ムーンストーンの夜生
おやすみの日が来ると少しだけふわふわとした気持ちになる。昔からずっと。だからわたしは世界で一番、日曜日が大好きだった。けれどボーダーに入って、大学生になって、それから休みというのが日曜日以外と巡り合うことだってわかった。わたしは大人になってしまったから。
日曜日は魔法でも宝物でもなくなってしまったのは、正直にいうとちょっとだけ寂しい。自由で社会が働いているちょっと硬い風の中で、レースカーテンがフローリングに描くきらきらの光を眺める。小さな波内際、日めくりカレンダーに印字された今日は黒い日付、コンセントを抜いたノートパソコン。それから、疲れ切ってソファーに深く腰掛ける背中。わたしは口元に微笑みを携えて、ブランケットを持って彼の方へ近寄る。短く切り揃えられた黒い髪。穏やかに上下する肩。
小さなわたしが愛した日曜日は絶対ではない。晴れも曇りも雷雨も霹靂も、ありふれたもの。はじめから特別なんかないのかもしれない。けれど「じゃあ子供にしか魔法は見えないの?」小さなわたしが過去の中で目をゆらゆらと光らせて聞いてきたら、そんなことはないからね、と目配せを送りましょう。
きっと世界に取り残されたような冬の雨でも、もろともしない魔法がある。耳をふさごうとも、カレンダーが赤い日付だろうとも、そんなんじゃ魔法どころか、奇跡だって起きないって日でも。悲劇を反転させるのは、いつだってあなたのてのひらのぬくもりだった。
黒が特別になるかもしれない。でもね、わたしに限っては赤は世界で一番特別なのは揺らぎそうもない。
わたしの恋人の寝顔は、起きているときとは全く違う。いつもよりずっと少年らしく見える。わたしより年上の癖に。睫毛の、呼吸の数を数えるみたいに顔を寄せた。
「……ひとの顔をジロジロ見るな」
「起きてるなら言ってくださいよ、びっくりするから」
「悪かった」
大切な言葉がいえなくて遠回りするわたしと対局に大事なことしか言わないこの人をわたしは憧憬している、そう、お月さまみたいに。
何か飲む?そうやって尋ねようとしたわたしの右手を蒼也が自分の方へ引っ張る。最小限の力しか入れていなかったわたしは蒼也の腕の思うがまま。軽い音を立てて彼の上に着地した。なにこれ。困惑するわたしの表情に満足げに頷くと蒼也は「ねむい」とだけ言ってゆるゆると瞼を下ろす。
「蒼也?寝るならベッドで寝なよ、身体痛めちゃうから。……蒼也ってば、そ〜やくん?風間蒼也さ、わ!」
「うるさい」
わたしを抱きしめたまま蒼也はずるずると横になる。狭いソファーはシングルベットよりもずっと密着することになる。それゆえに、互いの心音だけじゃなくて、呼吸する度に起こる衣擦れの音すら耳が拾ってしまう。おれはねるから、おまえもここでねろ。ふわふわの輪郭を失ったような夢見心地の声がわたしに声をかける。背中に回ったてのひらも、首のあたりに感じる吐息も、皺になっているそれぞれの服とかも、全部、あまりに完璧なバランスで世界を回していた。多くもなく少なすぎることもなく、完璧そのもの。わたしの輪郭がわからなくなって、落下していく感覚だけを脳が感じてた。
◇
次に瞼が空いた時には、すっかり今日は暮れかけていた。大きく波打つレースのカーテンが見える。僅かに視線を動かすと、蒼也がソファーに伏せるように眠っている。さっき、くっついて寝てたのに。パワープレイを仕掛けておいて早々に抜けるとはいい度胸ね、とおもしろくない気持ちでいっぱいになる。
「……せんぱい、こんなとこで寝ないでください。わたしがそれしたら怒るんだから、風間先輩だって、やめてほしいんですけど」
さっきのようにじろじろ見るな、と怒られるのが目に見えていた。
ローテーブルの上に置かれたミネラルウォーターのパッケージをにらむ。ペットボトルの陰の跡に沿うように小さい水たまりができている。いつ出したんだろう。
「冷えてきましたから、そんなとこで寝ると風邪ひいちゃいますよ」
とびきりかわいく「先輩」って彼を呼んでみる。ちょっとだけ懐かしい呼称で。これはちょっとした意趣返しこのぐらい許してほしい。だって、一緒に寝るとかなんとか丸めこんだのはそっちでしょ。可愛い彼女との添い寝とミネラルウォーターを天秤にかけられるだけでなんか情けないのに。
身を乗り出して彼の顔にさらに近づいて声をかける。「蒼也」そこまでは言葉がでたけれど、その先が浮かばない。なにを言えばいいんだろう。遠回りしかしらない口は、そうや、と名前を繰り返す。何が言いたいんだろう。
いつだって蒼也、もとい風間先輩はまっすぐと言葉を伝えてくれた。正解をすぐに提示してくれたのに、わたしはなにもいえない。死人のように眠るあなたの頬に触れてみる。わたしの肩からブランケットが落下する。淡い黄色が木目調のフローリングにぬくもりを添えた。
きれいな映画をみるようだった。ほんとうにきれいな映画。あーあ、言葉はなんて陳腐だろう。
「……ひとりで泣かなくてもいいだろう」
あなたが目を覚ます。わたしの目じりに蒼也の指先が伸びる。意味が分からないけれど、されるがまま。けれども言い訳をした。
「泣いてません」
「ああ……。夢でおまえが泣いていたんだ。雷雨の中で息を殺すように、泣いていた。俺はどうすればよかったんだろうな」
映画のようだった、きれいだったが悲劇に見えた。そんな蒼也らしくない例えがひとつこぼれる。当然のことでわたしは蒼也の赤い目をじっと覗き見る。2秒だけ遅れてあなたはわたしを確認した。
「泣いてないんですよいま。さびしいだけ。蒼也が起きてくれたら寂しいことも、嵐もどっかいくから。だからね、……今日の残りはずっと手を握ってて」
そりゃあ、わたしなんてミネラルウォーターに負けるようなかわいげのない女だけど。遠回りしかできなくても、あなたと手をつなぐのだけが、幸せ。ふっとあなたも笑みを浮かべてわたしの手を握る。街灯の白い光、近隣の住宅やコンビニのネオンサインがわたしたちの部屋に映りこんでいる。ああ、日常は暗転すら格好がつかないんだから。
雷雨の中で泣いていたわたしがどうやって泣き止むのかわたしは知っている。
空を埋め尽くす濃紺より、空に漂う触れない月より、一瞬の雷鳴より、崩壊の雨より、わたしは蒼也を信じている。赤い目に見つめられたら、どうでもよくなるの。でも、まあ、全部は知らなくていいよ。
骨格も臓器もわからないから魔法は魔法であれるんだから。
「今日はおやすみの日なんだから、わたしを悲劇のヒロインにしないで」
「そもそも恋人を泣かせる趣味はないがな」
蒼也はそうやって笑った。
「嵐が過ぎたら海に行きましょう」
どうして、と蒼也の目が問いをぶつける。素直なその赤がやっぱり愛おしくてわたしは幸せで、馬鹿みたいに笑うしかできない。わたしたちの魔法を石に閉じ込めたいの。って言ったらまた蒼也は呆れちゃうかな。
「なまえ。笑っても誤魔化されないぞ、ちゃんと答えろ」
「絶対に見つからないものを見つけに行きたいなって」
床に落ちたブランケットを広げて、蒼也はわたしの手を握った。それから、蒼也はこれ見よがしなため息を吐いて、それでも、わたしから離れようとはせず、頭をわたしの肩に預けた。一枚のブランケットの中でぎゅうぎゅうにくっつく。これから夏が来るのに、わたしたちはいつまでも変わらなかった。
「本当にいきたいところをあげておけ、このひねくれもの」
「ふふ。じゃあ、ほんとのこというよ。でも、お願いだから嫌いにならないでね?」
赤いルビーが挑戦的に瞬く。ばかいうな、蒼也がそう言葉にしたすぐ後に、わたしは彼の顎に口付けた。
21.06.16