マリヒュ


心地良いまどろみの中、まだ隣で寝息を立てている男に擦り寄る。窓を叩く雨の音が耳に優しい。
「どうかしたのか?」
「…すいません、起こしましたか?」
「気にするな」
咄嗟に離れようと身を引けば腰を掴まれ引き寄せられる。それでも男から逃げようと仰け反るが首を掴まれ容易く捕えられてしまい、抱きしめられる形で腕の中にすっぽり収められる。
満足そうに笑う男の顔を見てしまえば、不本意ではあるけれど別段嫌というわけでもないので大人しく抱きしめられておくより他に道がない気分になってくるから不思議でならない。少なくとも僕がこの人の事が好きな事なんてとっくの昔から見透かされていて、嫌いになれそうにない事もバレているんだろう。
んーと恐らく意味を持たないであろう言葉を口にしながら男が首元に顔を埋める。そのまま首をがじがじと甘噛みされ、そのくすぐったさに身を捩り抗議の声をあげるが、聞き入れては貰えないようで首を噛む口は止まらない。こうなったら実力行使、と男の口と首の間に手を差し込めば今度は指先を甘噛みされる。
首元から顔を離してこちらを見据える男は僕の指先を噛みながら悪戯めいた笑みを浮かべていた。口から指を引きぬきお返しとばかりによりも高い位置に移動し、上から頭を抱きかかえるようにして抱きしめ、額に口づけを落とす。
「今日はずいぶん甘えただな」
「そんなことありませんよ、たまには貴方が甘やかされればいいんです」
「生憎とこの年になると甘やかされることもなくてな」
「僕に甘えてもいいんですよ?」
「好きな奴の前でくらいかっこつけさせてくれ」
「それはこちらの台詞です」
答えの見えない押し問答にどちらともなく顔を見合わせて笑う。男の髪に顔を埋めれば、いつもの香水の香りはほとんどしなかった。
あれはあれで嫌いではないけれど何もつけていない時の香りが、ほかの誰にも許されない自分だけの特権のように感じられて一番好きなのは言わないでおく。
急に気恥かしくなって目の前の頭をくしゃくしゃと掻き乱せば途中で下から延びてきた手に掴まれ手首を頭の上で束ねられ、上に乗られる。重力に負けて垂れてきた髪が男の顔に影を落としている。
「これ以上好きにさせないでくれ、おかしくなりそうだ」
「貴方なんて気が狂うくらい僕を好きになればいいんですよ」
「最高の殺し文句だな」
頬に添えられる温かく大きな手の平に頬ずりし、悪戯心の沸きあがるままにその手の平の親指の付け根の辺りに噛みついた。横目に様子を伺えば少し機嫌が悪そうで、それでいて悪戯を思いついた子供のような顔が目に入る。手が引いていったかと思えば今度は口の中めがけて帰ってくる。親指が口の中で好き勝手に暴れ、歯列をなぞり、舌を押さえつけ、喉元まで這いあがってくるのをなすすべもなくただじっと耐えている事しかできない。指が口から離れてき指から唾液が糸を引き途中で切れた。
好き勝手に蹂躙された事が悔しく主導権を握るべく上にのしかかり頭の横に両手をついて顔を寄せる。いつもされるように耳を甘噛みして舌を中に入れてやろうと舌を伸ばして耳の中に触れる。
「やめろ」
まるで言う事を聞かない子供を優しく諭すような声色で囁かれ、髪を掴まれ引き剥がされる。そのまま横に転がされ、意趣返しと言わんばかりに上にのしかかってくる辺り向こうの方がよほど子供らしい。
「形成逆転、だな」
自分より一回り以上も大きい子供に先程の行為をなぞるかのように耳元に吐息を吹きかけられ、舌先を耳の中に忍ばされ、思わずひゃっ等と女々しい叫び声をあげて耳を押さえる。目の前でしてやったり、とにやつく男が酷く憎らしい。男の手がシャツの中にのび、身体を這いあがってくるのに不穏な気配を感じ慌ててその手を振り払い身体を捻って男の下から逃げだそうと足掻くが軽々と押さえつけられてしまう。
「逃げなくても良いだろう」
「今何時だと思ってるんですか、まだ朝ですよ」
「時間は関係ないだろ?」
「ありますよ、それにまだ昨日の汗も流していませんから。汗臭いのは嫌でしょう?」
「俺は別に気にしないぞ」
「…僕が汗臭いまま貴方に抱かれるのが嫌なんです!ほんとに分かっている癖に人に言わせるのは止めて下さいよ、せめて僕がシャワー浴びて帰ってくるまで大人しく待っていて下さい」
「残念、却下だ。そんな可愛い事言ってる奴を離すわけがないだろうが」
「可愛くありません!早くどいてくれないと怒りますよ!!」
「もう怒っている癖によく言う」
一向に人の話を聞こうとしない男にかすかに苛立ちを覚えキッっと睨みつけが、どうにも効果を発揮しているようには見えない。くっついているからなのか動いたせいなのか、恐らく両方だろうが汗がじんわりと噴き出してくる。密着している背中がべたついて気持ちが悪い。
根負けしたように男がパッと手を上げて上から退いた。何故か腑に落ちない、嫌な予感がする。残念なことにこういう時の嫌な予感ほど的中するものはない。
「降参、だ。仕方ない、一緒にシャワー浴びるか」
「どうしてそこで一緒にシャワーを浴びるという発想に至るのか理解に苦しみますね」
「俺はお前と離れなくないし、お前は汗を流したい。二人の意見を尊重した結果だ、諦めろ。そうと決まれば善は急げ、だ」
ある程度筋肉がついているとはいえ、特別重いわけでもないが女性に比べれば全く軽くもないからそうそう抱きあげられる事もないと自負していたはずが想像に反して軽々と抱き上げられる。それも恐らく一番屈辱的ないわゆるお姫様だっこというやつだ。一旦抱きあげられてしまえば暴れるとバランスを崩して落とされるのが目に見えていて暴れづらい、がもう地は遠い。
「自分で歩けます」
「知っている」
「じゃあ降ろして下さい」
「それとこれとは話が別だ」
「教官!」
「マリクって呼べたら考えてやってもいい」
「……マリク、さん」
「……やっぱり駄目だ、離したくない。もう少しだから大人しくしていろ」
「なっ!言ったら降ろしてくれるって言ったじゃないですか」
「考えてやってもいいと言ったんだ。それにマリクとは呼べてないだろう?」
「屁理屈です!!!降ろして下さい!!!」
「バカ暴れるな!!」
「えっ?」
根拠もなくこの男ならどんな不安定な場所でもしっかり支えて離さないでいてくれるだろうと過信していた、のが良くなかったのだろう。
無理に男の腕から逃れようとしてつい変な体制をとってしまい、結果として二人仲良く床に転がる羽目になった。それでも僕がそもそもの発端だというのに咄嗟に受け止めるような形で下に滑りこんでくる辺り、やはり優しいのだろう。
「大丈夫か?」
「大丈夫です、あの…すいませんでした」
「元はと言えばオレがしっかり支えてなかったせいだ、お前が謝る事はない。それに好きな奴に上に乗られるのも中々悪くない」
「そういう趣味もあったんですか…?」
「…何か勘違いしてるだろ」
倒れた時に支えるのを目的に腰にあてられた手が壊れものを扱うように肌をなぞる感触がくすぐったくて息を詰め、男の胸にしがみついてしまう。くすぐったがりな事を知っていてやっているのだからタチが悪い。腰にあてられた手をわざと大きな素ぶりでどけてから声を荒げる。
「教官!」
「マリク、だ」
「マリクさん、僕は“一人で”シャワー浴びてきますから大人しく待ってて下さいね」
一人で、という所を必要以上に強調して立ち上がり、その場を後にする。
これ以上好き勝手されるとシャワーどころではなくなり後からにやにやとシャワーはもういいのか?なんて言われそうだし、それこそ本当に一緒にシャワーを浴びる事になり逆上せる可能性だってある。休日の朝からそれだけは勘弁願いたい。


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