さみしくって喉も凍るよ

 誰もいない教室は赤く染まっている。わたしは他者のいない部屋で、何も書かれていない真緑色の黒板を見つめていた。

「時間、いいですか」

 ひとりの時間に割り込んだ声は聞きなれた声。いつもの前髪ときっちり規則に従っている詰襟。まだ綺麗なそれは彼を年相応に見せている。子供みたいね、わたしも君も。
 それから、三輪くんはわたしを睨んだ。いつもと同じ、けれども、いつかの視線とは何かが違うもの。何が違うのかわからない。無性に、寂しい。夕日を横に流した三輪くんはままならない色をした目でわたしを見て、捲し立てるように喋った。下手くそな一人芝居みたいに。

「あんたは姉さんとは似ても似つかない。そもそもあんたは俺によって他人でしかない。他人に俺の人生を踏み荒らされたくはない。俺は間違いなくあんたが嫌いだし腹が立つ」
「うん、それでいいよ」

だって、わたしたちは他人でしかないから。

「よくはないから俺はこうやって苦しんでいる。昔、アンタに嫌いって言ったのは関わりたくないからだった。……嵐山や迅や太刀川さんのように関わらなければ良いと思った」

 左手だけが冷たい。彼が何を考えてこんな長く語るのかはわからない。きっと知る必要もないだろう。けれど、彼がいま掲示した問いには答えを持っていた。
 ねえ、その感情はね。同族嫌悪っていうんだよ、三輪くんの問いに心臓の裏側で答える。
 曖昧に微笑んで、わたしはボールを蹴った。
キャッチボールからルールを変えてしまえば、こんな不毛な時間は終わる。
それでもわたしの口は別な音を出す。

「いつからわたしたちそんな対話をするほど仲良くなったの?」
「対話?これは対話じゃない。思考整理と確認作業だ、アンタは口を挟まなくていい」
「あはは、いうようになったねえ。三輪くんにはそんな風になってほしくなくて付き纏ってたんだけどなあ」

 わたしとおんなじになってどうするの?呆れ半分と三輪くんらしさが喉に詰まって、情けない音しかならなかった。
 これは、わたしの知っている三輪くんだ。でもわたしを知って、わたしに似ていくのは見るに耐えない。なにか言いたいけど、何を言えばいい?ねえ、キミならなんて言ったかな。

「他人が俺の人生に口出しするな」

 赤が教室内にばらばら散らばって、わたし達の制服も返り血みたいに赤くなる。一番遠くまで届く色を纏いながら、一番近くにいるわたしたちは壁打ちを続ける。三輪くんの言葉はまっすぐ、論理を綺麗になぞる。悲しいぐらい綺麗だった。

「アンタは俺と同じだ、迅や太刀川さんのように強者ぶれても、強者にはなれない」

 違う生き物だ、そう三輪くんは断言する。ひと呼吸おいて、けれども躊躇うこともせず、三輪くんは続く言葉を吐き出す。前髪が小さな幅で揺れて、一本だけ金色に瞬く。

「昨日、東さんと話しているのを聞いた。いや、もっと前に陽介からアンタに兄がいた旨を聞かされた。なるほどと思ったよ、アンタに身代わりにされてるなら納得がいく。だから、代わりにするなといった」

 違うよ、とは口も心臓も言わなかった。わたしは三輪くんに正しくあれない。わたしは、わたしのために、わたしの信じる唯一に正しくあればいいから。
 黙ったまま、三輪くんの言葉を待つ。あれだけ止めどなく喋っているのに、一度も彼の言葉も声も乱れない。練習でもしてたの?なんて聞いたら怒るだろうなあ。
 幻みたいに、いつかの三輪くんの輪郭を見た。特に何も聞かず送ってくれた三輪くん。夜の間に溶けても見えなくならない三輪くん。君は、ばかだよ。2年。わからないって匙を投げたって十分な時間だったのに。

「納得はいくが、不自然だ。アンタは一度だって俺に本当のことを言ったことなんかない。東さんとどういう関係なのかには微塵も興味はない。だが、陽介や俺に言った言葉が全て嘘なら、アンタの馬鹿みたいな行動に理由がつく」
「嘘って言い方は酷くない?」
「真実ではない、というより字数が少なくて効率的だ。何よりも誤解が少ない」
「あはは。これは一本取られた〜とか言っていいノリ?」

 息を吸うのすら喉裏がくっついて嫌になりそう。三輪くんと話すのを避けていたのは、これは嫌だったんだ。ゆっくりゆっくり自分を解体されていく。わたしがわたしでしかない実感と諦念とそれから、なんだろう。
 寂しいって叫んでないって言いたいのに、これは寂しいって音だよって指摘されるのが、怖いんの。だってひとりは怖いし、何より。
 自分で孤月を胸元に刺すのと、じわじわ首に切り込まれていくのじゃ、勝手が違う。左手は机の上で硬直した。音のない悲鳴。

「ずっと考えていた。嫌いだっていう俺自身の感情も疑うぐらいには、迷った。アンタの悪ふざけに乗ったことも、止めたことに今も後悔はない。……太刀川さんの言葉に乗せられたらこうはいかないのに」

 嫌いにだって種類がある。相容れないから嫌いになるわけじゃない。
 ねえ三輪くん、寂しいね。わたしなら寂しいのに、隣で寂しい!って叫んでいる人がいたらわたしはその人を嫌うわ。わたしだってさびしい、かなしい、独りで生きれても、生きれなくても苦しい。

「寂しいって主張してくるのに腹が立った」
「三輪くん」
「……姉さんがいなくなって、この街も友達もみんな、寂しいという。寂しいが蔓延していた。くだらない仮定だが、病気みたいに特効薬があれば良かったのかもしれない。でも、存在しない。これからも未来永劫。迅などに頼らなくても明白だ」
「ねえ、三輪くん」

 ぱらぱら、雨粒が落下する音。これは幻聴だ。ほどなくして、空っぽの心がいう。わたしの口もつられて動いた。

 さびしいね。
 独りは、とてもさみしい。

 音にはなったのかならなかったのかわからない。けれど、三輪くんの唇は一旦閉じて、一瞬だけ静寂が生まれた。

「……どんなに寂しくても、帰ってはこない」

 三輪くんの目がわたしを捉えた。わたしの寂しい心と三輪くんの寂しいが違う形であれば良かった。
 ううん、世界で一番は、誰にも渡したくない。いないからって世界で一番じゃなくなることなんか、ない。

「わたしは……心臓でも、目でも、肺でも、骨でも、なんでも、あげたかった。それができるはずだったのに、わたしはなにもできない。それさえできれば、かえってきてくれたのに」

 涙だけが熱い。感情を口に出しても、もうキミはここにいないから、助けてくれない。だから全部嘘でいいと思った。ひとりで生きる方法なんか、母さんのお腹の中にいた時から知らないのに。なのに今になって、ひとりで生きてなんて、心臓はわたしだけのものなんて言われたって。
 遺伝子たった一個すらわたしはキミに渡せない。なんであそこで間違えたんだろう。

「三輪くん。ねえ、みわくんは、寂しくても生きなきゃだめだよ」

 わたしの言葉に、三輪くんはぐちゃぐちゃの顔で言われたってわからないって顔をした。でも、嘘じゃないってわかってほしい。
 目が君の輪郭をなぞることも、アイスを半分こすることも、コーヒーを淹れることも、全部、本心からだったよ。嘘じゃなかった。本当のことを言えなかったけど。キミの得意な現代文のように、わたしの行動だけは本心だった。
 ぼろぼろ涙が落下して、机に水溜まりを作った。悲しいからじゃないよ、これは、生理的なやつ。嘘じゃない、心の中で誰に嘘つくっていうのよ。ほら、たとえば、指が掠めた紙の角を切ったって血が出るでしょ?それと同じ原理。
 春だって夏だって秋だって冬だって全部、余すことなくキミにあげたかった。

「……気遣いは無用です」
「三輪くんってどうして敬語とタメ口混ざるの?どっちかでいいのに」
「聞かれても答えられないことってあると思いますが」
「また敬語」

 三輪くんはわざとらしく答えをためらったから、わたしは笑うしかできなかった。寂しいだけじゃ死ねないね、ウサギじゃあるまいし。死ぬにも、さみしいを理由にできないんだよ。でも万が一でも死んでほしくないから君に、三輪くんに繰り返し言おうと思うの。
 左手は机に影を吐きだす。指先はかすかに痙攣したあと何もなかったみたいに緩い握りこぶしになった。

 このまちはさびしさで満ちている。

 君もわたしもさびしさと一緒に夕日に溶けてしまえたら、どれだけ幸せだったか。三輪くんの制服も肌もわたしの左手も、キミとお揃いのまっすぐの黒髪も、全部、赤くなってしまえばいい。いつのまにか涙は止まっていた。

「今後も同類扱いをされるのは不服だから今言うが、俺は死なない。さみしいから死ぬなんてことはできない。そもそもずっと悲観していられないからボーダーに入ったんだ。……ウサギだって寂しくても死なない。そんな簡単に死んでたまるか」

 三輪くん。ねえ、君ってさあ。どうしていつもそうなのかな。

「それもそうだね、さびしいまま生きてくことにする」

 世界がまた滲む。さっきよりもはっきりと涙が落下するのがわかった。でもさあ、見てわたし、ないてないよ。

「…………アンタ、笑えたんだな」

 失礼な言葉には気づかなかったふりをしてあげた。自分でもちょっと思ったから。そしたら、左手に三輪くんの手が重なった。理由はわからない。彼の紫ががった目がふい、と脇にそれた。

「コーヒーの、お礼です」

 三輪くんはそうやって強がって見せたけど、そんなの嘘だってわかってるよ。三輪くんの顔が赤いのは。
 わたしの死んだような左手は三輪くんの熱を分けてもらって、正気に返る。三輪くん、手あったかいね、と言おうとして、またちょっとだけ視界がかすんだ。せっかく笑ったのに、全部台無し。

 三輪くんのほんのり赤くなった耳と、左手のぬくもりと、ふたりぶんのさみしい。これを全部、マジックアワーへあげてやるにはあまりにも惜しいと思わない?全部赤く塗りつぶすなんてセンスないでしょ。どんな芸術も陳腐だって鼻で笑い飛ばすわ。
 だから、聞いてね三輪くん。赤くなれない、いつまでも青いままでいようよ。いつまでもさみしいままで。

 わたしは、三輪くんのそういうところをすきでいたいの。