アイ・ラブ・ユーは舌先で苦い

「俺と結婚を前提にお付き合いしませんか」

 後輩から小さな箱が私に差し出される。
 私は思わず飲んでいたカルアミルクを吹き出しそうになる。それは出先だし後輩の前なので必死に抑えた。抑えたが、この後輩今なんて言った?真意を確かめたくていざ口を開こうとすると気管に入ってしまったらしくてむせる。ツン、と詰まって視界もにじむ。
 隣からそっと首の骨のあたりから背中にかけてさすってくれる。後輩は涼しい顔をしてテンパっているわたしの顔を除きこんだ。高校時代いや、なんなら記憶にある一番古い時から変わらない薄い色素のパッツン前髪が揺れる。
「いきなり何ですかそんな人の顔みて」
「……いや、ないわーと思って」
「は?」
 後輩の眉間にぐっとしわがよる。改めて見ても顔はいい、バレー部で二年間見守ってきた身としてはたしかにちょっと身長が低い気もするけど、160cmちょっとの私よりは十分高い。初めてあった時、それこそ幼稚園のころとかそんぐらいの私よりもずっと低かった身長を思えば成長に感動してしまいそうになる。これが22歳の本気……!しかも頭もいい、現役で医学部って普通に考えてもとんでもないというのに、こいつはIHまでレギュラーを張っていたのだ。ほんと、なんてやつだろう、改めて考えて見ても私の胃がキリキリしてくるようなスペック。
「白布はない。白布より川西派って言ったことないっけ私」
「は?」
「甘いのはカルアミルクで十分!こうも現実が甘くてたまるかっての!」
 私はカウンターに樋口を叩きつけて、後輩に背を向けた。いい加減こいつに振り回されるのは終わりにしたい。いつもよりちょっと高めのヒールを鳴らしてのれんをくぐる。寒いな、と小さく息を吐く、何となく後ろを振り返ってみる。東京の9時すぎの繁華街はみんな好き勝手に歩いて、私なんて大勢のうちたった一人だ。テレビによく映っている景色を構成するひとつのエレメント。綺麗な顔の、冷たいように見えて優しい、冬の氷のようで夏の積乱雲のような後輩は、年下の幼馴染の賢二郎は、どこにもいなかった。


「もしもし……」
 手元の感覚だけでスマホを掴む。こんな朝早くからなんだよ、と思うけれどこんな時間にかけてくるのは決まって知り合いだ。親とか、そう、例えば後輩とか。無視すると一番面倒臭い人たち。
「みょうじさん、いま起きたんですか?」
 低い声、それを聴くと喉の奥から甘い何かが迫り上がる。ちょっと掠れた声からは疲れが滲み出てて寝起きの頭ではうまく処理が進まない。ゆっくりと枕元の目覚まし時計をみる。外はまだくらい、黒よりは青いけど、青とは別物だ。
「うっわ、うわ、うわー。ちょっとないわ、ほんと君さ、ほんと」
「相変わらずみょうじさんの寝起きって変ですね」
「……午前4時に電話かけてくる後輩いる?」
「五色がしたらあいつぶん殴りますね」
「……うん、でしょうね。ほんとないんだけど、白布」
「なまえ、俺との約束忘れたわけ?」
「まって、突然何?」
「昔、俺と結婚するって」
「いやそれいくつのときの話? つかそれ白布がぐずってしょうがなかったんでしょ……」
「ああ。覚えてるんだ。意外です」
 突然懐かしい呼び名をされてちょっと混乱する。『後輩』から幼馴染にうつりそうで、私は眉間を指で押す。後輩は後輩、幼馴染は幼馴染。超えてはいけないボーダーラインというものは見えなくてもたしかに私と彼の間にある。それに約束は「ずっと一緒」であって結婚ではない。奴の口車に乗ってはいけない、幼馴染とは違う男と私は幸せになりたい。
 ああ、でもいつから賢二郎は私を名字で呼ぶようになってしまったんだっけ。なんでこんなにも他人行儀のくせしてまとわりつくのが昔と同じなんだろう。私はずっと、ずっと答えが分からなくて、ずっと態度を決めかねているというのに。



 助けて、という言葉だけをグループラインに投げる。時刻は午後2時過ぎ。ある程度は暇している時間だと思う、それにこのまえ集まった時はみんな就職先も決まっていたから、きっと暇しているに違いない。そう希望的観測をして(元)高校バレー部にメッセージを投げたわけだ。
「で、どうしたわけ〜?」
「天童、川西……!会えて良かった。まじで君たちがコートの外でこんな救世主に見える日が来るとは思わなかった……」
「……なんか、めんどくさいテンションじゃない?もしかしなくてもなまえっていま酔ってる〜?」
「面倒なんですけど……昨日も夜中まで飲みに付き合わされてたんで金も何もないんですけど」
「払うわそのぐらい」
「アッ、コレだいぶ追い込まれてるネ」
 ですね、とちょっと私のテンションに引きながら、前の座席に並んで座る。180cmごえは流石に座高も高いなぁと思いながら見上げる。やっぱりこうしてみると身の丈にあった身長差というものがあると思う、そういう点で見れば白布は100点満点なんだよなぁ。そもそも顔はすきだし。
「で、なんですかなまえさんは。白布の惚気ですか?」
「は?」
「さすが幼馴染〜、反応一緒〜!」
 川西がさらっと私にとどめを刺してくる。いや、たしかに、白布の話だけどべつに一切、惚気なんかじゃない。元気に茶化してくる天童をきっと睨んで私はカルアミルクをまた呷った。違くて、と切り出せば「なにが違うの?」と天童に目を細められた。
「……白布に、プロポーズまがいのこと言われた」
「惚気じゃん」
「天童さんも思います? 俺もです。つか、夜中にも白布に『なまえにプロポーズ断られた、いみわかんねぇ』って呼び出されたんすよ」
「惚気じゃ〜ん」
「ここに何を惚気とするのかの大きな解釈の溝があるね?」
 楽しそうに「惚気だ惚気だ」と言い張る同輩と後輩に冷たくいえば、川西の表情が凍てつく。その反対に天童の顔がキラキラ輝く。
「だってなまえはそのプロポーズ受けるでしょ、賢二郎に甘いし」
 白布に甘い?納得がいかなくて「そんなことない!」という否定の声が大きくなる。だって。白布は弟みたいなもんだし。弟と結婚したいと思うだろうか、いや、思うはずがない。
「ある〜〜〜!」
「それはむしろある以外ないでしょ」
 無情な言葉が降ってきて、思わず立ち上がる。なんで、ともう一回聴こうとしたら川西が私にまぁまぁとなだめてくる。ぐ……と握りしめた拳をなんとか何もせず納めて座る。川西の後輩力に免じて許す。白布だったら顔面に樋口ぶつけて家に帰ってた、いや、まさに昨日やったけど。
 もう一回カルアミルクを頼む。それ以外飲まないんか、と呆れられているだろうけどそれ以外飲みたくない。現実はビターだ。学生にはわからんし見えない部分の苦さを口の中で中和しているのだ。いや、まだ私も学生だけどさ。
「賢二郎は諦めてる様子ゼロでしたよ」
「なんで〜〜?なんであいつあんな、あんな、私にこだわってるの……?」
「好きだからデショ」
「なんで〜〜?!」
 ゴン、と顔を机にぶつける。ずっとなんでなんでなんでが頭の中で巡ってる。私はたしかに幼馴染として賢二郎のことは好きだし、なんならあの子は私の初恋には違いないけど。でも、だからって、今さらそんなん言われても、こまる。寝不足の頭に酔いが回ってきたのかうまく感情がまとめられない。これも午前4時の賢二郎のせいだ。小さい頃から可愛げなんてなかったけど。
「なんでもこうもないんじゃないすか。医学部ストレートですよ、なんせ」
「なにが学歴と関係があるのかわかんないよ、川西〜……」
 こりゃだめだね、と天童がぼやく。だめじゃない、と反論してみるけどこれはだめだ。お酒は弱いわけじゃないけど、これは、なんか、もう疲れてるし眠い。「先輩」と私の肩を揺らす川西の声が賢二郎に思えてくる。
「賢二郎はさぁ、彼はさぁ、まっすぐすぎるよねぇ……怖すぎるよ、一途っていうかそれ以外の選択肢がないだけじゃないの……?」
「そうともいいますね。あいつ、牛島さんにトスあげるためだけに白鳥沢くるわ、推薦蹴散らして正セッターだわですよ」
「英太くんも認めさせてたしねぇ」
「私だってね、賢二郎のそういうところすごいと思うしすきだけどさぁ」

 昔からそうだ、絶対やるって言ったら絶対やり遂げる。周りだってそんな賢二郎に期待してきた。そして彼はそれに答え続けている。医学部ストレート合格がやっぱりその最大の彼の誉れだ。2流私大に推薦で入った私とは世界が違いすぎる。そう、もう違う。彼なら私よりもずっといい人に出会える。まだ彼は来年も学生なのになんでもう身を固める気なんてもったいない。

「すきだけど、すきだけじゃだめでしょ……川西ぐらいチャラい方が楽」
「エッ、じゃあ俺となまえさんで結婚でもします?」
「それもい〜ね」
「いいんだ……」
「ちゃんと好きなの?あれダヨ、恋愛的なアレ」
「そうねぇ、すき。すきよ」
 むくり、と起き上がって川西の手を掴む。顔が熱い、照れじゃない、これはあれ、そう酔いだ。ぐらぐらする視界で川西の顔を覗き込む。あれ、おかしい、川西って手がこんな冷たいっけ。こんな外から入ってきたばっかみたいな冷たさ。眠いけど、川西の顔をどうにか目を開いて見る、見るけどあれ、川西……もしかして髪染めた?ミルクティーみたいな淡い茶色の前に思考が停止する。
「ふーん、なまえって俺のことすきだったんだ」
「け、賢二郎?なんで」
 指先から冷たいものがさぁっと頭まで駆け巡っていく。こんなことをするのはもちろん天童だし、賢二郎に脅されるのは川西だ。グルだったのか!と言いたい感情が湧き上がったけど、私の手の下にある賢二郎の手がぎゅっと固く握り込まれていて、なにも言えなくなった。
「で、いい加減諦めた?」
「……まだ、あとちょっと待ってよ、ばーか!!ほんっっとにばか……」
 ばか、と上ずった言葉の先に続ける言葉が浮かばなくて、もう一度「ばか、賢二郎」と幼馴染を詰った。素直になりきれなくて、ごめん。それが言いたかったんだとわかっても今更過ぎて、それからまぶたが重くて、そのまま賢二郎の手を握り締めたまま私の意識はフェードアウトした。



「悪いけど、手放す気とかさらさらねぇからな」
 次に目を開けたら私のまぶたはすんなり開くし、だるさも何もない。ただ、私の視界いっぱいに広がったのは不満を顔にたっぷり塗りたくったような後輩の顔。眉間のシワなんて芸術品を思わせるぐらいだ。あー、これアルコール抜けてない。
「で、現実逃避は今で終わりました?終わりましたね」
「ちょいちょい後輩ぶるのやめてもらっていい?」
「やだ」
 敬語とタメ口が混ざる賢二郎にため息をひとつ溢す。これは後輩である、幼馴染の賢二郎と何が違うかっていうよりもなんか、敬語で賢二郎に話しかけられると背筋が伸びてしまう。つまりは気分。
「やだっていってもね……君、そもそもなんで敬語使うようのなったの?」
 アルコールは抜けきってないけど、危機感という本能に近いものは私の中で目が覚めたらしい。賢二郎の顔が近い、というよりも賢二郎しか見えないし、重い。逃げようにも背中がぶつかっているのは柔らかいような硬いような何か。これは多分ソファーだ。ちかちかと私の頭の中で赤信号が点滅する。
 そんな私にお構いなく賢二郎はずい、とさらに距離を縮めた。
「言いたくない」
「……じゃあ、私も結婚しないよ」
「指輪はめてんのになにを今更」
 ばっと反射的に左手の薬指を見る。たしかに、そこにはシンプルなシルバーの鈍いひかりがある。まさか、と息を飲んでそっと手を傾ける。きらりと私の目に鋭いひかりが入ったあと、陰の中で細いリングのシルエットが浮かび上がった。
「いつのまに……?」
「なぁいい加減認めろよ。俺はもうなまえ以外無理なんだけど」
 「そんなのわかんないでしょ」と言う私の声はかすれて、とてもじゃないけど威圧感はなかった。これはもう相手が悪い。これと言ったらこれ!とやり遂げることができる白布賢二郎だもの。わかってることは私だって初恋を拗らせている。こんな男の子に恋をしてしまったらそりゃ美化もされるし、超える恋なんて起こりえない。でもそんなのは私だけの都合じゃないか。
「なにをもって無理なの」
「……なまえが、太一とか他のやつと結婚すんのとか、付き合うのとか想像しただけで、俺じゃない理由がわかんねぇし。……わからないのがいやなんだよ」
「賢二郎、私ね、甘いのはカルアミルクだけでいいの。現実まで甘かったら食あたりしそうでしょ?」
 賢二郎が「は?」と固まる。これはちゃんと言わないと困るのは賢二郎なので、私はそのまま続ける。「こんなラブロマンス要らない」アイ・ラブ・ユー、の呪いなんて私には甘すぎる。
 数回長い睫毛に縁取られた目をぱちぱちと瞬かせる賢二郎を見る。こうやっていると年相応、いやもっと幼くみえる。あー、こういうとこのギャップがズルすぎるでしょ。
「いつ、俺があんたへの感情が『甘い』つったんですか」
 ラブロマンス、そんなふうに詰ってみたりはするけれど。私はほんとはわかっていて賢二郎をけしかけたような気がする。もういいや、全部が全部、アルコールの入った頭のせいにしてしまおう。
「……味見しなくちゃわかんないでしょうよ。それでもいいなら」
 賢二郎の左手の薬指に視線をめぐらす。私と同じ色のひかりがそこにはやっぱり灯っていて、何故か無性に安心してしまった。賢二郎が私にこれを受け取ってもらうと決めていたのなら、もうしょうがないのかな。
 強がる言葉とは反対に、私の体からはゆっくりと力が抜けていく。それを降伏と完全に理解できた賢二郎がゆっくりと私にのしかかる。
「重いよ」
「……うるっさい、なまえは素直じゃなさすぎ」
「じゃあ素直な賢二郎くん、『すき』って言ってよ」
 これは予想だ。いや、願望だ。
「はぁ……。これでも、俺も、その」
 どうか、どうか。「普通にすき」とささやく私とお揃いで素直になりきれない白布賢二郎とのこの恋が、舌先に煩わしく残る甘さとは無縁であれますように。

20.01.31

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