メランジニットに三日月を隠すの


 チャイムが二回なった。一回のチャイムは下のロビーからで二回目のチャイムは玄関前からの呼び出し。帰宅したばかりの私はスカーフをちょうど足元に落としたところだった。
 ドアを恐る恐る薄くあけて、訪問者をうかがう。前髪、視線。どれも見慣れたもので、わたしの手から力が抜ける。とはいえなぜ?疑問に支配された手はドアから離れれば何事もなかったみたいにドアがまたぴったりとしまって、今度は外側に大きく開かれた。
 マフラーに顔を埋めた三輪くん。
 三輪くんが口をへの字にして、ビニール袋を差し出す。近所のコンビニの文字を冷静に読めるほど脳は落ち着いている。感情だけがわたしの陰で眠っているのかもしれない。

「これもらってください」
「……三輪くんが、わたしに? わざわざ?」

 まじまじと顔を観察する。いつもと違う表情をしているだろうか、と記憶をまさぐるけれど違和感なんか一つも覚えない。
 つまり、三輪くんは平常通りらしい。わたしのことを嫌いだといったのと同じ唇が、わたしへの言葉をひとつひとつ丁寧に紡ぐ。

「まあ、高校に合格したので。一応……お礼、です」

 二つ一組のアイス。いつだったか三輪くんに押し付けていたものと全く同じパッケージ。
 いま、体に広がっていく感覚がなんなのかはわからないけれど、でも、三輪くんの手をとることに抵抗はなかった。彼は緊張したように指を痙攣させた。なんだ、結局わたしのこと嫌いなままじゃない。笑い転がりそうなのをこらえながらわたしは外を指さす。

「せっかくだし、外で話そうよ」


 もう四時を回る時間なのに、あたりには太陽の面影がちらちら頭をのぞかせていた。もう春だね、と三輪くんに言ってみるけど彼は赤いマフラーに顔をうずめたまま何も言わない。貰った袋の中からパッケージを取り出して、アイスを二つに割る、ほどくわけじゃない、割る。三輪くんにひとつし出した。

「来年から三輪くんも高校生だよね。結局三門第一?」
「まあそうですね」
「来年度から三輪くんが後輩か〜、これから活動範囲が広がるね」

 蓋に詰まっていたアイスを指で押し出す。中身は何も変わらないのに、こういうみみっちいことをして食べたほうがおいしく感じる。なんでだろう。

 春めいてきたとは言え頭上に広がる空の色はまだまだ冬だ。誰もいない公園を独り占めするみたいに、ブランコの周りを囲う柵をまたいだ。アイスはまだ冷えていたけれど、ブランコの鎖ほどは冷えていないような気がする。座らないんですか、三輪くんが控えめに尋ねる。わたしはブランコから目をそらして三輪くんに向き直る。

「公園はこどものための場所だよ」
「アンタはいうほど大人じゃない」
「うん、まあそれはそうなんだけどね。でもきっと三輪くんが思ってるほどこどもではない」
「子供の定義はあるだろう。俺は感情論じゃなくて一般常識の話をしている」

 真面目腐った顔で三輪くんがアイスを持つ手を変える。感情論ときたか。わたしの手だって痛いくらい冷えていた。ふふふ、腹の底から笑いがせりあがって、耐えれなくなってわたしは大口を開けて笑った。

「か、かんじょーろん! あはは、三輪くんさあ、気をつけなよ?」

 喉に意味の分からない痰が絡まって、何度か咳ばらいを繰り返す。それでも勝手に肩が震えてしまう、耐えるように背骨を曲げるけれど、なかなか終わらない。あーあ、ねえ、どうしようもないね。

「どこにそんな大爆笑するところがあったのか……。理解できない」
「三輪くんほんと気をつけないとだよ」
「アンタいつまでも本題をきりださないよな。東さんも心配してる、俺がどうのという以前に、あの人に迷惑をかけてるんだからどうにかしろ」
「ふふ、三輪くんってわたしのこと嫌いなんでしょ?」

 がさがさした声。まるでそれは棘のように、三輪くんの顔に緊張を走らせた。そんな顔をさせたいわけじゃない。

 けれど、三輪くんはどうかしている。嫌いだっていったのは三輪くんだよ。わたしを喰らって戦闘員として強くなった。東さんはわたしとの対話を通してメンタルの回復を狙っている。
 でも、わたしは三輪くんの物語の文脈になんかならないし、マグガフィンにはなってあげないよ。わたしは三輪くんのために生きてなんてやらない。不幸になってほしくないけどね。

「嫌いだからこそ向き合うべきだという意見もある」
「それは東さんの意見だよ。自ら毒を飲む必要はないの、三輪くんはまだ被害者でいられるんだから」
「指図されるいわれはない」
「自殺した魂はどこにも行けないらしいよ、不思議よね」
「俺は無信教だし、文脈をすっ飛ばすな」
「奇遇だねえ、わたしも神様は信じていないよ。わたしが信じてるのは一人だけだから」
「……どうせ自分しか信じてないんだろう」

 三輪くんの持ったアイスから水滴がぽろりと落下する。彼の足元にはちょっとした染みが生まれていて、なんだか血痕にも見えた。

「うん、それがいい。きっと最善手ね。三輪くんは知らなくていいことだから」

 感覚が鈍くなった右手をそのままにアイスの容器に口をつけた。ちょっと冷たい飲み物に変貌したそれをすする。影は伸び、沈黙が静かにわたしたちのそばに寄り添った。


「あ、ねえ一緒に遊んでいかない?多分三輪くんってサイコーにブランコ似合わないと思うんだ」
「子供の遊びってバカにしてましたよね」
「馬鹿にはしてないから安心して。だってわたしもその枠に入るんでしょ? 三輪くん基準では」

 空っぽになったアイスの容器をゴミ箱に投げる。手から離れた後、きれいな弧を描いてカランと音を鳴らした。一発で入るとは幸先がいいのかもしれない。わたしを傍目にゴミ箱の正面まで歩く三輪くんの背中を見送る。

「よしわかった。じゃあプラネタリウムいかない?」
「何もわかっていないようなので、お断りします。そんなに暇ではないので」
「そっか。でもそれおかしくない? 暇がないならわざわざ家まで来なくてもいいでしょ」

 背中は特に動揺を見せなかった。表情はまだとりつくろえないし、敬語もおぼつかないけれど。
 それから、三輪くんはくるりと踵を翻してわたしの方まで戻ってきた。隣に並ぶと、心底不愉快そうに「何をすれば?」問うてきた。いじらしいな、と思う。愛とか恋とかそういう感情はまだよくわからない。有識者はわたしの心臓に住まう彼にそうやって名前を付けるかもしれない。それでも、わたしはまだ知らないからそうではない名前を付けておく。

「ブランコって最後に乗ったのいつ?」


 昔、ブランコが怖くて泣いたことがある。眉間の奥がぐらぐら揺れて、わたしは足を硬直させて。隣のブランコは大きな弧を描いて、キミはそりゃもう楽しそうだったのを今でも覚えている。きょうだいでもこんなに違うんだって、驚いたから。死なないでって泣きじゃくったわたしを背負って、死なないよと笑い飛ばしたキミの話。


「ブランコって座るものだったかもしれない」
「それは違うと思いますが」
「なんで小さい子ってこんなものを奪い合うんだろうね、やっぱり理解できない。いまなら気持ちが分かると思ったけど、見当違いだったみたい」
「昔以外できなかったなら今もわかるわけがない。人はそんな簡単に変わらない」
「そうだったらいいね、そうだったらうれしいっていうんじゃないかな」

 つま先を地面に立てるようにして軽く勢いをつける。振り子時計のように狭い幅でブランコを揺らす。怖いと泣きじゃくって「助けて」と言ったら迎えに来てくれないかな。三輪くんは助けてくれるかな、と心臓がしらない声で囁く。
 わからない。答える人はいない。わたしはわからないままでいたい。ギイギイと揺れる音がかすかにわたしたちを満たす。

「どうして戦闘員をやめたんですか。わざわざオペレーターになる必要が分からない」
「それは前に答えたよ」
「俺の身長が伸びた、なんてふざけたやつは話にならない」

 少し重心を後ろに動かして勢いをつける。さっきよりもブランコらしい軌跡を動き始める。楽しいかはわからないけれど、心臓の音は気にならなくなった。空をける足と一緒に「三輪くんと対話する気はないんだよねえ」とつぶやいた。
 ゆっくりと世界は移り変わって、藍色の空が頬に触れる。いつかのキミをなぞるように空を仰いだ。三日月はそこにいて、にこにこと笑っていた。三輪くんがなにかをいったようなきがしたけれど、心臓と耳鳴りで何も聞き取れなかった。
 三日月は泣く前の目に似てると思わない? そうしたら、目の裏でキミは下手だね、と笑った。三輪くんが私を呼ぶ。

「嫌いなのに挑戦するのはどうかと思ってるんじゃなかったんですか」

 三輪くんの手が鎖を握りしめる、それからやっとわたしの背中が濡れていたことに気が付いた。大丈夫ですか、なんて思いやりのある言葉はかからない。息を吐くでも暴言を吐くこともなく、赤いマフラーを彼は私に押し付ける。眉間には皺がきっちり刻まれていて、いつもどおり。
 三輪くんは不愉快を顔に張り付けたまま、帰ります、といった。今度こそ三輪くんは背中を向けて歩いていく。公園のすぐそばの横断歩道で信号機が青く点滅した。
 ねえ、三輪くん。わたしのことが嫌いだっていうのなら、お願いだから。

「やさしくしないで」

 わたしの心臓に住む三輪くんの部屋のカーテンは、きっと赤い色をしている。
 わたしは一人じゃ寂しい。ひとりじゃ満足に息ができない。三輪くんにはずっと赤信号で立ち尽くしていてほしいよ、でも理由がわからない。この感情の生まれたところを誰も解き明かさないで。
 ぐちゃぐちゃで不鮮明でそれでいて韻律を奏でる三輪くんでいてほしい。そう願っている。


 訓練ブースはわたしの記憶がよりずっと人が多くなっていた。二年足らずでこんなに大きくなるとは誰も思わなかっただろう。わたしはわたしで微塵も想像していなかった。人と人の間を縫って歩く。三輪くんは見つからない。彼とわたしは約束なんかしないし、あってしたい話はなにもない。
 それでも、わたしは彼に会う必要があると思った。雑踏のなか、秀次、という言葉に足が止まる。振り返ればふたりの男の子が連れ立って歩いているのが見えた。彼らの視線のやり取りは指になじんだシャープペンシルとか、使い古した通学カバンのような感じがした。わたしの知らない三輪くんと、元気な彼は会話を続ける。

「秀次、チームの話なんだけどさ」
「オペレーターなら当てがある」
「お、誰々?」
「……いや、誰とはまだ確定してない。話を通してないから名前は出せない」
「おまえマジでそういうとこ律儀な」

 からかうように、元気な彼は三輪くんの脇腹をつついて笑う。「からかうな」わたしに言うのと同じ言葉。でも温度も色も違う。そっか、そりゃそうだ。なにを間違えていたんだろう。やさしくなんかない。

 わたしもキミもだれもやさしくはない。変われない。

 彼らは談笑しながらわたしの横を過ぎて、雑音が耳に返ってきた。
 ボーダーはささやきと談笑で満ちている。あったかいなにかをかき集めて、共存している。いつからそうだったんだっけ。わたしは記憶を探ってみるけれど、検討はこれっぽっちもつかなくて、はじめからそうだったのかもしれない、と諦める。……わたしと三輪くんだけだった。大事なものを失くして、呼吸の仕方が分からなくて、誤魔化せるほど器用ではなかったのは。
 でも三輪くんは、彼は、大丈夫になったのかな。わたしだって知っている。世界で一番のひとをなくしても、世界で一番を空席のまま、生きていけるものだってことぐらい。
 左手は無回答を貫く。