朝焼け黄金色のスープ

 息を止めて、ほら。たった3秒ぽっちで陥落しゆくの。

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 目が覚めてしまった。天井を睨むけれど、なれないベッドは硬くて居心地が良くなくて寝返りをうつ。視界に入り込んだ目覚まし時計の短い針は、5を示したまま。淡い黄色のカーテンから差し込むひかりもまだ色は曖昧で。
 もう寝れないことだけがわかって、わたしは黒いパーカーを羽織って外へでた。

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 高専もまがりなりにも東京にあるというのに、わたしの地元の空気と同じ味がするのが不思議だ。東京は都会として期待外れというよりも、ここが存外にも田舎だったということかもしれない。改めて、朝の澄んだ空気のなかでみる高専の寺社仏閣はより一層東京らしくない。五条先生によるとこれらは全て結界によるハリボテなんだから呆れてしまう。神社で生まれてわたしにとってはこういう景色は1番安心する。このまえ狗巻先輩と一緒に登った階段に腰掛ける。今日も昨日もひとり。……先輩はひっぱりだこの人気者なので、呪術師繁忙期が終わってもちょくちょく高専からいなくなる。わたしなんて3級だし、1年だし、全然任務になんて呼ばれない。暗いことを考えてまるまる背中をわたしはなんとか伸ばす。爪先までぴん、と指先を曇った空までぎゅっとまっすぐ。これで空が青かったならさぞかし気分が良かったろうに。残念ながらそんなうまくいかない。

 突然ぶつかってくるものにわたしの肩が大げさに跳ねる。「ツナ!」というあまりに聞き慣れたおにぎりの具を操る声に「狗巻先輩?」と反射的に声が出る。なんで、嘘。え。ぱちぱちと瞬きを繰り返してもわたしの視界に映るのは対して綺麗でもない濁った空。先輩の姿すらない。

「高菜!!」

 ぐいと腕だか身体だかが強く引かれて、先輩の胸の中に倒れ込む。はぁ、と先輩が溜息をついたのがわかった。中途半端な体勢のまま先輩に抱きしめられて、わたしの耳が先輩の心臓部にくっついている。先輩の拍動が聞こえる。先輩の普段を知らないからなにもいえないけれど、わたしの通常のそれよりずっと速い。
 
「えと、先輩。この体勢かなり恥ずかしいです」
「……おかか」
「なんで」

 はぁ、と先輩がまた溜息をつく。ゆっくりと背中に回していた腕を緩めて。わたしのことを解放してくれる。解放されたわたしは、ぽかん、と間抜け面をかました。
 先輩の金色の綺麗な髪にはぐにゃりとひとつ寝癖がついていて、いつもネックオーマとかマスクで隠されている口元の呪印さえもみえた。……まるで、ついさっき、ベッドから抜けて出してきたみたいな。

「先輩、マスクはどうしたんですか?」
「いくら」
「気にしないで、って。気になりますよさすがに」
「高菜……?」

 心配だったから?と軽く語尾を上げて先輩はふいと下を向く。耳が赤い。もしかしたら、先輩も今日は朝早くおきてしまったのかもしれない。わたしと同じように目覚ましの音よりもさきに目が覚めて、先輩の場合はきっと、今日も任務があって、二度寝には不向きで、それで、どうしようかな。とカーテンを開いたのだ。だれにもいえない、幸せなだけの妄想にわたしの口元が緩む。
 心配。両親からも幼なじみからもいっぱいもらって、もうこれ以上いらないって思っていたのに。先輩からもらうならいくらでも欲しいんだから、わたしはとんでもないわがままだ。

 息を止めて、ほら。たった3秒ぽっちで陥落しゆくの。

 先輩とわたしは同時に吹き出した。ただ朝に寮を抜け出しただけでべつに、悪いことも善いこともしていないから、せめてもとお互いの指先を絡めた。五条先生が見たら冷やかして、野薔薇ちゃんが見たら顔全体で嫌な顔をされるにきまっている。虎杖くんと伏黒くんはみないふりをしてくる。いつかは泡沫のように消えるこの日々。恋に落ちるのは3秒。だから、恋が終わるのも3秒なんだ。

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「昆布」
「いいですってそれは。わたしいまお金もってないですし」
「しゃけ」
「先輩すぐ甘やかすの良くないって先生にも」
「ツナマヨ?」

 う、と声が詰まる。先輩はわたしがこの言葉に弱いのをよくわかっている。でも、すきなひとに『すき』っていわれて、指を絡められて果たしていつもどおりを通せる人っているんだろうか。いや、いない。先輩だってきっとそうだろうけどわたしにそんな器量はないし、果たしてそのツナマヨ、おにぎりの具で四文字、不格好な『すきだから』の本気度はわからないけれど。繋がった手のひらを見て、漠然と冗談ならいいなぁと思った。先輩には先輩の人生があって、そこにわたしはいないから、ただ祈るだけ。
 先輩の指は迷うことなく、下の方にあるコーンポタージュを押す。高専にある自動販売機はいつも季節感度外視のお汁粉とかコーンポタージュの缶とか冷えた炭酸飲料のボトルが入っている。真希さんにお使いに出されては首を傾げていたラインナップがここで役に立つとは。

「ツナ」
「……ありがとうございます。甘やかすのよくないですよ、ほんとに。先輩なしで生きれなくなったらどうするんですか?」
「しゃけ」

 一瞬、ただのおにぎりの具にしか聞こえなかった。しゃけ?鮭。赤い、おにぎりのよくある具の。まるでいまはコンビニのなかで、おにぎりはどれがいい?と聞かれたような、そんな場違いななにが。
 嘘だ、嘘に決まってる。そうじゃなきゃだめだから、わたしは嘘であって欲しい。先輩のことはわかっていたけれど、信じたくはなかった。わたしまでこの日々を永遠だって捉えちゃいけない。
 「先輩、わたしね」その先はぶつ切り、漏れ出たのはしゃくりあげるわたし。先輩は冷えたわたしの手にコーンポタージュの缶を押し付ける。先輩、わたしね。ぽんぽんと小さな子供にするみたいに髪を撫ぜる。いいたい、いいたくない。わたしの意に反して、口はさっきと同じ動きをする。せんぱい、わたしね。

「先輩、わたしね。初恋は狗巻先輩なんですよ」

 いいたかった言葉はそれじゃない。きっと頭を撫でてくれる先輩だってそれはわかってた。それでも追求しないで、トントンと肩を叩く。わたしはいまみっともない顔だから、見せたくなくて下をむいたまま左右に首を振る。いつもなら先輩はそれで見逃してくれるのに、今日はトントンともう一度肩を叩く。
 「ツナマヨ」先輩がわたしの耳元で優しくささやく。一日に同じ手に連続でかかるっていうのも情けない話だけれど、わたしは反射的に顔を上げてしまう。涙でぐちゃぐちゃのわたしの目元をそっと先輩が拭う。

「灯」

 今まで、きっと音に出したら呪ってしまうから。と使うのを名前でさえも避けていた先輩が、わたしの名前を、呼んだ。苦しそうに、縛るように、わたしの初恋に答えるみたいに。けれど、先輩はそれだけで口をつぐんだ。『離れる』なとも『一生愛して』も『忘れるな』もなにもいわない。ただ、わたしの名前だけを呪った。
 コース料理で温かなスープだけ渡すみたいな。真綿で首を絞めていくような。ゲームで機械だけかってゲームカセットを買わない、みたいな。そんな、形容し難い感情に逃げられない、ことだけがわかった。

●◯●


 3秒で寿命を迎えて粉々になって終わるはずだった初恋は、呪言で縛られ呪われた歪んだ3秒を手に入れてしまったらしい。

 まだ、この世界にはエンドロールの出番はないことだけ誓って。

20.01.01

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