君の足跡が見当たらない
「なんでも話してね。絶対に、君の力になるから」
彼女へ誓った言葉。2年経った今でも良く覚えている。冬の近い、喉を凍らせるような、そんな秋の曲がりがとだった。夕闇の中はっきりしない景色の中で、鳩原が見せた小さな微笑み。それだけが忘れられない。私は君に言いたいことが過不足なく伝わったんだと思っていた。一世一代の誓い。まるで告白みたい。好きとはいわなかった。私達はいくつもいくつも色づいた落ち葉を踏みしめた。けれど、好きとは言えなかった。ただ、ふたり手を握ったまま。
「鳩原、テスト近いし一緒に勉強会しようよ」
軽やかなグレーが似合う季節だった。中間服を着て、セーラー服のスカーフの赤ばかりが目立っていた。同じ歩幅で歩きながら、揺れる鳩原の髪を盗み見る。この時間が一番好きだ。帰り道、緩やかな坂を辿りながら、鳩原とすごく近い未来の話をする。
「いいよ。連休中3日以外空いてるし。あ、まあちょっと防衛任務入ってるけどそれぐらい」
「3日?なんで」
「ほら犬飼くんの……」
幼馴染の名前が出て、ああ、と頷く。それは仕方ない。先約だし、鳩原たちのチームがそういうものを大切にしていることは知っていたから「じゃあ4日はどう?」と笑った。鳩原と一緒ならそれでよかったから。
「あ、ごめん。その日はスナイパーの合同訓練だから無理そう」
「そっか、じゃあ5日ね」
「ごめんね」
鳩原が謝ることは珍しいことじゃない。でも、ごめんねのトーンが心臓に引っかかる。さてはなにか隠し事があるな。鳩原の顔を覗き込んで私は、こら、とデコピンした。
「なんでも話してってば。またなんかひとりで全部抱え込もうとしたでしょ。どんなことでもいいよ、ね」
「…………ごめん」
「いやだからそういう……ああもう、今度勉強会するときにちゃんと言うこと!」
約束、言葉にすると幼い子供のように聞こえるから、音にはしなかった。鳩原はふっと力が抜けたみたいに笑う。それで全部許せてしまった私も大概だけれど。
暗い雰囲気を壊したくて「さっきの話はこれでおしまい」と微笑見返す。私はカバンから青い音楽プレーヤーを取り出した。
「ね!新曲出たの、イヤホン貸すから聞いてほしい」
ピアノが綺麗でさ、なんて笑いながら鳩原に右の方を渡す。
「あれ、ミュージックプレーヤーいつもと違う?」
「流石鳩原、大正解。これ誕生日プレゼントでね。音質がめっちゃ良い、最高。……とはいえ昔のどうしようかなって思っててさ、壊れてはいないし扱いに困ってるんだよね」
「……それ、あたしがもらってもいい?」
再生ボタンにかかった親指がぴたりと静止する。鳩原の顔を見つめる。瞳に映った私は薄く口を開けて間抜けな顔をしていた。駄目かな、と目を伏せる鳩原を捕まえるみたいに、肩を掴む。そんなことない、そんなことないよ。
「鳩原がもらってくれるならそれが一番!嬉しい、なんか、こういうの照れるね」
「大事にするよ。なまえみたいなものだと思う」
「なにそれ」
「……よく考えてみると、あたしとなまえってそこそこつるんでるのに、プリクラもお揃いのものもなにも持っていないなー、って」
「じゃあ、私のこともプレーヤーも大事にしてね?」
お守り代わりだったピンク色のプレーヤーを鳩原の手に置く。持ってきてたの。言い訳みたいに笑う。鳩原ならいいからさ。他の誰でもなくって鳩原なら。
◇
「鳩原未来、ボーダークビになったってマジ?」
冷や水を浴びたような心地だった。鳩原の控えめな微笑みが脳裏に映る。目を伏せて、口元にそっと笑みを称える。暑い日も寒い日も肌の色は変わらなくて。けれど、ときどき、私と秘密話をするときあのね、という言葉と共に耳にかかる柔らかな吐息が好きだった。
そろそろ衣替えね。今年でセーラ服ともおさらばか。来年はどこで季節を感じるのかなって言ったとき。3日は澄晴の誕生日肉なんだ、じゃあ4日は会える?なんて対抗心丸出しで提案したとき。鳩原は、どんな顔をしていたっけ。しらない。私の口から漏れた言葉。信じられないほど霞んでいた。はらはらはらはら、音が落ちていく。
「お前、仲良かったからなんか理由知ってると思ってた」
全部錯覚だった。その証拠に私は鳩原の微笑みしか思いだけない。目が、思い出せない。ねえ、どんなふうに目を伏せたんだっけ。冴えないんじゃなくて、優しいあの声。ねえ、忘れちゃうから、お願いだから私の名前を呼んで。
鳩原。声にならない。呼んでも返事はないから、喉の中にしこりにようにはとはら、がはらはら積もっていく。身体は何も異常がないのに、空虚さばかりが広がっていく。私の胸に、脳に、肺に、脊椎に大きな穴が生まれていないのがおかしかった。鏡に映る自分の浮き出た肋骨を撫でる。ああ、酸素が足りない。酸素だけが、足りないの。
どうして、どうして、どうして?
頭を振りかぶる。無意識に任せて漠然と街路樹を眺めていてはいけない。アスファルトを踏みしめる自分の足元を見つめながら、闇雲に歩く。
行き止まり。視線をあげる。犬飼。見慣れた表札の掲げられた住宅の前に私は立っていた。インターフォンを押す。しっくりくる動作に私は泣きたくなった。
名前が呼ばれる。「澄晴」とだけ呼ぶと60を数えるより先に鍵が回る音がして、澄晴の柔らかい茶髪がのぞいた。澄晴の周りだけが明るい。光に背中を向けた澄晴は笑い飛ばしたくなるほどにアンバランスで。
「澄晴、鳩原がどうしているか知ってるんでしょ。教えて」
「……知ってどうするの?」
澄晴のローファーも私のローファーもくたびれている。泥と皺の寄った様は多分、今の私達のために用意されたようだった。全部、フィクションならいいのに。ここが壮大な劇場で、息の吸い方一つに意味があるのならば。
「どうって、どうでもいいじゃない。連絡先でもいい、お願いだから、教えて」
「悪いんだけど教えられないんだよね。ま、とりあえず上がってけば?」
光から澄晴が一歩出てくる。私の手首を捕まえてから「ごめん」と謝った。ごめんって何。鳩原は?するりと喉から出た。澄晴が私を玄関に引き入れる。
「なんも教えられないけど、一個だけ渡すものがあるんだよね」
ちょっと待ってて。という言葉に頷いて、私は玄関先で腰を下ろした。靴を脱いでいるふりをしながら、澄晴を待つ。
「はいこれ、なまえの。見慣れたやつだったからそうだと思うだけど」
私が鳩原に渡した音楽プレーヤーだった。とっくの昔に型落ちしたもの。新しいものを買ったし古いものはパソコンにある。でもネイバーの襲来とか受験とかそういう色々なものを一緒に過ごしてきたプレーヤーは捨てられなかった。でも持っていても仕方ない。「もらってもいい?」控えめな鳩原がそう問いかけたから。古いCDの音源はそちらに入れたままあげた。私の大切ば歌を聞いて欲しかったから。そのまま。側面がすこし禿げたピンク色のプレーヤーを握りしめる。
「…………あげるって言ったのに」
なんでそんな話になったんだっけ。ふと、プリクラも寄せ書きもツーショットもお揃いのものもなにもないねって笑った鳩原を思い出す。だから、私は。こんなのていいの?って確認とる私と、これがいいって頷く鳩原。ねえ本当に笑ってくれてた?あの日、君は笑ってたっていう記憶が信じられない。
思えばあの時から決めてたのかもしれない。私の目の前から消えることを。だから、身代わりを欲しがったのかなあ。自分に都合のいいものしか見たくなくて、私は目を閉じる。
ねえ鳩原、置いていかないで。私も連れて行って欲しかった。それができなくても、せめて、このプレーヤーぐらいは連れて行って欲しかったよ。
「……澄晴」
「なに?」
「私、鳩原がすきだった。世界でいちばん、いちばんすきだった」
目の奥が熱くなる。薄い膜がぱちんと弾けた。手の甲に涙が落下する、拭うこともせず、私は嗚咽を漏らす。
「好きだったの。……こんな風に終わるつもりはなかったのになあ」
寂しい告解だった。初夏の風は柔らかい。鳩原の声、澄晴の髪の色。優しくて、ただひたすらに残酷だった。
あれは約束ではない。誓いだった。私の自己満足。約束でなければ今日はなかったはずだ。私の頭の中であの秋がリフレインする。「なんでも話してね。絶対に、君の力になるから」鳩原は微笑んだ、困ったように口元だけで。そんなの悪いよ。鳩原の言葉。目は伏せられる。曖昧に、言葉を濁して、私の知らない人のように笑った。夕暮れが鳩原の影を連れていく。
「好きだった」
過去形にしなければ正常を保っていられない。明るい部屋の中で澄晴の影を眺めて繰り返す。噛み砕いで咀嚼してそのまま腹に落とす。なにも残らない。なにも。握り込んだ手を額に寄せる。電子機器は冷たい。
まるで、死人に恋をしたようだった。
21.10.11