ギロクル
部屋に入ればくらくらするような独特の香りが部屋中を満たしていた。その部屋の主はというとベットに寝そべり、何やらやけに匂いのきつい黄色い塗料を爪に塗りたくりながら鼻歌を歌っている。何をやっているかは知らないが全く呑気なものだ。鼻につく独特の匂いに眉を寄せながらも薄暗い部屋の中を歩きベットの縁まで行ってから声をかける。ここまで特に何のトラップもなかったという事は歓迎されているわけでもないだろうが少なくとも来訪を疎まれてはいないのだろう。何せ人に入ってきてほしくない時にはラボのドアは開かないし、仮に無理やりドアを破って入ったとしても数々のトラップを命からがら越えて行かなければならない。しかしそこまでしても必ず会えるとは限らない、俺の知っているクルルはそういう男だ。
「おい、クルル。何をしているんだ?」
「ククー、見てわかんねぇのかよ先輩、そんなんじゃ日向夏美に嫌われるぜぇ」
「な、夏美は関係ないだろう!」
クークックックッと質の悪い笑い声を零すクルルは無視して黄色い塗料が入った瓶に目をやる。それは親指くらいの大きさで、蓋の方にはちいさな刷毛のようなものがついていた。
ますます訳が分からなくなる。塗料なんてもっと大きなものを買えばいいだろうし、爪の先ほどしかないような刷毛では塗るのにどれほど時間が掛かるかしれない。
「それで、その小さいので何を塗る気なんだ?そんなに小さい塗料が必要な位小形の兵器なら別に色にこだわらなくてもいいだろう」
「ククッーさすが武器オタクの先輩だぜぇ、これは爪に塗るんだよ」
長く、細い指先が蓋を掴んで器用に爪を黄色く染めていく。一つ染まればまた次へ次へと徐々に爪だけが黄色く染まってゆく。女々しい行為だ、しかし同時に不思議でもある。こいつはこんなものを自ら進んで買ってきたりするような奴ではなかったはずだ。
小さな瓶を見つめるが何度見ても色も入れ物も変化しない。触ってみたりあるいは投げてみれば何かしらの変化は見られるかもしれないがそこまでしてなんか変化があるかどうかを確かめたいとまでは思わない。
「何、じっと見て。先輩も塗りてぇの?」
「そんなわけあるか!それよりそんなものどうしたんだ」
「睦美がいらねぇからって押し付けてきたんだよ、ファンから貰ったんだと。全く酷い男だよなぁ」
苛々、した。やはりあの男は嫌いだ。したたかで、嫌らしい。クルルの爪がまたひとつ、黄色く染まった。
「普通ファンから貰ったもの人にやるかぁ?確かに男にこんなもん贈る方も贈る方だけどいらねぇからって人にやる方もやる方じゃねぇ?……って先輩?」
楽しそうにオレの大嫌いな男の話をするクルルに胸がざわめく。こんな何でもないような話一つ聞き流せないようならとても悪魔なんて勤まりそうにはない、戦場の赤い悪魔の名を返上する日も近いかもしれない。
ちゃんと話を聞いているのかと怪訝そうな顔をこちらに向けるクルルがいっそ腹立たしい、そんなにその男の話を聞いて欲しいのか、そんなにその男の話をするのが楽しいのか。
「止めろ」
惚けた顔でクルルがこちらを見上げた。一瞬動きが止まったのを良い事にその手から小瓶とその蓋を奪い、ゴミ箱に捨てる。慌ててゴミ箱を覗こうとするクルルの腕を掴み、ベッドに押し戻す。眼鏡が上にずれ居心地悪そうにしているのを気にもとめずに鼻先ギリギリまで顔を近づける。
「そんなにあれが大切か?」
「大切だって言ったらどうする?」
苛々する。どうしてあんな男なんだ。
「…さあな、」
噛み付くようにクルルの首筋に顔を埋めた。柔らかな肌が心地良い。
「せんぱ、い、盛ってんじゃねぇ」
顔をあげてクルルの目をじっと見つめるが眼鏡が邪魔でいまいち良く見えない。そんな些細な事にさえ腹が立つ。
「お前が悪い」
「意味わかんねぇ、何キレてんだよ」
「あの男の方がいいんだろう」
「は?誰?」
「睦美だ、」
「…そんなくだらねぇ事考えてたのかよ」
下唇を噛み、キッと強いまなざしを向けられる。その瞳は静かに涙を溜めているようでいやに胸がざわつく。何も見たくなくて、クルルの肩に顔を埋めた。真っ暗な瞼の下で睦美と一緒に楽しげに笑うクルルを思い出した。
「ああ、お前がどこかに行きそうだ」
「勝手に言ってろ馬鹿!」
とてもそれほど力があるとは思えない細い身体に力いっぱい押され、突き飛ばされる。一体どこにそんな力が隠されていたのかは分からないが確かに今、クルルに覆い被さっていた身体はクルルによって押し戻された。驚きで言葉も出ない俺の横をクルルがすり抜けていく。
「暫くそこで頭冷やしてな」
自動ドアが閉まってその向こう側にクルルが飲み込まれていく。ドアに近づいてみても普段なら開くはずのドアはしんとしたまま一向に開く気配も見せない。無理矢理にこじ開けるほどの元気もなくその場に腰を下ろしてドアにもたれかかる。
部屋には相変わらず鼻につく匂いが充満していた
少し考えたがどうしたってあんな男にだけはクルルは渡せない。本人たちは波長が合うようで仲良くはしているがそんな事は関係ない、誰が何と言おうとあいつはオレの物だ。他の誰かに、ましてや地球人なんかに渡せるものか。立ち上がりクルルを探して基地内を走り回る。このラボにいないのなら必ずどこかにいるはずだ。睦美の所に行ったとは考えたくない。
「そんなに走り回って何か探してるんでありますか?」
「クルルを見なかったか?」
「クルルでありますか?クルルならさっき……ってまた喧嘩したんでありますか?」
「余計なお世話だ」
「おーこわ、触らぬ神に祟りなしでありますな」
「ちょっとまてクルルの居場所を」
「ナイショであります。まあクルルが基地内で本気で隠れたら誰にも見つけられないでありますよ」
人の話を途中で遮りひらひらと手を振りながらさっさと退散してしまったケロロはこの際放っておく他ないだろう。確かにクルルはこの基地の至るところ、ひいては日向家にまで自分のラボから直接行けるように抜け道を張りめぐらせているくらいだからこの基地に一番詳しいだろう。だがそれでも探さないわけにはいかない。
基地内の施設をすべて見て回ったが見つからず、ついには日向家にまで捜索の手を広げてみたが一向に見つかる気配はない。思考が最悪な方へと流れていきその終着点が見えてきたがやはりやはり睦美の所に行ったとは考えたくない。あいつはクルルのパートナーではあるが恋仲ではないとどんなに自分に言い聞かせても嫉妬の炎は消えてはくれない。まさかほんとに睦美の所へ行ったのではないかと思い外へでてフライングソーサーがあるか確認してみたがフライングソーサーはあるべき場所で主人の不在をじっと耐え忍んでいた。さすがにあのクルルが徒歩で移動するとは考えにくい、ということはまだ基地のどこかにいるという事だ。また基地に戻ろうと自分のテントの前を通り過ぎようとしたがきちんと閉めてでたはずの入り口がわずかにめくり上がっているのを見つけ思わず足を止めた。中に入ったであろう誰かがまだ中にいるかは分からないが用心するに越したことはない。中にいるかもしれない相手に気取られないようにそっと銃を構え、呼吸を整えてから中へと突入する。そこにいたのは見知らぬ敵ではなくクルルだった。いつでも打てるようにと構えていた銃を下ろし、平然と人のテントの中で猫と遊んでいるクルルを見つけあれだけ必死に探しまわったのは一体何だったのかと愚痴りたくなる気持ちをぐっとこらえて溜め息だけを零す。
「こんな所にいたのか」
「いちゃ悪いのかよ」
「悪いとは言ってないだろう」
「どうせ先輩の中ではどうせオレは睦美の所にでも行ってる事になってたんだろ」
「それは……」
違う、とは嘘でも言えなかった。元々嘘をつくのは得意な方ではない。ここで無理に取り繕うとしたって意味がないどころかクルルの反感を買い、無意味に機嫌を損ねるだけで終わるだろう。
「俺様の恋人は睦美じゃねぇっての」
「当たり前だ!お前は……その……俺の……」
クルルが手に指を絡め、指先に唇を這わせてくる。クルルの呼吸に合わせて鼻息が指にかかる。上目遣いで、時折舌をちらつかせながら唇を舐めるその姿はやけに艶めいている。
「俺は先輩の、何?」
「恋人……だからな」
「ククッ先パーイ、愛してるぜぇー」
自身の腕で顔を隠すようにしながら語尾にハートでもつきそうな口調で煽るように言われいつもの調子で売り言葉に買い言葉が出かかったが今回の喧嘩の原因は一概にクルルだけのものとは言えない為買い言葉を喉の奥に押し込めた。
「お前な、そうやってすぐ茶化すのはやめろ」
いつものように冗談で言っているのかと思いきや今回は本気の様で微かに頬が赤く染まっている。普段は素直じゃないのにこんな時だけ素直だなんて本当に狡い奴だ、そんな態度を取られてはこれ以上責められない。
「先輩、“大嫌い”だぜぇ?クーックックック」
照れる姿が可愛く思え抱き寄せるべきかを逡巡していればクルルはじゃあなー、俺様は暇な先輩とは違って忙しいんだよ、といつものように嫌味たらしく告げて立ち去ろうとした。まだ話は終わっていないと言ったところで俺様はもう話す事はねぇのと言って立ち去りそうなので腕を掴み無理やり足を止めさせる。
「ニョ?」
「俺も“大嫌い”だ」
「ククー勝手に言ってな」
すっかりいつもの調子に戻ったようで陰湿な笑みを浮かべながら今度こそテントから立ち去ってしまった。残された猫が足元に擦り寄り甘えるように身体を擦りつけてきたので要望通り撫でてやろうと手を近づけたがお気に召さなかったようですぐにツンとそっぽを向いて逃げて行ってしまった。
本当に掴みどころがなく扱いにくい奴だ、猫も、アイツも
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