キスをしよう

キスをしよう。口にするとそれはもう薄っぺらな言葉だ。迅の青い目が困ったように凪ぐ。空と海を全てひっくり返した色。世界で一番美しい色。たくさんの言葉で、たくさんの言葉で形容するから、だからそんな表情をしないで。怒ったり、拗ねたりなんてしないから。それもこれも理解した上で私は「迅、キスをしよう」とジャージを引っ張った。「だめだよ」拒否。迅の腕が伸びて私と迅に距離を生む。
「私に声がかけられるの見えてたくせに」
「突然キスされる未来を見たおれに何かないの?」
心の準備がさ、と続ける迅は恰好悪い。恋人からの珍しいアプローチは受け入れるのが道理じゃないのか。不満が溜まるけれど、それと同じぐらい迅が愛しくなって、私はうだうだいう迅の腕をすり抜けてキスをした。


私はこの街のことが好きだ。愛国精神なんてご立派なものではないけれど。けれど、夜になったこの街はなんだか怖い。人影が少ないっていうのもひとつ。何かわからないことが起きそうというのもひとつ。でもね、でもさあ、迅。
「どうしておれだったの」
唇が離れて、額と鼻先だけが触れる。小さな隙間に迅が弱音を漏らす。至近距離だったから、その言葉を取り繕うための「ごめん」が生まれる様を目撃してしまった。あのね、迅。私はアンタにそんな顔をさせたくて傍にいるわけじゃない。何もわかっていない馬鹿で、やさしくて誰よりもよく世界が見える、迅悠一、そのひとの顔を両手で包む。
「迅って私のこと嫌い?」
「え、嫌い?」
「そう、どんなところが嫌いなの?」
「……ちょっと待って。えぇっと……考えるから」
っていうか突然何?と困惑する迅に笑みが漏れた。朝一番の青を流し込んだ迅の瞳が綺麗だ。もごもごと私に嫌われないように、それでも正直に私の嫌いなところを考える迅が好きだ。だから、私は口籠る迅を前に正直に答えてみた。こうすればいいの、って。
「私が迅を選んだ理由なんてわからない。逆に聞くけど、私が迅のすきなところをどれだけ上げたってアンタはどうしておれだった?て聞くんでしょ」
「……それはどうかな?」
「いじっぱり」
「意地は張ってないよ。ただ」
「ただ?」
「おれのサイドエフェクトがだんまりを貫いててさ」
私の手に迅の手が重なる。嘘つき。どうやら、今日の迅は相当参っているらしい。
「最悪な未来ばかりって決まってるわけじゃないんだから」
「……それはどうかなあ」
「迅が怖いのは未来だけ?今日は怖くないの?」
開けっぱなしの窓から、レースカーテンがひらりと捲れ上がる。花嫁のヴェールのように、夜の高い空に泳ぐ巻雲のように。
「わたしだったら、夜も怖いし嘘だってもう懲り懲りなんだけどなあ」
ねえ迅。私じゃなかったら本当に、もうさ、どうするの?
私は苦笑しながら、脱力して迅の肩に身体を預けた。部屋に飾った写真立てが見える。すこし緊張した顔をした詰襟の迅と、あっけらかんと笑う垢抜けないセーラー服の私。
もし、迅にとってこの未来が最善だったとは言えなくても、私は今すごく幸せなんだよ。硬い表情の少年に言ってやりたい。世界の終わりみたいな表情で告白をしてきた、今よりずっと幼い迅悠一君に。
「なんでもいいの?」
「怒らないからなんでもいいなさい」
「あー、なまえさんが作る料理は……味付けが濃い」
「そういうことは早く言ってよ!」
「いや、そのご家庭の味には言いづらいところってあるじゃん?」
「あのねえ」
反射的に起き上がって迅の顔を見る。呆れてしまってその先に続けるべき言葉を見失った。
「……あのねえ、私は迅悠一が好きなんだよ」
左手を取って、頬に寄せる。手首から落ち着いた脈拍が聞こえてくる。とくとく、規則正しい音。失いたくないもの。
「ありのままの迅悠一君が好きだよ」
綺麗なものが好きだし、迅がくれたネックレスだって大事にする。味の濃いおかずだって作るし、脈拍だって数えられる。ねえ、迅。私はさ、迅の遺骨だって愛せるよ。綺麗なもの以外を排除しなくったっていいんじゃない?
「忘れたいことは話さないでいいし、覚えていたいことは話して」
迅のこの青い目に、私ではない誰かとキスをする未来が映っていたとして。私は迅の未来にいないのかもしれなくても、美術品からかけ離れた歪で青くて苦い今日を抱えていようよ。今なら、手をつないでいるだけで幸せだから。
「昔、なまえさんは三門が好きっていてたけど、なんで?」
「そんなことで悩んでたの?」
「うーん、まあ似たり寄ったり……」
煮え切らない迅の言葉はそのまま受けとめて、わたしは瞬きをした。答えはある。でも少し照れくさい。
「なんとなくならそれで大丈夫なんだけど」
「あるよ、理由」
この三門の街のことが好きだ。夜に人が少なくて寂しい街で、時折ボーダー隊員たちによる戦闘の光や音が聞こえてくる街でも、フロントラインだとしても、私はこの街を愛していたい。
「……ここは、迅が守ってる街でしょ」
ちょっとだけ照れくさくて、迅の言葉を待たずに口を開いた。
「ねえ迅」
呼びかけると黙ったままだった迅が破顔する。少年みたいな顔だった。
「まって、今度はおれからするから」
わかってて私は問うてみた。ねえ迅、何をしてくれるの?
「今度のキスはおれからするから」
ねえ、迅。言いかけた言葉は迅の口の中に溶けていった。

22.12.25

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