欠けたルビー閃いて夜 後
「部屋に入るまで見ていなくていいですから。ほんと、一番疲れる時なんですからしっかり休んでください!」
やかましい別れだなと思いながらそうだなと相槌を打つ。それから、全く同じ内容のメッセージが分かれて数分とたたず送られ、愉快な気持ちになる。普通に言ったらそれは自意識過剰になるのではないか。どうするか、とぼんやり点滅を繰り返す街灯を眺める。警戒地区に近いからか人は全くいなかった。非常灯が灯っていないだけで、遠征艇と代わり映えない景色だ。
「やっぱりまだいた」
「戻ってこられるとせっかく送り届けた甲斐がなくないか?」
「寒いところで薄着でいる先輩の方が悪いんで」
みょうじが紙袋から赤いマフラーを取り出す。何をするのか検討がついて、みょうじの方を見上げて首を差し出す。みょうじ、呼ぶと白い息が出た。二周程度布が回って後ろで結ばれる。口から鼻にかけてマフラーに埋まった俺を見て、みょうじが笑った。
「いますよねこういうちっちゃい子」
「ほう……みょうじ、おまえいい度胸だな?」
「あー……まあ、うっかりということで?」
「まあ、これは十分にあったかいな」
俺の首周りにあるみょうじの指先が素肌に触れる。案の定、みょうじの手は冷え切っていた。一番必要なのはおまえじゃないのか。と言いかけてやめた。俺はみょうじとの適切な距離感を忘れてしまったのだろう。
マフラーを鼻の先までひっぱりあげて、マスクのように口を覆った。
「おまえこそマフラーはいいのか」
「そうですね、まあ、なんとかなりますよ。いざとなったら太刀川から強奪するんで」
「俺の家にもあるぞ」
沈黙。視線を下に投げる。アスファルトには何も障害物はない。俺とみょうじの数メートル先にマンホールが一つと、電線だけが空中にはびこっている。マフラーの中で唇をなめた。少々血の味がした。
「これを借りるかわりに俺のものを今度貸してやる」
「いや、それは、あの……」
「今シーズンだけ貸し借りでいいだろう」
言い逃げにほど近い。先輩命令だ、適当な言葉を付け足した。遠慮しないと決めてしまえば、人はどこまでも増長する。冷たい指先が俺の小指を握った。
「……構いませんよ。その代わり、今度は絶対ですからね」
「ああ」
「絶対ですよ。毒にも薬にもならないんですから、これくらいは守ってください」
「ああ、おまえが怖いことはしない」
指先は冷たい。生きていない人間のようにも感じる。俺は口をつぐんで、脈拍を感じる。規
則的な音。脈拍には問題がない。喉から肺にかけて染み入る熱がちょうどよかった。
「はいはい……風間先輩はちゃんと帰ってくださいね。あ、逆にわたしがみていましょうか?」
「子供じゃないんだが」
「職質されますよ」
「見てきたようにいうな。本来ならおまえがされるべきだろう」
突っ立っていたところから歩き始める。振り返ればみょうじが手を振ってきた。素直に手を振り返す。みょうじははにかむ。冬に映えるな、とらしくもない話をまた考えてしまった。みょうじの伏せられた睫毛も、街路の光を集める髪も、すべて恋しいと思った。
「ちゃんと寝ろ」
あいつが帰らないから、少しだけ不安になる。夜にひとりきりにしたくはない。みょうじが冬ならきっとすぐにいなくなってしまうから。馬鹿らしい喩えが俺の足をその場に縫い付けた。
「もしもし、諏訪か」
「風間、テメーさっき電話即切りしやがって。何の用だよ」
「まあ、帰還報告といったところだな」
「そうかよ。ま、おかえり、ご苦労さん」
おかえり、か。諏訪からごく自然に発せられた言葉に思わず笑みが溢れた。そうか、いいのか。ただいま。四音を口の中で転がす。みょうじに返せなかった言葉を言おうとしてやめる。玄担ぎは多いに越したことはないだろう。
「そうだな」
「そこはただいまでいいだろうか。気取ってんじゃねえぞ」
「みょうじにも言えなかったことが諏訪相手に言えるわけがないだろう」
「は〜……お前らさあ……。まあいいわ、もういい。どっかで勝手にやってろ」
「おまえに言われなくとも」
「明日非番か?おまえが休んでた分の大学の講義見せてやるよ」
「今から行く。もう着くぞ」
「ハァ?」
目の前にあるアパートの角部屋を見上げる。どたばたと騒がしい音が連なってここまで聞こえてくる。ものの数秒後、開けっ放しのカーテンの間から諏訪が顔を出した。おまえ、まじか。唇が動く。絶句している無音だけが通話越しから聞こえた。
「諏訪、いまおまえとんでもなく間抜けな顔だぞ」
帰ってきたのだと思った。諏訪と並んでコンビニへ向かう中で実感が押し寄せた。理由は知らない。帰ってきた事実なんて諏訪にあうより先に理解しているはずなのに。
「今行くのも、明日行くことも変わりはない」
「おまえは人に気遣いを覚えろ。他所で通用するわけねーだろクソガキ」
「まさか。おまえ以外にするものか。いくらなんでも失礼だろう」
「風間テメーマジでいい加減にしろ」
俺は日常に帰還した。
深夜のコンビニの蛍光灯は白い。適当に酒を選んで諏訪が下げた買い物カゴに入れる。自分で買えよ。という言葉には返事をせず、つまみを探しにひとつ列を移動する。残念ながら、よさそうなものはなかったが。
「電話は結局何の用事だったんだよ」
「どの電話だ」
「初めにテメーがワン切りしやがったやつだよ、イタ電なんて時代遅れすぎるわ」
「飯でもどうかと思ってな。でも、偶然あいつに会った」
あいつというぼかした呼び名で、諏訪は検討がついたようで、ただ息を吐いた。疲れ、呆れ、理解。全部を孕んだような呼吸だった。
「結局みょうじとオマエは進展はねえのかよ」
「あると思っているのか?」
視線を投げれば「さあ、知らん」と無責任な言葉が寄越される。
「おまえが言う『進展』が何を指すかはよくわからんが、何かが変わったなら今日こんな時間におまえとコンビニにはいないな」
「風間、本当にわかってないのかよ?」
酒を入れ終えた諏訪が俺に確認する。それがわからないわけではない。もっと根本的な問題がわからない。
「俺とみょうじは今更好いた腫れたなんだって騒ぐ段階じゃない。もう手遅れだ」
何もわからない。自分のことだとか、あいつのことだとか。あいつの目には何が映っていて、何になりたくて、どうするのか。諦めたのか、俺とは別の道を行くのか。結論はいずれ聞かされるのだろうが、あいつのことだ、俺には過程なんか見せてはくれない。
「あいつに何を求められても俺には答えが出せないだろうな」
忘れることで報われる、みょうじはそういった。この街から出てもあいつは何ひとつ忘れることがない。全てを覚えたまま、失ったことさえ忘れずに。
失われたものばかりの街の中で、失ってしまったものを忘れずに生きるより、きっとどこか知らない街で生きる方があいつには向いている。
過去にはなりたくない。でも、あいつがそれを望むなら仕方ない。
「風間、オマエ馬鹿だろ」
「そうかもしれないな」
◇
久しぶりに訪れた諏訪の部屋は何も変わらない。呆れるほど何も。タバコの残りがだとか、床に散らかる本だとか。起きたまま放置されているらしいベットだとか。
お邪魔しますと口にしながら、布団の方へ向かい、ベットとマットレスの間を覗く。
「……確か、ここにしまったはずだったな」
「あ?んなとこに何をしまったんだよ。マットレスとベットの隙間とか……エロ本じゃねえんだからよ」
「遺書は回収するぞ」
いしょ。諏訪が復唱する。
「ああ。遺書の意味が分かるか?遠征に行くときにはかけといわれるんだが、これがなかなか面倒な代物でな」
「なんでお前は俺の家においてんだよ、イカれてんのか」
「そうなるとボーダーに所属している俺たちは等しくイカれていることになるな」
「もっとほかにあったろ」
何もかもをあきらめたとでもいうように諏訪が視線を背ける。煙草に火を点す。成人してから諏訪の部屋のあちこちでライターとへこんだ煙草の箱が見つかるようになった。大人になった。俺たちは法律において保護される少年ではない。
「開けてもいいぞ」
「なんで俺だったんだよ、もっと適切な奴がいるだろ」
「家に置いておいたら、親に心配をかけるだろうな」
「事情わかってるつーなら木崎は?」
「万一、林藤さんや迅が目にしたときのことを考えたことはあるか?」
諏訪は安っぽい灰皿に煙草の先を押し付ける。
「言っておくが、寺島には断られた。そうなったら、もうおまえしかいない」
「そりゃどーも」
「うれしくないことを無理に喜ばなくていい。ほら」
諏訪に手紙を押し付ける。一番安い便箋を選んだからか、随分とよれていた。白い封筒。遺書には遺書と書いた。死んだあとのことを曲解されたくはなかったから。
「おまえの兄貴になった覚えはねえよ」
「……いや、これは親には渡せない」
壁は邪魔だ。境目がわからない。境界線には何の意味があったのか。
「自分がさんざん理由を探しておいてなんだが、見られたくはないんだ」
薄い膜の向こう側があるとわかってしまえば、なぜ、どうしてを繰り返してしりたくなるのが人間の性だ。
「読めばわかる」
「当ててやろうか?」
反応は何もしなかった。それでも諏訪は遠慮せず「みょうじのことだろ」と発した。そうだな。寺島も同じことを言って断った。
「正確にはおまえにみょうじに渡せと書いたんだ」
「オイコラ、人を伝書鳩扱いすんな。マジで死んだあとまで足にしようとするのが解せねえんだけど」
「……みょうじが素直に受け取るわけがないからな」
「あのなあ誰だって遺書なんか渡されたら動揺すんだよ。その反応はさすがにアイツには酷すぎるだろーが」
諏訪は酒の残った缶から指を外す。コイツはつくづく誠実さが抜けない。いいやつだ。
「わからないんだ、みょうじのことが何も」
笑う横顔が張り付いて剥がれない。制服を着ていたあの頃から、幸せで、満ち足りていたあの時から、みょうじの子供っぽい笑い顔ばかりが残っている。おまえのことがわかったことなんてない。でも、おまえを思う自分のことはわかっていた。そのはずだったんだ。諏訪のアパートから見える三門の空は黒くて重い。押し潰される錯覚がある。
俺はコンビニのビニール袋から新しく缶チューハイを取り出す。プルタブを引いて缶を開けると軽い音がした。
「もうめんどくせえからなんでもいいけど、俺明日朝早いからもう寝るわ」
「そうか大変だな」
「うっわスゲームカつくな……オマエは明日はねえんだろ?居座んねえで早く帰れよ。鍵とかはポストにでも入れときゃいいから」
「もう動く気がないから俺も寝るぞ」
「今酒を開けたやつの言うことじゃねえんだよ……あー、わかったわかった、布団は敷いておくからテキトーに寝て起きて帰れ」
手際よく世話を焼き始める諏訪の動きを眺めながら、酒を一口飲む。つくづく難儀なやつだ。押入れから布団を出して、広げて、胡乱げな視線をもらう。
あの日の夢を見た。映画のポスターを見て動かなくなるみょうじの背中。そんなに見たいのかと思って、みょうじの隣に並んでポスターを眺めた。見たいのか?と夢の中では聞く。見たいです、みょうじが笑う。ありえない空想が混ざって、それはみょうじらしくはなかったが、それでも良かった。手を取る。
「じゃあ見に行くか」
夢だとわかっていたが、その言葉はするりと出た。何度も練習した言葉だったから。あの日、言わなければきっと手にすることができない。あの映画を観て、帰りに好きだというつもりだったといったら、なんて言うだろう。お前は知りたくなかったとでもいうだろうか。もしも、全てが失われる前に伝えていたら、俺たちは変わっていたんだろうか。
手を取る。体温はわからない。
帰れないあの日の夢を見ている。
揺り起こされて、夢から意識が浮上した。手は空を握っている。温度のない空気。夜が明けたばかりの濃い濃紺の空が見えた。それから、タバコをふかした諏訪が現れる。支度は完全に終えていた。頭痛を感じて顔を歪める。
「諏訪」
「いつまでもボケっとしてんなよ、迎え読んでやったから」
「…………もう出るのか」
「一限あるつったろ、お前だって疲れてんだからちゃんと休み取れよ。ぶっ倒れてもしんねーぞ」
「おまえは……………つくづく、甘いな」
諏訪が俺を蹴り飛ばす。軽く転がって、フローリングの上で仰向けになる。準備万端な諏訪を眺めていれば、見計らったようにチャイムが鳴った。
「諏訪、客だぞ」
「おー、おまえの迎えだよ」
「……木崎か?」
「ちげーよ馬鹿、レイジも今日は大学だっての」
みんながみんな暇じゃねえんだよ、と愚痴りながら諏訪がドアを開ける。ワンルームだからドアの向こうの人影もわかった。
「おい、聞いてないぞ。諏訪……おい」
みょうじが靴を脱ぐ。寒さで耳が赤い。
「風間の迎えっていったら、みょうじだろ」
みょうじに「鍵はポストに入れときゃいいから」と言って立ち去る諏訪の踵を睨む。頭が痛い。とてもじゃないが動くような気分ではない。
「先輩」
手が差し出される。ため息をつく。みょうじの視線も全部流して上半身を起こす。
「風間先輩、おはようございます」
「……ああ、おはよう」
後ろから差し込む光のせいで背中が熱い。
「動けそうですか?」
なあみょうじ、俺たちにはどういうこれからがあるんだろうな。好きだった。あの日言ったのは嘘ではない。高校時代から変わらないでなんていられなかった。言い訳がましいことを言うが、それはお互い様だろう。
春はまだ来ない。冬の中で俺たちは日常を送るしかない。もしもあの日に帰れると言われても、俺は、きっと帰りはしない。
「なあみょうじ、おまえはどうして遠征に行かなかったんだ」
ボーダー隊員ではない自分が想像できない。ただ大学に進学し、学生生活を送る自分の姿がわからない。こんなたらればに意味なんかないから、俺は瞼を下ろした。眠るわけではなく、瞼で弾けて巡る光を追うために。
「……わたしは遠征艇に乗る資格も動機も見つけられなかったんです」
覚えているか、口の中でぼやく。聞こえているかはわからないが、聞こえていたら良い。踏切の中でも聞いてくれるおまえなら、きっとわかってくれるだろう。
俺は忘れない。おまえが、いつかこの街から出て知らない世界が見たいと、世界の果てまで見たいと夢を語ったことを覚えている。
なあみょうじ、おまえの夢を殺す必要はあるのか。
目を開ける。聞こえなかった振りが下手なみょうじは、黙って俺の腕を引いて立たせた。
「早く出ましょう、眠いなら自宅で寝てください」
「そうだな」
「先輩は疲れてますよ、自覚してるよりずっと」
「そうだろうな」
「ほら〜ふわふわした返事しかしないじゃないですか!」
諏訪のアパートの細い階段を下る。みょうじの手を軽く払う。離せば当然、先を行くみょうじが振り返る。
「歩けないなら負ぶっていきましょうか」
ちょっとだけ得意げなみょうじがいいと思った。
だから、顔を引き寄せてそのままキスをした。唇が離れて、数秒みょうじは静止した。数センチ上から見下ろすのはいい気分だった。肩口に額を寄せる。ぬくい。肩に頭を寄せたままみょうじの表情を伺う。
「何か言いたげな顔をしているな」
「……そりゃ、あの、ええ〜……なんでキスするかなって、思いますが」
「なんでだろうな」
初めからこうすればよかった。
おまえに恋をしているだとか、後輩の一人としてかわいがっているだとか。そういうものを定義することにひとつだって意味なんてない。
恋だろうが愛だろうが執着だろうが、おまえを逃したら、俺は二度と他に特別なんか作らない。惜しい。ただひたすらに、おまえを手放してしまうのが名残惜しい。
そう思うのなら、俺はもう少しだけ、おまえのことを考えてから死にたいと思う。特別だった。確かにこれは恋ではない。恋であればよかった。おまえの幸せを心から祈れればいい。
「俺はおまえがすきらしい」
らしくもない呪詛が出た。もう二度と、金輪際、生涯口にはできないと思っていた言葉。成程、おまえの言うことにも一理あるな。今までの全てを忘れられたら、それだけできっと報われるだろう。
いつまでも続くものなんかない。いつかくる終わりがみょうじによって良いものであるように、それだけを心から祈っている。
いっそのこと、嫌ってくれればいい。そうしたら俺はおまえの手を離すだろうに。いつか理由もなく無くなるのなら、近くであったことを思い出せなくなるほど地平線の果てでもいってくれればいいものを。
離したくないと思いながら、おまえの夢が叶う日のことを願う。矛盾を飼いながら俺はおまえを思うのだろう。
朝のはじめ、一瞬で濃い色は失せ、白い光が街に広がり始めた。
22.05.16