爪のカタチが知り合いと似てる

 ある物体の全ての構成要素____例えば髪の毛とか____が少しずつ置き換えられたとき、同じであると言えるんだろうか。

 あなたに合わないうちに髪が伸びて、爪が伸びて、皮膚の細胞が生まれ変わってしまうなら。

 大きく見た目はかわらないけど、今のわたしの身体のどこにも、あなたが残した跡も熱も覚えていない。
けれど、わたしは指をそっと蛍光灯の光の下に掲げる。
 爪先はきれいなコバルトブルー。でも切り揃えたばかりの爪先は歪な弧を描いている。わたしはまだ爪をきるのが苦手なままだよ、10年も経ったのにね。掲げた手をぎゅっと握りこむ。指先は少し冷えていた。

 ねぇ、傑。あなたの足の爪先は何色をしているの?



「なまえ、さすがに爪長すぎるよ」

 任務から帰って、怪我を治してもらおうと寮へ入って開口一番。硝子がわたしの指先をみて顔をしかめる。言われてみれば、とわたしは自分の爪の先を見下ろす。最後に爪を切ったのはいつだろうか、すぐに辿れないということは1ヶ月以上は切っていないかもしれない。
 ちょっとした武器になりそうな爪先をみて、ここに呪力を流して戦えないかなとか考えてみる。これならうっかり武器から手が離れても安心だろうし。

「話聞いてた?」
「爪を切れってことでしょ、いま部屋のどこにおいたか思い出してたの」

 「嘘だな」と硝子は短い黒髪を揺らしてため息をつく。爪切りの場所をすぐに思い出せないのは嘘ではない。
 机の1番上の引き出しに入れておいたような気がするけど、ポーチの中のような気もする。もしかしたらベットの下に入り込んで埃まみれかも。

「爪も切るけど、それよりも反転術式お願いします」
「やだよ。だって直したらもっとながくなりそうだもん」
「むしろそっちの方が器用だし、呪力の消費凄そうなんだけど……」

 硝子はベーと舌を出して、「こう見えて私は忙しいんだよ」と万年準一級のわたしを揶揄した。準一級で頭打ちは実に一般的だろうと思う、そんなぽんぽん一級術師になれたら呪術界は永年人材不足じゃない。
 わたしは唇を尖らせて硝子の背中にどんと勢いよくぶつかってやる。そういえば、硝子に会うのもかれこれ一週間ぶりぐらいだな。

「あ、夏油。帰ってたんだ」
「……ああ、なまえに硝子か。久しぶりな気がするな」

 オフなのか、いつもお団子に結えている長い髪を下ろして夏油は一人共有スペースでぼんやりと宙を見ていた。ゆったりとした速度でわたしたちの方を振り向く。
 その顔が、猫背のその背中が、なぜか異常さを匂わせてきてぎゅっと手のひらを握る。怖くなったわたしは口元に笑みを貼り付けた。

「そうかな、わたしは任務行くときに見たけれども?」
「私は昨日夏油が帰ってきたの見たけど」

 高専の3年になってから、五条も夏油も『特級術師』になってしまった。

 『特級』の特は特別の特。

 それを象徴するかのように夏油も五条も最近は授業に顔さえ出さない。出さないっていうのは卑怯な言い方だ、出せない。だって任務が1番だから。最近の授業はわたしと硝子の二人っきりというのが当たり前になりつつある。

 1年前は、しょっちゅう夏油と五条がケンカしていたのに、今はふたりが隣を歩いているのをみるのすら稀になってしまった。それが、わたしはすこし寂しい。変わっていってしまう。わたしだけおいて、みんな遠くへ行く。

 沈黙が落ちる。ふと見れば、共有スペースのカーテンが閉められていてまるで留守の部屋のようだった。わたしは窓際まで歩いて、カーテンを開ける。真夏の昼間の直角に近い陽射しがこの部屋にも突き刺さってきて目を細めた。
 空はいつもどおり青かった。けれど、一年前に馬鹿騒ぎした青空はそこにはないのだろう。

「そうだ、夏油。ちょっといい?」
「何か用でもあるのか、硝子?」
「ちょうどいいからなまえに爪切りかしてやってよ」

 硝子が名案、とばかりにそう夏油に尋ねる。
 「ちょっと、硝子」慌てて硝子の腕を掴むけどすげなく振り払われる。
 ウッ、と一歩後ずさると硝子の髪型サラリと揺れて、黒目の大きな瞳がわたしを射抜く。『うだうだいってないで やれ』というとこだろうか。常に無気力、省エネがモットーな硝子にしては異常なレベルの怒りにわたしはうなずくよりほかない。

「はは、別に私は構わないよ。なまえが嫌ならもちろん手は引くけれど」
「い、いやじゃない。…………貸してもらっていい?」
「もちろん。よく悟も借りていたしね」

 五条の名前を出したのは夏油だった。でも、名前を聞いただけのわたしよりも夏油の方が傷つけられたひとの寂しい顔をした。


 
 はい、どうぞ。と部屋から出てきた夏油がわたしに銀色の爪切りを差し出す。まってて、とひとり部屋に戻ってそのまま出てきた夏油に首を傾げた。夏油の部屋にひとりで行くなんてはじめてじゃないのに。いつもならせっかくだし、と微笑んでいれてくれるのに。

「今日はだめだよ」
「なにもいってないけど?」

 「今日はだめなんだ」答えになっていないのに夏油はもう一度わたしに言う。微笑む、の定義がただ単に口元を歪めることならきっと、夏油の顔に浮かんでいるのは微笑み。でも同時にわたしの口元も微笑んでいることになる。なにもいわずとも不満を悟られているのに?

「なにかあったの? ちょっと痩せたよね」
「……ああ、最近忙しくて部屋が荒れ放題なんだ。とてもじゃないが見せられない」

 肩を竦めてわたしの質問を避ける夏油は、じゃあ。と背中をむけようとする。今日じゃなきゃ明日がある。わたしたちは同じ寮に住んでいて、明日だって会える。わかってる。それでもわたしはそのまま夏油が部屋へ戻るのを止めたくて、だから。

「じゃあわたしの部屋来て」

 さすがにその言葉を聞いた背中はぴくり、とはねる。そして間をおかずのはぁ、と大きなため息が夏油から漏れた。全身でつくような。くるり、とこちらを夏油が振り返る。そのまま腕をくんでわたしを覚めた目で見下ろしてくる。

「……はは、やけに今日は積極的だな」
「深い意味なんてないよ。夏油が五条を部屋に入れたり、硝子に反転術式やってもらうのと同等」
「私は信用されてない?」

 個人的にはわたしにとって最大の信頼としての例だったのに、そうやってすげなく断られるのは心外だ。たしかに五条なんかは甘えだといいそうだし、硝子はただの事務じゃんとたばこを蒸してスルーしそうではある。でも、夏油なら伝わる。
 わたしは臆せず夏油を見上げる。夏油の目元のうっすらと暗さが消えきらないのが嫌だった。笑ってよ、独りで抱え込まないで。

「そういうことじゃないよ。むしろ信用してるし」

 わたしの答えを聞いて口の端を歪に上げたとき、背中が一気に冷えたような。冷や水をなんの予告もなく頭からかぶったような。冬の朝のような心地がした。指先が冷たい。寒い。
 「そうか」とだけ返す夏油の口。さっきまでの歪めるものではなかった、そうだったらまだよかった。どこか割り切ったように綺麗な弧を描く口元。歪めるならば、まだSOSのように思えるのに、これじゃもう『助けて』すら言ってくれない。

「……さっきの取り消す」
「そうか」
「わたし、爪切るのがね、苦手なの」

 真夏。外なんてもう30度を超える。それにも関わらず、わたしはさっきから寒くて仕方ない。目の前の男に縋るように手を伸ばす。冷えた指先を夏油の指先に絡める。

「ばかなお願いするけどさ」



 昔からずっと爪を切るのが苦手だった。
 どこまで切るべきなのかわからないし、白い部分を残さないのは格好悪いしスースしていやだった。なによりも、爪切りの二つの刃の間に指を添えるときいつも、わたしの胃のあたりがひゅ、と冷たいものが堆積する。
 意を決して爪を切ればパチン、と大きな音がする。その音はわたしの胃にたまった正体不明の冷たい何かを流動性のあるものに変えてしまう。どろどろと喉まで迫り上げてくる。
 理解されるなんて思ってはいない。
 そりゃ生きていれば、お腹は空くし、髪は伸びるし、爪だって伸びる。生きているわたしたちの特権。わたしだってそのサイクルを受け入れている。でも、爪を切るとき見苦しくも『いやだ』と騒ぐのだ。全ての細胞が入れ替わっても、わたしはわたしと呼んでも構わない、その理由……いや証拠をずっと求めてる。



 頭の上の方からエアコンの冷えた空気を出す、そんな色気のない音がする。目を閉じる。視界の遮られた中で、その音に耳を澄ませ、わたしは冷たいものを吐き出そうと腹式呼吸を繰り返す。

「覚悟はいいか?」
「いや待って、ちょっと待って、あと5分……」
「はは、なまえ。そういって15分経つよ。これでこのやりとりも3回目だ」
「…………ごめん」

 右手を夏油に差し出したままわたしは床に顔を押し付ける。人に頼めばどうとでもなりそうだと思ったけどそういうわけじゃないらしい。「うまく行きそうだったのに」そうわたしが唸る。ぷっ、と控えめながら腹立つ音がして、わたしは顔だけ夏油の方を向いた。

「笑うことないでしょ」
「いや、ごめん。でもなにがそんな怖いのかわからないな、これただの爪切りだろう?」

 目元にしわがよると、切れ長の目の下のくまがより一層目立った。けれど、それを隠そうとしないで、夏油は彼の手の中の爪切りをぷらぷらと揺らす。そうやってからかわれるのはわかっていたので、わたしは夏油からふいと目をそらして、またフローリングに顔を押し付ける。わたしの体温がうつったせいで生温い。

「……自分を削ぎ落とすみたいじゃん」
「その長さだと爪が折れるより先に剥がれるだろ?」

 はぁ、と今度はわたしの口からため息が漏れる。爪が折れるのは意外とあっけなくて、折れたことには気づかないものだ。けれど、爪が剥がれるのは本当にいたい。いつかに呪霊との戦闘中に剥がれた左手を握りこむ。

「わかってるよ。でも、爪を切って髪を切って眉を整えて、細胞はわたしの知らないとこで入れ変わる」
「それが人間の生命としての在り方……いやサイクルだ。受け入れるべきだろう」

 まるで生物の教科書を音読するかのような夏油の返しにわたしはごろり、と仰向けに寝転んでやる。「受け入れてるわ、受け入れるだけなら」そうはっ、と嘲るように掠れた声で呟く。「悟みたいにいうんじゃないよ」と呆れたようにわたしの顔を覗き込んだ夏油に「コメントがこわいんだけど」と唇を噛む。

「……自分で爪を切れよ。私はもう部屋に戻る」

 わたしの返しが気に食わなかったらしい夏油が、小学生とか、それこそ拗ねた五条みたいな顔をする。ほんの一瞬だけ。今日の夏油はまるで万華鏡のようだった。それだけゆらゆら揺れていて怖いと思う。けれど、きっと小学生のような拗ねた顔も、無痛覚な大人の笑みも、あるく教科書のような優等生もきっと全部、夏油傑だ。

「じゃあ、受け入れてもなぜ切らないんだ?」
「自信がないの」

 直接音にはされなかったけど『理解できない』とでもいうかのように夏油の眉にしわがよる。逡巡。けれどやっぱりわたしは続けた。

「……全部入れ替わっても、今のわたしと違うもので構成されても、わたしはみょうじ なまえであるのか」
「テセウスの船かい?」
「……そうだよ。器が変わっても魂が同じならそうかもしれないし、実際問題変わってても変わってなくてもどうもしないけどさ」

 改めて口にするとわたしはくだらない理屈に囚われている。指先の冷えは床に吸われてしまったのか、もういない。見えないものを説明する厳しさなんて、呪術師であるわたしたちへの業のようなものなんだろうか。
 そっと手を伸ばして、夏油の眉間に触れる。

「ああ、なまえは目に見える証拠が欲しいわけか」

 夏油はわたしの指先は拒否せず、そのまま会話を続行した。だからわたしも気にせずに「うん」と返す。そのわたしの動作を確認して、夏油はああ、と思いついたかのように付け足す。

「魂は流石に可視化はできないからな。そういう術式があってもおかしくはないけど、まぁ現状からいえばいない」
「いたらすでに話に上がってるでしょ」

 わたしが拗ねたように言えば「同感だ」と夏油は首を竦める。突然の行動だったので眉間からわたしの指先が離れる。伸びている爪はやっぱり目近くにあると怖いのだろうか。ちょっと悪いことした気がする。

「……今ならいけるかもしれない」
「それを信じられるほど私は優しくはないよ、なまえ。……あ、あれは?」

 ぽつり、といった言葉に夏油が嫌そうな声をあげる。わたしが夏油を信頼する、しているではなくて夏油がわたしを信頼してないってことじゃん、これ。最終的にわたしの方すら見ない夏油は、わたしのベットサイドの棚の方を指差す。

「あれ? ああ、マニキュアがどうしたの?」

 ベットサイドへ視線を滑らせる。なんの特別なこともない。けれど、この前歌姫先輩からもらったコバルトブルーのマニキュアが場違いにも置いてある。

「これを塗ればいいんじゃないか?」

 まじまじと夏油が小さな小瓶に詰まったコバルトブルーを見つめる。子供のように目がキラキラとしている。たしかに男子からすれば珍しいものかもしれない。そんなことを考えていたら夏油の言葉に反応が遅れた。いや、どういう。

「ごめん、話が飛躍しすぎてついていけない。それを塗ってどうするの?爪は伸びるよ?」
「ああ。端折ってしまってすまない。……そのマニキュアを塗ってある爪をなまえである証明とすればいいんじゃないかと思ってね」
「……爪を切ったら毎回塗ればわたしはわたしであると?」
「少なくとも色はね」
「解決かどうかはわかんないけど。うん、アイデアとしては楽しそうでいいかも」


「そうかい?」と夏油がこちらを伺う。これはほんとに信頼がないな。「うん」と頷いてわたしは、はは、とか擦れた声で笑った。

「じゃあ、右手を失礼」
「……よ、よろしくお願いします」
「これでもまだ怖いか…………」
「わたし、まだ、なんもいってないよ」
「ぎこちなさすぎる」

 ぱちん、ぱちんと切り離されていく音がする。怖い、今日のわたしは残るかもしれないけど、17年間のわたしは消えてしまうんだろうか。右手は夏油に委ねたまま、わたしは左手で夏油の白いシャツを握りしめる。「すぐる」わたしの裏返った声と爪を切るぱちん、という音がかさなった。消えてしまうなら、今ここで、特別な何かを産み出してしまいたかった。わたしの恋心さえも、全部揺れて、まっさらなものに飲み込んでしまいたかった。



 「傑」何回そうやって握り締めたかわからない。わたしの手のひらの下にあった夏油……いや、傑の白いシャツはしわくちゃになっている。一生分の「傑」という言葉を吐いたような気さえしてきた。傑と呼ぶ声が悲鳴のようでもあって、指全部の爪を切りそろえたとき傑は「がんばったね」とわたしの背中を摩った。

「すぐ……傑。傑」

 小さな子供のように腕を震わせて、傑の首元に腕を回す。フローリングと共有したはずの熱は汗となって消え失せた。自分を失ってぐらぐらしているのか、この空気によっているのか、もうわからない。ただ、傑の熱が心地良くてどこまでも溶けていってしまいたかった。隙間がないように傑の背中に爪を立てる。

「一旦離れてくれるかい?」

 傑のその声はわたしの頭にすっと、冷たく広がる。慌てて指をギュッと握り込む。ぬくもりが名残り惜しい。

「あ、ごめん。突然、変なことして。……怒ってる?」
「いや、それはない。まぁ、その、たしかに驚いたが」

 が?口元を覆って傑がわたしから視線を外す。耳が赤く色づいている。その、と口籠もりながら、傑はゆっくりと目だけこちらに向けた。

「なまえに『傑』と、呼ばれるのもアリだなと」
「なにそれ」

 おかしいよ、傑。

「それ以上されるとさすがの私も心臓がもたないんだよ」
「傑はそうやって女の子を骨抜きにしてきたの?呪いよりタチ悪いんじゃない?」
「いうね。私は今はなまえだけだっていうのに?」
「付き合ってもない人にいわれたくなーい」
「……じゃあ付き合うかい?」

 息を飲む。ほんの一瞬の逡巡。ちょっとした仕草を夏油は見逃してはくれなかった。あっという間にわたしの腕を背中から剥がしてしまう。

「さ、もう一回手を出してくれるかい?」
「……なんで」

 付き合うかい?という言葉も、手を出せ、という声も全部がいつも通りでわたしには意図がさっぱり見えない。
 きっとわたしの顔のは不満が隠すことなく塗られていて、傑は「正直すぎると騙されるよ」と笑う。それから、コバルトブルーの小さな小瓶をわたしの前で振る。

「これを塗るまでが私の仕事だよ。なまえはこういうのが下手そうだしね」
「ええ……そこまで?」

 さすがにそこまでは時間をもらいすぎじゃないだろうか。そもそもわたしが爪を切ってもらうまでにうだうだ言っていたせいもあるけれど、これ以上はせっかくの休みなのに休ませてあげれないように思う。

「なかなか楽しそうでいいけれどね。私の色に染めてもいいみたいで」
「変態……」
「はは、別になまえも私をすきに染めればいいのに」
「ええ……」
「冗談さ」

 傑が戯けや仕草で首をすくめる。そのままわたしと目を合わせずに、わたしの右手の小指に視線を落とした。

「そんなのずるいよ」
「……冗談じゃなくするのも悪くはないが」
「じゃあ傑も足出して」
「まだなまえが終わってないだろう」
「傑の証明として青い印をつけるだけ。……これが終わったら夏油としか思えないし」

 傑はぴたりと動作を止める。「普通に呼んでくれればいいのに」と漏れた声は多分、本音だった。

「これ以上かわりたくないよ」
「変化を求めないなら死ぬだけでも?」
「そうだよ」

  変わりたくない。けれど、置いて行かれたくないし置いて行きたくない。傑のたれている前髪をそっと指の腹で撫でる。その所作に傑がこらと宥めてくる。

「せっかく塗ったんだから右手を動かさないでくれ」
「わたしも塗るから、まだ帰らないで」

 変わりたくないわたしは、変わってしまった状態のままを保存したがった。スポンジに力を加えて歪んだまま。

「わかった、わかったから一旦落ち着け」

 傑のその言葉に渋々右手をフローリングの上に置く。

「私の足なんで見ても仕方ないだろうに……」
「わたしもなかなかの変態だったみたい。やめる?」
「……悟みたいに煽ってくるなよ」
「いちいち引き合いに出さないで」

 「これじゃどちらが襲われそうなのかわからないな」とわたしの顔に垂れてきた髪を傑がそっと掬う。この部屋を出るときには、わたしの指の爪も、傑の素足の先もコバルトブルーをしていた。



「すみません、先輩。わたしはまだ一級推薦の話はちょっと」

 カラン、とわたしの手元のグラスで氷がぶつかる。
 歌姫先輩は顔を伏せた私に「そう……」とこの前と同じ表情をした。歌姫先輩はいつも京都にいるので、会うことはそんなに多くはない。多くないその機会で、わたしはいつもそんな顔をさせてしまう。弱ささえ、結局誰かに傷をつける。それが紙で切ったようなものだとしても、傷だという事実は変わらない。

「でも、本当に気が変わったらすぐ連絡するのよ?」
「はい」
「で。本題は片付いたからもう一個」
「はい?」
「……アンタを紹介してほしいって言う男がいるんだけど、どう?」

 すっかりお決まりになっている流れにわたしと先輩はどちらからともなく笑い合う。まだ昼間の喫茶店だしわたし達はとっくに女子を名乗ることも、ティーンエイジャーからも歩いてきてしまったので、声を殺して笑う。

「もー、どうってなんですか……歌姫先輩いつもしてきますよねそれ。また同じ方ですか?」
「ま、そうね。なんならアンタが学生の頃からせっつかれてんだから、いい加減色良い返事すれば?」
「うーん、そういうのはちょっと……」
「別に絶世の美男子じゃないけど、そこそこイケてるわよ。なまえったら写真すら見ないけど」

 やれやれと肩を竦めて顔を振る。わたしはそうだなぁ、と毎度のことながら断る理由を考える。術師というのは忙しいので、出会いはない。恋人ができてもいつのまにか終わっている。ここ10年わたしはろくな恋愛ができたことはない。それこそ学生時代は非術師の男の子と付き合ったり振られたりしたものだ。硝子はバレないのにわたしは高確率で五条と夏油とエンカウントする。そしてネチネチからかわれる。懐かしいことを思い出して、喉の奥がピリと痺れた。
 先輩に突っ込まれる前に、絶対逃げ出すような話題にずらす。「そう、五条」とわたしが一言言うだけでこの場が凍ったのがわかる。

「美男子なら五条がいるので……むしろ目の保養しかならないですし、アレ」
「あーもうまじで五条アイツ……」
「あはは」

 ここまで来ると先輩が五条を嫌っているのはそういうフリなのではないかと思ってしまう。わたしは先輩が狼狽るのを机に突っ伏して緩んだ顔を隠した。

「五条にはそんな感情ないでしょうね?」
「あるはずがないでしょう……あんな厨二包帯クズ……」

 歌姫先輩のその言葉で顔をあげる。先輩の目に映り込んだわたしは年功序列もなにもかなぐり捨てたものだった。「心外です」と改めて主張しておく。何回でも文を変えて強調する。五条だけは、ない。
 そんなわたしの様子にちょっと安心したように先輩の肩の線が柔らかくなる。

「あんたは夏油のが仲良かったしね。……ほんとにできてなかったの?」
「付き合ってたらわたしなんてとっくに高専の監視下にいますよ」
「それはそうだけど」

『なまえ』
 わたしの手を取って微笑む彼の姿が、一瞬先輩の背後に見えた。付き合っていたなら、彼はわたしを殺したろうか。それとも手を引いていっただろうか。あまりにも現実感のない問いにわたしの口元は、ハハ、と乾いた笑みを吐く。

「じゃあ失礼します。先輩も、怪我には気をつけてくださいね」
「ええ、そっちこそ。硝子にもよろしく言っといて」
「五条には?」
「あるわけないでしょ!!」

 あはは、と先輩の食い気味のその声に耐えきれなくて笑ってしまった。



 冬が来ると時々寂しくなる。思い出してしまう、傑が、夏油が失踪してしまってから迎えた初めての季節だから。
 コバルトブルーの爪先は、悲しいぐらい冬の澄んでいる空気の中で色鮮やかで、わたしが今も立っている証明になってしまっていた。わたしがまだ爪を切るたび恐怖していることを知ったら傑は笑うだろうか。ううん、目元までくしゃりと歪めてほしい、そうであって欲しい。

「あれ」

 マンションのドアの前に黒い長身が立っている。日本人離れした白い髪、目には黒い目隠し。わたしに気付くと右手をあげて口の端をあげる。

「……ああ、なまえ。遅かったね、冬に玄関先で、こんなグットルッキングガイを待たすなんていい度胸してんじゃん」

 わたしも一応、高専に所属してはいるけど、教師をやってる五条たちに比べてわたしは高専に行くのは少ない。必然的に五条に会うのも久しぶりだし、この五条悟節を浴びるのも久しぶりなのだ。そうだ、こいつはこういうやつだった。

「いや。突然押しかけて何言ってんの」
「寒いから入れて。鍵これ?」
「ちょ、え、五条!」

 わたしが手元で弄んでいた部屋の鍵をあっと言う間に取られる。相手は190超えの巨人だ、いくら手を伸ばせども取れる見込みはない。やけに機嫌のいい五条に違和感を覚えつつも、鍵穴を回す黒い背中をみていた。

「うわー汚ねぇ」
「うるさいな。五条とか硝子ほどじゃないけど忙しいの」

 沈黙。

「……24日も忙しかったんだ?」
「そうだよ」

 2017年、12月24日。
 特級呪詛師、夏油傑率いる一派が高専両校を襲撃する。そう言われたとき『どうする』と聞かれたから、わたしは『戦力にならないので』と辞退した。それだけ。

「オマエだって準一級、いや一級同等の実力があるのになんで昨日の百鬼夜行にこなかった?」
「行きたくないって言ったの。わたしが言っても戦力にならないから」
「さっき僕の言ったこと聞いてた?」
「いいたいのはそれだけ?ならさっさと帰って。伊地知くん呼ぶよ」

 部屋は寒い。わたしの記憶は傑と過ごしたあの夏で止まっている。床、床だけが冷たくて、爪が青くうまれおちる。

「離して」

 逃げたいわたしを五条が「本題はまだある」と薄っぺらく笑う。わたしは昔の五条の馬鹿みたいに大口を開けて笑うのが好きだったよ。言ってやろうかと思って、五条を見上げた。

「あ、やっぱり」

 まじまじと右手を見られる。科学者が顕微鏡を覗くように、医師が聴診器から音を聞くような。

「何がやっぱりなの、なんでもいいから離して」
「爪の色、傑の足と同じ色だろ?それ」
「……それが、五条となんの関係があるの」
「へぇ、否定はしないんだ。ま、いいけどさ」

 「離して」とだけ吐き捨てれば五条は「おーこわ」なんて嘲笑った。

「傑は、昨日。死んだよ」
「……五条が殺したんじゃないの」
「はは、御名答。僕が、昨日。傑を殺した」
「教師面しないでよ」
「もっと取り乱すかと思ったんだけど、もしかしてそうでもない?でもオマエ、傑と」

『なまえ、また明日』
 わたしの手を取って微笑む彼の姿が、一瞬五条と重なって見えた。傑に、明日は……ううん、今日は来なかった。すぐる、そう呼ぼうとして、わたしはその音を飲み込む。

「……いや、夏油となんてなにもないよ」
「本当に?」
「嘘ついてどうするの」
「それもそうだ。……じゃあオマエが傑に囚われる必要はないよ」

 やめて。声にならない叫びがする。爪が切り落とされる音がする。ぱちん、ぱちん、そんな幻聴がする。すぐる、ねぇ傑。視線が床に落ちる。手は中途半端に五条の胸元をぐしゃりと乱すだけだった。

「わたしが、夏油に囚われてるって?」
「僕の見立てじゃね? なまえって傑のこと好きだったろ」
「五条に関係ないでしょ」
「オマエだって恋人じゃないなら傑と関係ないだろ。百鬼夜行……昨日のだってきてねぇんだし」
「なに?わたしは10年間止まったままだとでも?」
「いや全く」

 傑、ねぇ。わたしこれからどうすればいい?

「ほかの奴がどう考えてるかは流石の僕も知らないけどね。少なくとも僕は変わってると思ってるけど」
「他はわたしが夏油傑に囚われてるって思ってるんだ」
「んー、まぁね。歌姫とか学長とかは?」

 変わりたくなかったわたしが今日を終えようとしていて、全てを捨ててでも変わっていった傑の今日は存在しない。10年前のわたし達はいないし、10年後のわたし達の日々もない。

「……すきだったよ、夏油のこと」

 膝から力が抜けて、ペタリと小さくしゃがむ。

「ふーん、で?」
「うわまじでうざ」
「その爪はどーすんの?その色はもう廃盤決定したんだろ?」
「……そうだね、変わったら、わたしは」

 わたしではなくなるんだろう。きっと地獄へ落ちても傑には分かってもらえない。ならば。

「オマエは?」
「なんでもない。帰りなよ五条、あんたいま『先生』なんだから……まぁ尊敬されてないだろうけど」
「は〜? 僕はみんなからカリスマ性で尊敬の嵐なんだけど?」
「ワガママで死刑の子供に無期限の執行猶予つけておいてなにを」
「すごいでしょ」
「ハイハイスゴイスゴーイ」

 ならば、傑の知り合いに似ている人であろう。


 あなたに合わないうちに髪が伸びて、爪が伸びて、皮膚の細胞が生まれ変わってしまった。大きく見た目はかわらない。けれど、今のわたしの身体のどこにも、あなたがきった形も手のひらに移った熱もない。
 わたしは指をそっと冷たいフローリングに投げ出す。爪先は静かな黒。でも切り揃えたばかりの爪先は歪な弧を描いている。わたしはまだ爪をきるのが苦手なままだよ、10年も経ったのにね。投げ出した手をぎゅっと握りこむ。指先は少し冷えていた。

 あなたの爪先が、今も青いことをわたしは願っている

20.02.08

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