プロローグ
裸足が床を擦る。ひんやりとしている、と思ったのに、その感覚はもうない。そうか、これは夢だ。さっきまでは、あたたかい夢を見ていたような気がする。これは2つめの夢だろうか、それとも温かい部屋から出てきているだけの夢だろうか。
おそらく諏訪あたりにこんなことを零せば、散々からかわれるだろう。合理的な判断を下す、ボーダー隊員としての、A級の精鋭部隊の隊長としての俺が、呆れたため息をつくのをみた。らしくないのは十分承知で、それでも、誰かに夢をみたと伝えたかった。あいつなら聞いてくれるだろうか。……らしくない話を、笑ってくれるな。
爪先をつけるまでは冷たかった。たが、踵は、照明の落ちてくらいが、快適な温度のところに着地した。暗い、広い、目の前には大きなスクリーンがあった。
「先輩、こっちです」
聴き慣れた声が俺を呼ぶ。腕の中に昨日とじこめてておいた彼女が、小さく手を振っている。映画館、それはこいつがいるだろうと、知っていた。
「環」
少し軋むベットマット、それから、衣擦れ。温かな微睡みのなかで腕に力を込めれば、空をきった。どうやら、彼女が起きたらしい。こうやって、するりと腕の中から脱走されるのは初めてではない。俺からすれば脱走、としか言えないが、やっと恋人に昇進した後輩曰く、ただのスケジュール、らしい。
布団の中に閉じ込めていた温かな空気が秋の朝に広がる。寒くて思わず身体を硬くすると、なまえの残り香だけが広がった。俺から離れたところで、あいつが床を踏む音がする。彼女の爪先はどんな温度を感じたのだろうか。
次に起きたら、なまえはいなかった。今日はなんとしてでも東さんの研究室に寄らなければならないらしい。テーブルの上に置かれた書き置きの裏をひっくり返して見る。あまりにもシンプルな白で、あいつらしさと同時に嘘臭さが漂っている。普通このぐらいのことならあいつは前日にいう。そんなささやかな変化に気づくくらいには付き合いが長い。
「だからと言って東さんに電話して確認するのも考えものでな」
「……それでなんで俺なんだよ、何時だと思ってんだ馬鹿」
壁に掛けている時計に視線をやる。時刻7:23。逆に問いたいがおまえこそ何時だと思っているんだ。ふぁああ、という間抜けな欠伸で俺はその言葉を捨てた。起きたばかりか。
「環は意外と諏訪には素直だからな」
「アレは素直か?」
「俺にはなんでもは言ってくれないが、太刀川へは恋愛沙汰は持っていかないんだ、あいつは」
「で、惚気は気が済んだかよ」
電話口でガチャガチャという環境音がする。諏訪の方からだ。こんな時間になにをしているのか一瞬好奇心が頭をもたげたが、口を継ぐんだ。朝の支度をするのかもしれない。
「風間、今日何日かわかってんのか」
「23日だな、それがなんだ」
「…………俺がいったとか言うなよ」
「早く結論を言え」
はあああ、という大きな声がする。諏訪との電話は声だけにしてはやかましい。それがあいつらしさであるには違いないが。
「明日おまえ誕生日だろ。だから」
「……なるほど」
「サプライズだとよ。よかったな、かわいいカノジョが祝ってくれるらしーぞ」
「俺はいい恋人を持った」
「惚気んな」
「明日が楽しみで眠れないかもしれん」
「……じゃあ日付変わる頃まで起きとけよ」
諏訪が落ち着いた声で返す。含みを持った言い方に、なんだ、とからかってみればサッシが軋む音と、うっすら風の音がした。
「おまえらはカップル揃ってうっとおしくてめんどくせえ」
「もっと素直に褒めていいぞ」
「褒めてねーよバカ!」
21.09.23