前がこんな時間まであの図書館で勉強してんのが悪いだろ」
「真面目な受験生に向かって失礼な奴」
「図書館ならそっちの高校の近くにもあんのに、なんでここなわけ? わざわざ来る必要あるか?」
「それいったらさあ、元もこもないから。何か目的があってここに来ているのかもしれないって、考えたりしないの?」
「しない。一応そこは勉強すんのが目的だって言っておけ受験生」

 つま先とアスファルトに1センチの隙間を作って、意味もなく揺らす。頭上から降り注ぐ街灯の明かりは真っ白で、蜘蛛の糸のように私たちにまとわりつく。
 はあ、と白布が大きなため息をついた。ため息がつきたいのはどっちだって同じなのに先にするのはズルい。

「ちゃんと水分摂れよ」
「ほんと君は私のことなんだと思ってるのかな。こんなんでも年上よ」
「こんなん、の自覚があるなら大人しく受け取っとけば」

 コンビニの袋が押し付けられる。他人だ、みたいな表情をすることの方が増えたのに、ときどき、こうやって昔みたいに私に都合が良くて、きまぐれな幼馴染面をする。そのたびに心臓がおかしくなりそうなる。やめて。嘘、やっぱりやめないで。

 私たちのつま先の間に横たわる境界線の上で、手が重なってまた離れる。金星と地球みたいに不規則だとも規則的だとも形容できないように漂う。

 風が私の持つビニール袋を揺らす。角で私たちは停止した。道路の記号に従ったんです、という真面目なふりをしながら次の言葉を探している。この角を左に行けば駅で、このまままっすぐ行けば白鳥沢。

 白布は口を開いた。送ってく、という言葉にありがとう、と返す。そこで会話は途切れる。
 アスファルトの上では足音は目立たないけれど、私のカバンとビニール袋が衣擦れだけを鳴らしている。紺色の夕闇にぽっかりと浮かぶ白い街灯に照らされた横顔を見た。

「何」
「今日ってなにか特別な日だったっけ」
「全部を言語化しないと駄目ってわけじゃないだろ。普通に、ある」

 普通。白布の言葉をリピートする。

「お前は他人じゃないとかそういう腹の足しにもならないことを言ってほしいなら考えとく」
「あはは、それ絶対言わない人のセリフ」

 輪郭を白い光がなぞっている。温度のない表情をしていた。半分以上影のなかに収まった顔の色は判断がつかない。

「でも一回でいいから、白布から無駄にロマンティックな言葉いわれてみたいよ。あ、そうだ、お手本でも見せてあげようか?」

 白布が一歩踏み出す前に、白布の前に立ち塞がる。私の黒いローファーは白布の薄いグレーの陰に飲み込まれる。私たち二人分の頭と下半身、どちらの影も重なって溶けた。

「今日の賢二郎は月みたいに静かできれいね」

 額に張り付いたままだった前髪をはがしてやる。私の右手ひとつぶんの空白。鼻先が掠めた。今のがお手本だよ。囁いてもよかったけど、それは、やめた。

 ねえ、仲良しこよしの幼馴染じゃないなら、わたしたちは何になろうか。何にだったらなれるんだろう。

「俺が、お前を太陽だとか、そういうものに例えるとでも思ってるのかよ」

 思ってないよ。思えないし、もしも白布がそんなこと言ったらさ、ばか、って笑ってあげるから。とびきり、優しくしてあげるよ。
だから、私にもやさしくして。


 明るい構内は目にやさしくない。赤と緑、無人駅。ふたりきりの夏の駅からは蝉の声は聞こえなかった。きっともう夏が終わる。

「飯はちゃんと食えよ。なまえのことだから夏バデとメンタル不良起こしてんだろ、例にもれず」
「……この発言は仲良しこよしに換算しないの?」
「これはもう癖だから」

 視線に促されて、ビニール袋のなかをみる。タッパー。中身はりんご。ウサギのかたちをしたりんごに私は笑う。

「かわいい」
「食えよ?」
「ウン、食べるよちゃんと。ありがとう」

 電光掲示板のなかで「もうすぐ電車がきます」と赤く点滅する。改札口のすぐそばで立ち尽くしている私に白布は何も言わなかった。やめよう、ともいわなかった。それ以上でもなきゃそれ以下でもなく。

「……私さ、こんがらがってるの嫌いじゃないよ」

 不意に視線が外される。白布が唇をなめた。いつかと同じように言葉は飲み込まれてしまうかと、指を丸める。

「それは、俺だけ?」

 じっとりとてのひらは汗で濡れていた。いかないで、なんてかわいげのある言葉はなかったけれど、熱っぽい手の甲が私の力の入った手とぶつかる。指先に血がめぐる感覚がしている。

「そう。賢二郎、君ひとりだけだよ」

 君は私のこと太陽だって言ってはくれない。瞼の裏、睫毛の先だって喉の真下だって熱くなる。けれども、これはこれで、なんか太陽みたいじゃない? 最後の言葉に君が馬鹿だなってちょっとだけ頬を緩めた。わかるからね、そういうの。

 でも、そうだね、せっかくだし全部夏のせいにしておこう。

21.08.25

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