ひびき

「恵ちゃん、もうすぐ春がくるよ」
彼女はそう言って、幸せそうに笑った。
膨らみ始めた桜の蕾。鈍い色をした重たい雲。ひとつひとつの隙間から覗く青空は淡い色だった。風はなかった。まだ春の気温を測りあぐねているパステルカラーのシャツ。


思い出の底に、張り付いて剥がれないもの。貼り付けたはいいものの、うまく剥がせなかった雑誌についていたシール。啜り泣く声。身動きの取れない俺に落ちる緩い滴。ガリガリと爪の先で削るように、シールの淵を剥がす、あの感覚。
「勝手にいなくならないでくださいね」
彼女は、そういう人だった。見つける側はいつだって大変で、いなくなる度に、こんなことを始めた自分を呪う。
「いなくならないよ。恵ちゃんにはわたしが必要なんでしょ?」
「そんな自信満々に言われると認めるのはなんか癪な気がしてきました」
「え〜……かわいくない」
「俺は先輩にかわいいって言われるの好きじゃないんで」
「そんなの気にしなきゃいいのに」
可哀想なくらいに馬鹿な人の手を引いた。こっちも気も知らないで。今日は爪の色が淡いピンク色だった。かわいいっていうのは、「また大きくなった?」と先輩が津美紀みたいなことを口にした。
「アンタは俺の何かわかってます?」
「なにそれ、教えてよ」
「…………そのにやけ顔辞めてくれたら考えます」
雲間から細い光が差す。柔らかな陽光。先輩はにやけ面を保てなくなって、破顔する。目尻の皺をなぞった。
「あはは!世界で一番かわいい恋人のお願いなら聴いてあげなきゃね?」
わかってんじゃないですか。と、いいかけて恋人の笑う声が鼓膜に柔らかく張り付いた。それは決して不快じゃない。俺もこの人も面倒臭い。でも、大事に握りしめた。泣いているよりずっといい。笑い声を集めて、鼓膜に閉じ込めて、鼓動と混ざってしまえばいいのに。そうしたら、いなくなることだってないでしょ。

日が伸びた。アスファルトに伸びた影を踏みながら、薄い空の下を歩いた。近くにうわった桜の蕾が膨らんでいた。ああ。そうか、本当にもうすぐ春が来るのか。

23.04.23

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