「ユンギヒョン、あの人と別れたでしょ?」


珍しく作業室にやってきたテヒョンは、自ら持ち込んだクッションに座ってしばらくスマホをいじっていたけれど、唐突にそんな質問を投げかけてきた。

思わずキーボードを打っていた手を止める。
ちょっとまて、なんでこいつはそれを知っているんだ。

あの人、というのは、音楽関係で知り合ったいくつか年上の人で、先日まで俺の恋人だった人のことを指しているのだろう。
不思議なのは俺は別れたことなんて誰にも話していないし、そもそも恋人がいたことすら口外したことがない。
なぜこいつがそんなことを知っているのかわからず一瞬驚いたが、男と付き合っていたという事には疑問を持っていないみたいだし、それにもう終わったことだ。と、とりあえず冷静になる。


「ねぇ、無視しないでよ」
「別にしてねぇよ」
「嫌いになったの?」


おまえ、恋人と別れたばかりのやつにどんな質問だよ。
もし地雷だったらどうするんだ。
言葉はちゃんと考えてから口から出せといつもあれだけ言ってるのに、まったくおまえは。

もう一度動き始めた俺の指は、頭の中にある構成を具現化するべくカタカタと一定のスピードで目の前のコンピュータに文字を打ち込む。
……嫌いになったの?と言われたら、あの人の事は嫌いになったわけじゃない。
多分、向こうも俺のことを嫌いになったわけでもない。
ただ、あの人が俺との関係に我慢できなくなったみたいだった。
付き合った当初からそうだったが、お互い忙しくてなかなか会えないのが常で、それでもお互い会える日を心待ちにして、会えたら楽しくて。
でも気づいたらそれがネックとなり、せっかく会えても喧嘩になって、またそのまま会えない日が続く事が常になってしまった。
そんなのが1年くらい続いたある日、別れ話は向こうから切り出された。
特段驚きはしなかったけど、思っていたよりも悲しかった。
すれ違う日々ではあったけど、俺にとっては特別な人だったから。

まったく、やっと吹っ切れそうになっていたというのに。
テヒョンのせいで思い返された思い出たちは、またしばらく自らの中をぐるぐると巡るだろう。


「ねぇ、だから無視しないでよ」
「だから別にしてねぇよ」
「してるじゃん。そんなに考え込むほどその人のこと好きなんだね、ユンギヒョン」


カタ、とまたもやキーボードを打つ手が止まる。
……はぁ、今日はテヒョンのせいで作業が進まない。

『好きなんだね』
好きだったのと問われたら、まあそうだ、あの人のことは好きだったと言える。
でも、好きなんだねって言われたら。
ああ、確かに、今でも好きかもしれない。
今でも、俺は。

気づいたら、涙が頬を伝っていた。

俺、なんで泣いてるんだ。
ポロポロと溢れてきた涙に自分でも驚いて、テヒョンにバレないようにスウェットの袖口で頬を拭う。
どんな理由であれ泣いてるところを人に見られるのは苦手だった。


「ねぇユンギヒョン。もう我慢しなくていいよ」


後ろから投げ掛けられるテヒョンからの言葉。
別にしていない。
我慢なんてしていない。
これは我慢じゃなくて、ただ自分の気持ちに踏ん切りがついていないだけだ。
女々しい自分に呆れるけど、でも、俺はまだあの人の事が確かに好きで、あの人もまだ俺への気持ちがあれば良いのにって此の期に及んでそんな事を考えている。
そんな自分自身に嫌気がさす。

あの人と別れてから泣くのは、これが初めてだった。


「ユンギヒョン、俺ならヒョンのことそんな気持ちにさせないし、させたくない」


何言ってんだ、おまえ。
まさかこの流れでそんな事を言われるとは思っていなくて、思わずテヒョンの方を振り向いた。


「あ、やっぱり泣いてる」


気づいたら後ろに立っていたテヒョンの指が俺の目元を優しく拭う。
くそ、なんだよおまえ。
俺のこと泣かせたくせに、優しくするなよ。
そんなことを思っていても、テヒョンのその行動に甘えるように俺の目からはどんどん涙が溢れてきた。


「ヒョン、涙止まんないね」


テヒョンは机の上にあるボックスティッシュから数枚抜き取って、そのまま俺の目元や頬にそれを押し付けて拭う。
そしてティッシュを持たない方の手は俺の右の頬を覆うから俺はその行動を何も言わずに受け入れながら、しゃがみ込んで少し下から見上げてくる普段の表情となんら変わらないテヒョンを見てずるいなって思う。
言葉には出さないけど、こういうのはルール違反なんじゃねぇの。
恋人と別れて泣いてる奴に、こんな、好きな奴にするみたいに触るなよ。
でも、大人になって狡さを覚えた俺はその優しさに甘んじる。


「ねぇ、俺真面目な話するからね。絶対こんなこと、ふざけてヒョンに言わないからさ、ちゃんと聞いてほしい」


特に表情も変えないまま、テヒョンは俺の前に膝をついて、ティッシュで俺の目元を拭いながら、同じ目線でそう言う。


「俺は、俺のことを好きな子たちの気持ちには応えてあげられないけど、ユンギヒョンの気持ちになら絶対応えてあげられる」


思わず眉をひそめる。
ヒョンに向かって何を偉そうに言ってるんだこいつはって。
しかも今の発言をどこかで録音されていたらファンに刺されかねないぞ。
とも思って、でも、なるほど。
何千何万といるこいつの一番近いポジションを望む奴らを差し置いて、俺がそこに収まる事が出来るってことか。
正直、その告白に悪い気はしないなと思った。


「おまえは俺とそうなりたいのか?」
「うん、俺、ユンギヒョン大好き」


テヒョンはシラっとそんなことを言うから、もはやツッコむ気にもならない。
答えになっているようでなっていないその言葉だけど、そうか、おまえは俺のことが大好きか。
やっぱり悪い気がしないと思える自分の気持ちに笑えた。
弱ってる時なら誰でもいいのかミンユンギ。
いや、決してそんなことはない。でも、それでも。


「じゃあおまえ、俺のことをずっと好きでいろよ」


俺がこんなことを言うなんて、と自分でも思ったが、目の前のテヒョンがやっと表情を変えるくらい驚いていたからそれだけで心が満たされた気がした。

俺も悪い大人になったものだ。
まだ好きな人を忘れられないままなのに、テヒョンの優しさに甘えようとしている。
でもそんなの、こいつだって同じだ。
俺の傷口に塩を塗り込んでおいて、それを治せるのは自分しかいないとか言う。
四次元というよりエゴイズムの塊だな。


「ヒョン、ヒョン。ちゃんと聞いて。俺、好きな人にはめちゃくちゃ尽くすって知ってる?いつも笑顔でいて欲しいし、悲しい思いはして欲しくないし、サプライズとかたくさんしてあげたいし、会いたいって言われたらすぐ飛んでくし、まぁ同じ家にいるからそれは関係ないかもしれないけど、それから…」
「わかったって。ありがとな、テヒョン」


さっきまでとは打って変わってマシンガンのように話し出すテヒョンに笑ってしまった。
必死にする俺へのプレゼンが可愛くて、頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細めるからますます可愛く思える。


「おまえ、いま言ったこと実行しなかったらどうなるか覚えとけよ」
「ユンギヒョン、俺適当に見えるかもしれないけど恋人には全力だもん。ヒョンこそ嫌いにならないでよね」
「それはおまえ次第だけどな」
「待って、そんなこと言わないで。お願い、ねぇ、ユンギヒョン!」
「ふは、必死か」
「必死になるに決まってんじゃん!俺がユンギヒョンのこといつから好きだったか知らないでしょ?あのね、きっかけはね、」


もうなんだよこいつ。
気づいたらこいつのペースに丸め込まれてる気がしてきた。
まあでも自らの意思でテヒョンの元へ寄ったわけだから、ちゃんと責任は取る所存ではある。俺だってこいつよりは2年も長く生きてるんだし。
……なんて、俺への気持ちを語るテヒョンが可愛く見えるんだから、今さらどうしようともう手遅れだろうが。



「テヒョン」
「なぁに、ユンギヒョン」
「俺、結構重いからな」
「えーそうなの?めっちゃ可愛い、覚悟しておく」


まったく、その余裕はどこから来るんだか。
そうは思っても、今日からできた年下の恋人を俺は必ず好きになるって自信は自ずと湧いてくるんだから、いまはこの甘い言葉を素直に受け入れようじゃないか。




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