男と少女


机に埋めていた顔を横にずらせば数字が書かれてあるロッカーと申し訳程度に道路に植えられた街路樹の青々と茂った葉と堂々と居座り、空に張り巡らされた電線にマンションがずらりと立ち並ぶ。小さくちぎられた空、これではまるで箱庭だ。
小さな箱庭から思いだすのは昨夜公園で出逢った黒尽くめな変な男の事。結局、誰なのかを聞く前にまるで闇に溶けてしまうかのように消えていた。
なぜだかその男の事が忘れられずに、答案用紙の端に昨晩の黒い男を描いてみたがそれはただ真っ黒に塗りつぶしたあとにしか見えず、私はやはりあの男にもう一度会ってみるべきなのだ、と思った。
ぼんやりと電線に止まる鳥の数を数えながら男の事を考えていれば時間の区切りを告げるチャイムが鳴り響き、私に机からの解放を教えた。
私は端を人型に塗りつぶした白紙の答案用紙をその場に置いたまま、筆記用具を片付け教室を後にした。
次の日、私は教師に呼び出された。仕方なしに呼び出しに応じてみれば、お前はやればできるだの、実力を出し切れだの理解不可能な屁理屈を並べ立てた説教を聞かされた。
教師のつまらない綺麗事ばかりの説教は終わらない。もうかれこれ30分にはなるだろうに、普段それほどまでに話を聞いてくれる相手がいないのかと哀れにさえ思う。
「だいだい、お前はやればできるだろう、前回の考査では最高点を取っていたんだから。なのになんだ、このわけのわからない落書きは!」
「落書き、ですか」
「当り前だろう、それともおまえはこれを芸術だとでもいう気か!気狂いでもあるまいし、」
「失礼します」
「お前、ちょっと待て!」
近頃メタボ気味の教師の制止を振り切り、昨晩男と出会った公園へ向かう。私はどうしてあんな怪しい見知らぬ他人のためだけに単位を捨てるような真似をしているのだろうか(幽霊、などを信じているわけではないが下手をすればあの男が実在する人間でない可能性だってある)
昨晩の出来事を頭の中で反復する。確か図書館の帰りだったはずだ。近道に、と通った公園にその男はいた。私は何故か男の名前を聞いていたのだ。
「名前は?」
「私の名前かい?さあね、当の昔に忘れてしまったよ。久しく名を呼んでくれる人すらいなかったからかな」
「それなら私が貴方の名を呼ぶわ」
「とんだ物好きだね、君は」
「なんとでも。それで、教えてくれないの?あなたの名前」
「…君がもう一度私に出会えたなら教えてあげるよ、それじゃあね」
その言葉を残して男は消えた。私は何故だか男にもう一度、会える気がしていた。それからの事はよく覚えていない。朝起きてみれば私はいつものように、いつもと同じ時間に、いつもと同じ恰好で、いつもと同じベットに寝ていたのだ。朝起きて初めに頭に浮かんだことは黒い男の事ではなく、仕事の都合で家をあけたままの両親の顔だった。
それから学校へ行こうと思ったがいまいち気乗りがしなかったので止めた。一日休んだところで単位が取れなくなる事はないだろう。
私はクローゼットの中に無造作に放り込まれた洋服の中から適当なものを掴みとり、コートを羽織ってから携帯と財布を片手に家を出た。
公園に行こう。
公園の端にある自販機でオレンジジュースと紅茶のどっちを買うかで悩み、結局新商品と赤い広告の張ってあるピーチジュースを買った。
平日の公園では幼稚園くらいの子供達が元気に駆け回り、その母親とおぼしき女達が寄り添いあいながら何やらを話している。
ぽつぽつと帰っていく親子ともすれ違った。恐らく昼飯を食べに家にもどるのだろう。私はたまたま誰もいなかったブランコに座り、ちまちまと缶の残量を減らした。子供は腹が減ったと親を責めたて、親は子の要求に答えるべく連れ添いながら公園をでていく。それから10分後、公園には私だけが残った。
なんとなくここにくればまた男に逢える気がしていたのだがどうやら思惑は外れたらしい。残念ではあるが悲しくはない。時間が悪かったのだ。日差しが目に痛い、うちへ帰ろう。
手にしている空き缶をゴミ箱に向けて投げる。缶は弧を描いてゴミ箱の端にあたり、地面に落ちた。なかなかうまくいかないものだ。折角外にでてきたのだ、ついでに買い物をして買えるのも悪くない。今晩のメニューは何にしようか、オムライスもいいがパスタも捨てがたい。まあ何にせよ殆ど空の冷蔵庫と自らの腹に相談しても仕方が無いので駅前のスーパーへと歩を進めた。
時間のせいか人の少ないスーパーを思うがままに闊歩し、目に付いた食材から次々籠へ放り込む。会計を済ませ、思っていたよりも重くなってしまった買物袋に徒歩で来るんじゃなかった、と後悔したがもう遅い。
あーあ、と声を漏らすが状況はなにも変わらない。指に食い込むビニールと眩しい日差し、気分は今世紀最低だ。

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