靴下は片方を失くしてからからが本当の姿のような気がして


 東さんがお肉をおごってやろう、とわたしひとりだけを誘うときは、大体おもしろくない話だ。もちろんそれはあくまでもわたしにとって、だけれど。拒否権はないし、根回しは済んでいる。東さんはそんなところでミスはしない。理由は単純明快。だって東さんだから。はい終わり。

「秀次とはうまくやってるか?」
「親戚のおじさんみたいなことききますね。ボーダーの生ける伝説、かの東春秋が」

 東さんはなんだそれ、と愉快そうに笑う。銀色のトングは照明に照らされてきらきらしている。星みたい。
 手始めに頼んだタン塩をくるりとひっくり返す手はすっかりてなれている。
 さすが、みんなの東さん。とりあえず、すごーい、と感動を伝えると東さんは流して「先生はお元気か?」とだけ問うた。わかっていた質問なので、脳裏で準備したものを読み上げる。あくまでも事務的に「元気じゃあないですかね」と、答えてやる。わたしの所作からなにか読み取った東さんはそうか、とだけいって塩タンを取り皿へおいてくれた。

 『先生』のことなどおそらく東さんの方が詳しいに違いない。だってわたしは父の年齢も研究分野もなんとなくしか知らない。父と子より師弟の方が親しくなるものなのだ。ボーダーを見ていればよくわかる。レモンを絞って、タン塩を咀嚼する。美味しい。
 餌付けが完了してから「秀次の話だが」と本題を切り出す。
 三輪くんの話だというのはわかっていた。だから今更驚きはしない。

「三輪くん、新しく自分のチームを持つんですよね。しかもえりすぐりだって聞きましたよ。さすが東塾」
「そうか、やっぱり知ってたか」

 中央オペレーターの間では新チームの話題はすぐに広がる、というか常時新チームの話を心待ちにする空気が漂っている。満ちているとも言っていい。チーム所属のオペレーターと中央オペレーターには特に区別はないのにね。どちらも同じくオペレーションをするし、同じく給与も取得できる。けれども、やっぱり心持ちの次第で変わってしまうらしい。
 わたしはどこかに定住するのは向いていないから遠慮しているけれど。

「……まさかとは思いますけど、わたしに三輪くんのチームに入れとか言いませんよね?」
「そのまさかだな」
「冗談でしょう? わたしそんなの御免ですよ! そもそもオペレーターはとっくにきまってるでしょう、ほら蓮センパイとか、ほかの子とか」

 声はどんどんしぼんでいく。熱くなるのがばかばかしく思えたから。感情に振り回されるのは向いてなかった、それは昔いやというほど味わったじゃない。心臓の音に耳を澄ます。か細い音で心音を刻んでいる。

「秀次のことは気に入っているんじゃなかったのか?間違いなく、アイツにもいいきっかけになるだろう。不安定はどうにか抜けたが未だ不安要素は残る。あとはトライ・アンド・エラーを繰り返す他ならない」

 ふと、この前合格したことを報告に来た三輪くんのことが脳裏を過ぎた。気まずそうにわたしの自宅を訪ねた三輪くん。ずっと違和感があった。三輪くんは『東さんにも言われていたので』といった。気まずさを感じつつも目をそらさずに。

「……三輪くんの件はお断りします。父がなにか心配してるのなら我が家の問題ですから、ちゃんと話し合いますよ」
「断る理由を聞いても構わないか?」

 東さんのトングが網の端に寄せられたピーマンに伸びる。つややかな緑は放置されたせいで中央が黒く焦げていた。

 人間のこころを定義するならば脳となり、トリオン期間は心臓の近くにある、そして心臓はあくまでも意志を持たず生理的に動いている。なら、ピーマンのこころはどこに定義付けられるのだろう。黒く焦げたところはきっと硬くなっている。

「すきになるのがこわいからです」

 心臓のどくりと音を鳴らした。わたしのこころにはもう三輪くんが住んでいる。きっとこのままいけばこの曲線が、色遣いが、きっと意味を持ってしまう。それは困るの、だって三輪くんは、わたしのことが嫌いだから。

「じゃあどうする? いつまでものこままってわけにはいかないだろ。なにより、アイツだっておまえが幸せな方が喜ぶと思うぞ」

 アイツ。

「東さん、わたしの幸せもアイツの幸せもわたしたちふたりのものです。わたしが、とかアイツがとかそういう主観的なものはまた別で」
「……危ういよ。秀次もおまえも、結局そこが危うい」

 東さんがまた肉を皿に置く。自分の分と、わたしの分も。口に肉を運ぶ。舌の上に乗った塩タンはすっかり味がなくなっていた。危うい。意味は分かる。危険だといわれてもわたしは生き方を他に知らない。埋め方を知ったところで、それは誰も幸せにならない。
 味のしないものを飲み込んで、わたしは吸われていくうっすらと白い煙を眺めた。

「じゃあ、三輪くんをわたしたちが幸せになるための踏み台にしても構わないんですか?」
「踏み台にも代わりにもしろとはいわないさ。ただ、視野は広くな」

 部屋に帰ってから、すぐに消臭剤を使わなきゃ。焼肉のにおいがこびりついた制服とスカーフなんて嫌だから。東さんはまだなにか話してくれるけれど、どうしても聞く気になれなかった。

 初めからきっと、わたしたちはみんなとおんなじ幸福など得られないと決まっていたと思う。でも、三輪くんはそうではない。
 わたしはわたしたちの不幸に三輪くんを巻き込むことを望まない。

 結論から言って、わたしには声がかからなかった。蓮センパイが三輪隊のオペレーターに決まった、そう彼女の口からきいたときは形容しきれないほど、安心した。
 三輪くんはわたしの心臓に住んでいる。でも、それを三輪くんが知っている必要はどこにもないから、これが最適解だよね。そう笑ってよ。

 保健室の真っ白なカーテンが初夏の風とゆらゆら揺れているのを眺めた。白は陽の日の光にすけて、彩度を高める。鮮やかな白。矛盾しているような、それはやっぱり三輪くんににている。カーテンの隙間から校庭が視界に割り込んできて目を細めた。

「あ」

 まっすぐな日差しの中、走る少年の群れ。視線がふとこちらに向いた。三輪くんは、すぐにわたしだと理解して顔をしかめた。別にサボってるわけではないんだけどなあ、と一人ぼやく。ひとりきりの部屋はすこし、消毒液のにおいが染みる。
 三輪くんは一周してくるたびに、わたしを見つけてしまう。その度にペースが乱れて、真っ白なスニーカーは砂埃を立てる。遠目からじゃ三輪くんの小さな表情の変化はわからないけれど、彼の額に汗が溜まっていることだけは、わかった。
 一度目に止めて仕舞えば、わたしの視線や三輪くんの仕草に縫いつけられてしまう。カーテンに手を絡めて、彼とおんなじようにきゅっと息を狭くする。気道、心拍、額の汗。それでもわたしは三輪くんがなにを見ているのかはわからない。勝手に思案に耽ることは三輪くんは知らなくていいよ。君はなにも知らないままで構わない。
 でも困ったことにわたしは三輪くんに何かしてあげたくなってしまう。
 アイスも、帰り道も、戦闘能力も、なんでもいいから、半分こにしたがっている。三輪くんを犠牲にしたくないなんて言った口は一体どれだろうか。
 贖罪のように、結局は思考のなすがまま、わたしは160円を自販機に投入した。
 これは、そう、お賽銭だ。
 ガタン、という音に肩が跳ねる。カルピスウォーター。見慣れたフォントと白と青のラベルを見てから気がついたけれど、果たしてこれは体育終わりに渡して良いものだろうか。仕方ないので、もう160円だけお願いをした。絵馬に書くけるほど立派ではない、どの神様も受け止めてはくれないかもしれない願い。

 どうか、三輪くんがわたしたちの地獄に来ませんように。


 チャイムが鳴る少し前、散々汗をかいた少年たちがのろのろと校舎へ戻る。教室までの道すがら、給水機によって水をがぶ飲みするひと、自販機に行こうぜと声を掛け合うひと、それから、黙って上靴に履き替えた三輪くん。わたしの関心は三輪くんにしかないので、彼をジャストタイミングで待ち伏せた。

「こんにちは三輪くん、お疲れ様」

 眉を少々動かすと、一回だけ三輪くんはため息をついて、歩行を再開する。わたしはわたしで、三輪くんの体操服の真っ白な背中をいつもより大きな歩幅で追いかけた。

「……サボりですか?」
「いやだなあ。三輪くんのなかのわたしってなんなの、そこまで素行不良な覚えはないんだけれど」

 わたしの言葉に同意も否定もしないまま、三輪くんはペットボトルを受け取った。廊下は電気がつかない。コンクリートのハゲかけた壁と、同じくハゲて色をなくした廊下。くしくもこの空間だけは色を失くしている。彩度の下がった廊下には誰もいなかったから、三輪くんのありがとうございます、という言葉はちゃんと聞こえた。それを覆うようにペットボトルの蓋を開ける。

「お、秀次そこにいたのか……って、先輩もいたんすか。こんちゃーす」
「米屋くんおつかれ。速いんだね、足」
「いやー、お褒めにあずかり光栄です〜、先輩はさっきなにやってたんです?」
「休んでたの。ちょうど保健室からよく見えるでしょ?だから」

米屋くんはわたしと無言でペットボトルを傾ける三輪くんを見比べる。あ〜、と口に出してから「ウチの隊長が世話になってます」と笑った。素直な笑みにわたしもつられて微笑み返す。

「……世話された覚えはない、逆に俺が世話している方だ。間違えるな陽介」
「おおっとこれは予想外」
「ええ、どっこいどっこいでしょ。東さんに色々聞いてご覧なさいよ、絶対におんなじようにいうから」
「うるさい、アンタと真っ当に話すつもりはない」

 先にそう言ったのはアンタだ、三輪くんは続ける。わたしは、そうだよ、じゃなくて「ペットボトルはちゃんとラベル剥がして捨てなよ」と言った。答えちゃったらちゃんとした問答になってしまうから。わたしたちは永遠に問答を作らない。
 三輪くんはわたしの答えにノーリアクションで、さっさと廊下を歩き去る。背中はまっすぐ伸びていて、髪もまっすぐ流れていた。

「あんま秀次のこといじめないでくださいね?」
「いじめてないよ、いじらしいなあって」
「どーだかなあ」

 米屋くんは呑気に声をあげて、両手を首の後ろで組む。ラフな体勢をとって背伸びを試みる姿が、脳内の影と重なる。
 一つピースを当てはめてしまうと、似ている、という感情を抑えられない。暢気な相槌と、それから。

「ずっと気になってたんですけど、なんで先輩って秀次に構うんですか。こう言っちゃなんですけど、アイツと先輩みたいなタイプ……って、あー、うん、アレじゃん」
「なるほどねえ、米屋くんはわたしが太刀川さんや迅さんあたりと同種だと?」
「アレってだけじゃん」

 頑張っていた敬語はすっかり剥がれ落ちている。指摘するつもりはない。敬語とか使われるほど立派じゃないから。

「三輪くんはね、わたしの…………にいさんに、似てるの」

 だから、そういうことだよ。