壊死した瞼で見た夢


「こんにちは三輪くん、蓮センパイはもういる?用事あるっていわれてるんだけど」

 三輪くんはわたしに気が付いていないわけはないだろうけど、無反応のままだった。隊室に入っても顔色ひとつ眉を一ミリも動かさない。端末でセンパイとのトークルームを確認する。あと10分ほどかかりそう、のメッセージにわかりました、と返信する。

「蓮センパイくるまでここにいさせてもらうね?あ、そうだ。三輪くんってコーヒー飲める?」
「別にアンタにおごってもらういわれはない」
「そーね、じゃああとでお金くれればいいよ」
「……すでに買ってあるんですか」
「わたしね、コーヒ淹れるのはうまいんだよ、ひとりぶんって淹れるの大変だから付き合ってね」

 面倒くさそうに、わたしの目を見て大きくため息をついた。それは了承の意と組もう。「なんだかんだでつきあってくれるよねえ」と三輪くんへ向けたひとりごとをばらまきながらわたしは給湯室にお邪魔した。
 生身の生活に慣れ切った体は換気扇のボタンを押す。赤いマグカップ。数年前までこれと同じマグカップを使っていたっけ。たしか、最初のネイバー侵攻で割れたんだけど。なんとなくこれが三輪くんのものならいいなあと思ってみる。いや、赤いマグカップなんてガキっぽすぎるかな。



 コーヒーの準備をするとすぐに飛んで行って、においがだいすきだと笑った。いつかは料理上手になって、喫茶店を開くんだ。何回もなん百回も子供が語る。小さくて美しい夢。みんなのいうアイドルとかヒーローなんかよりずっと地に足がついていた。わたしもって声を重ねた日のことを今も覚えてる。昨日のことみたいに。
 紺色のエプロンをつける格好だけは様になっているけれど、包丁を持つ手は震えているんだ。ドン、と大きな音を立てて野菜を切るものだから、わたしは宿題から顔を上げる。いつまでも料理は下手だよねって、焼肉の肉すらうまく焼けないんだからって、あきれていた。またどうせ手を切るよ。危なっかしい手つきを指摘する。ほら言ったでしょ。赤い血が滲んだのが見えた。そしたら、キミがわたしにコーヒー淹れてやるからさ、な?そうやって人好きのする柔らかな笑みを浮かべる。

「おれだってさあ、コーヒー淹れんのはうまいんだよ。でもまあ一人分って淹れるのむずいからさ付き合えよ」

 わたしは顔を上げる。キミの目を見た。大きくため息をつく。その次に言う言葉は。


 いつかの記憶がふと脳裏をすぎてちょっとだけ目の奥が痛くなった。お湯が沸いた音がする。トリオン製の身体はほんのりと熱をつたえるだけで、どこも傷つかない。
 目も、わたしの左手も。全部きれいなまま。時が止まったみたいに、わたしだけ。

 ありがとうございます。三輪くんはちゃんとお礼をいってからカップに口をつけた。小さな声だったし、全然感謝してる雰囲気じゃないけれど。彼の前に赤いマグカップを置いてみる。ためらいもなく口をつけるのを見るかぎり、別に誰のとか決まっていないのかもしれない。いや、純粋にいつもの無視の一環かもしれないけれど。
 三輪くんが腰を掛けている長椅子の隣にすわる。隣といってもはしっことはしっこ。隣なんて近い距離ではない。互いの肩が触れ合うのは空気、それだけ。これがきっと一番ちょうどいい。手元を除くのは迷ったけどやめた。机に背中を預けるのはマナー違反だと顔をしかめる東さんはいまいない。
わたしと彼にはなんの関係もない。強いて言えば彼はわたしの後輩にあたるけれど、今じゃ三輪くんは一部隊の隊長だ。そこまでわたしが干渉するべきじゃない。助けを求められるなら別だけど。三輪くんが助けを求めてくるなど空から槍が降るよりもナンセンスでしょ。

「三輪くんってさあ、私のこと嫌い?」

 わたしに構うものか、と気を張っているのがバレバレ。そこがわかりやすくていじらしくて、彼の背中にひとつ笑みを漏らす。こんなにわかりやすいものなんだな、という言葉たちは済んでのところで飲み込む。

「わたしはさ、嫌われてても全然気にしないんだけど」

 黒い液体にわたしの顔が映っている。ゆらゆら波が立って、わたしの顔が判別不可能なほどゆがむ。ぐちゃぐちゃ。はじめからなんにもきれいなんかじゃあない。
 彼にだって耳があってそれは正常に動いているのだから、わたしの問いはちゃんと聞こえているのだろう。それでも、無反応で手元の書類を熱心に読む。
 いつもよりセンチメンタルな気分だった。念のために行っておきたいけれど、わたしとて、米屋に注意されても完璧のスルーできるほど無神経なんかじゃない。もう一回、君に嫌いだといわれたら、どうしようかなとずっと思っている。「わざわざ紙で送ってくるあたりが本部はいじらしいよね」と声をかけたけれどふたりきりの隊室のはしずかなまま。

 ねえ、三輪くん。そのプリントわたしが作ったんだけどさ、どうだった?
 聞いてみたかったけど、きっと答えてはくれないよね。言葉を喉に押し流す。最初に対話を拒否したのはわたしだから。三輪くんが立ち上がる。なぜかわたしの方に向き直って、真面目な顔して私を見下ろす。高校生になってとっくに三輪くんに追い越された。初めてあったときはわたしの方が大きかったなんて話、きっと誰も信じてはくれない。幼さが残る表情。けれど、座っている私が見上げた三輪くんはずっと大人にみえた。

「アンタは嫌いですけど、コーヒーはおいしかったです」

 以前、わたしだってこどもだといったのと同じ口が、違う意味で布を編んでわたしを包む。

「普通にしゃべってください。ルールに従って文章を書けば伝わるんですし。……拍子抜けした」


 蝉の声が脳の中で反響してだるかった。最近ずっとそうだった。そうっていうのはずっと苦しいってこと。あれ、と違和感に気づく。額を汗が伝う。違和感があるのに、わたしはそれがなんなのかわからない。耳鳴りと汗がわたしを冷やしていくのだけを鮮明に感じていた。
 左手はヒトじゃないみたいにきれいで、心臓のなかで石がゴロゴロ転がっているようで、喉が重くてたまらない。助けての声がつぶれていた。悪い予感がわたしをおかしくしていた。たすけて、たすけて、たすけて。声にならない悲鳴を上げた。

 変わったのは三輪くんが先だった。変われないのはわたしだけ。
 変わることは悪ではない、でも、変わらないことだって間違いではないのに。わたしは、夜闇のような三輪くんに救われた。夜の暗さに目が慣れるのを恐れなくなった。
 ねえ、キミはかわらないのに、私が変わってしまったら、この世界の上で孤独に、独りに慣れることと同義なんじゃないかな。キミのしらないわたしは本当にわたしなの?ねえってば、答えてよ馬鹿。いい加減さびしいよ。独りで生きるようにできてないの。だって、……にいさん。キミならわかるでしょ?わたしたちはふたりで生まれてきちゃったんだから。ほんとは、ひとりだったのに、ふたりに別れちゃったの忘れたの?
 わたしはキミだけを信じて生きてたんだよ。

 ぐちゃぐちゃになった思考回路はなんの役にも立ちはしなかった。吐きそうなのも、叫びそうなのも全部堪えて、外へと逃げ出した。心臓は今にも骨を蹴破ろうと試みている。思考はもうまともな判断を一つもくだせそうにないのに、カンカン照りのなか足はスムーズに石段を下る。
 梅雨の束の間。黒いアスファルトとさらに黒いマンホール。わたしは、生まれて初めて、学校をサボった。
 状況整理だけが進み、わたしの心だけがぽつんと取り残される。心。そうだ、三輪くんの心はいったいどこにあるんだろう。出会って時はおんなじだと思った、心をなくしてしまったから、心がありそうなことをしているんだと。わたしはそうしなきゃ心を組み立てることすらできなかったの。三輪くんの紫がかった視線が突き刺さる。仮初の心。にいさんの代用品。何者かにならなきゃいけないなら、わたしは。

「……体調悪いの隠すのはどうしてですか?」

 進路を妨害する人影はあまりに見慣れていた。鋭い視線、逡巡。三輪くんはあまりにまぶしかった。ひとりで夏の積乱雲を呼べそうなぐらい。
 ヒーローってこういう人だ。三輪くんの額にくっついた前髪と、汗で透けた肩の白を眺めて実感する。噛み締めて飲み干して、それでもわたしは生き返らない。
 言葉足らずの脳はそうやって結論を出す。ヒーロー。助けてくれる人。見捨てない人。

 それは昔、キミだけの特権だった。ブランコが怖いと泣いてどうしようもなくなればキミはおぶって家へ帰った。アイスを食べる時は半分こ。コーヒーしか淹れられないキミと溜息をつくわたし。

 ねえ三輪くん、君はわたしみたいになっちゃだめだよ。ぜったいに、ダメだよ。

「あはは、今日は三輪くん敬語を使う日かあ。いっつもバラバラだよね」
「先に質問をしたのは俺です。前も、あんたはそうやって逃げた」
「やだなあ、どうして今更そんな話を蒸し返すの?」
「……わからない、だからアンタが嫌いだ」
「嫌いならそれでおしまいにしよ。被害者と加害者の関係を続けようよ、全部悪いものはわたしに押し付けちゃえばいいの。わたしの残りの人生は下水道でひっそり生きる、そんな覚悟はあるから」
「どうして他人のあんたに俺の人生を見せなきゃいけないんですか。俺を誰の代用品にしようとしてるかは知らないが、いやでもわかりますよそういうの」

 違うよ。全部違う。

「わたしね、三輪くんはいつまでもそのままでいてほしいって思っちゃった」

 湿気を孕んだ風がわたしと三輪くんの間を走り去る。圧倒的ディス・コミュニケーション。本当のことは何一つだって言えないからそうなってしまうって、誰かが言っていた。
 だって、わたしみたいな情緒的な言葉をキミは使わないから。代用品だってさ、笑っちゃうよね。わたしとキミはひとりなのに。たった一瞬の遺伝子ミスだけ。それだけなのに。
 降りてきた石段を振り返る。

「ねえ三輪くん。三輪くんはわたしと君にどんな関係を当てはめたい?」

 赤いスカーフが揺れて、それでやっとわたしは理解する。蝉の声なんかはじめからしていない。全部わたしの記憶の中で鳴いているだけ。


「もう学校はサボるなよ?」
「やだ、東さんまで父さんと同じこという〜!」
「そりゃ先生に釘を刺しておいてくれ、と頼まれたから仕方ないことだろ?三輪が体調不良かもって探しにいってくれたからいいものの、誰も気づかなかったらどうするつもりだったんだ」

 流石の俺も今回ばかりは肝を冷やした。とかなんとか東さんはまだ何か言っていたけれど、それは全て右から左へとすり抜ける。忙しなくわたしへの説教を垂れる口を見つめて、それから、キミを案じた。

「アイツの体調は?」
「……想像の通り、一回発作を起こしたと聞いたよ」
「今は大丈夫なんでしょ?ねえ東さん、もう、死んだように生きてるのなんか見たくない」
「ああ、心配しなくて平気だ」

 東さんの返答を聞いたらかくん、と膝が曲って、そのまま落下するように床にへたり込む。よかった、うわごとのように呟く。よかった、よかった、本当によかった。
 蝉の豪雨がわたしの幻覚であってよかった。

「おまえが兄の人生を背負うことに意味はあるのか?」