犬童子


 母は何も訊こうとはしなかった。読みさしの歌集から離れた手が、その柔らかなまなざしとともに温かく少年を招き寄せた。少年は赤らむ鼻先を手の甲でこすり、御簾の下の隙間をさっとくぐり抜けた。子犬のすばしっこさで、あっという間にその膝の上を陣取る。
 背後から、母の香りの焚き染められた袖にやさしく抱き締められる時、ようやく少年は肩にこめた力を抜くことができた。短い爪を研ぐことも、小さな牙を剥くことも忘れ、安息に身をゆだねることができた。ここが居場所だ。この屋敷の中で、他の何もかもがままならなくとも、その事実だけは揺らぎようもない。
「犬夜叉」
 少年の頭に薄く積もった雪をそっとはらいのけながら、母が囁いた。
履物はきものを、また置いていきましたね」
 咎める口調ではない。犬夜叉は、笑って頷いた。持ち物を故意に隠して面白がる輩もいれば、こうして案じてくれる人もいる。母と、屋敷の他の住人は、本当に同じ人間なのだろうか。それは、幼心に根ざし続ける最大の謎だった。
 母は両手に息を吹きかけると、犬夜叉の小さな足を繭のように包み込んだ。冷えた足を温めようとしてくれているらしい。くすぐったさのあまり、少年は母の膝から転げ落ちてしまう。雪の中を裸足で駆け回ることなど、半妖にとっては造作もない。それでも惜しみなく向けられる母の気遣いが、少年にとってはひたすら喜ばしく、たった今触れられた足の裏のようにこそばゆく思われた。からからと少年が無邪気な笑い声を上げるので、母も目元を細めて微笑した。
「──……」
 御簾越しに、通りがかりの雑人ぞうにんが低い声で何事かつぶやいた。聞き慣れた蔑称だが、母のいる傍では聞くに堪えないものだった。犬夜叉の屈託のない笑顔は、嵐のように一変する。炭櫃すびつの中で炭のはぜる音とともに、少年は、今にも噛みつかんばかりの形相で床の上に四つん這いになった。
「犬夜叉」
 母の静かな呼びかけが、燃え上がる少年の怒りを、小さな火鉢の内に押しとどめる。相手がどれほどの悪人であろうと、人間に憎悪し対抗する姿を、母にだけは決して見られたくなかった。御簾の端に消えていく影を、犬夜叉はその険しい瞳の中にとらえつつ、ただ黙って見過ごす他なかった。
「──おいで」
 唇を震わせてうなだれる少年を、母はうらさびしい微笑みでねぎらう。怒りを内にとどめようと、外にぶつけてみようと、結局は同じことだった。いずれにせよ、母を喜ばせることはできないのだから。犬夜叉は路傍に捨てられた子犬のように、しゅんとして母の膝に顔をうずめた。
 母の手が、少年の背中をやさしく撫でていた。犬夜叉は、やり場のない怒りを小さな胸に燻ぶらせて煩悶していたが、幼子の感情は長続きすることがない。拗ねていることにも、次第に飽いてきた。
「昔話をひとつ、聞かせてあげましょう」
 その頃合いを見計らい、母が穏やかにこう切り出した。
「──昔、このみやこには大変優れた宰相がいらっしゃいました。その宰相は、白い犬を大切に飼っておいででした」
 白い犬、という言葉に少年は犬耳をぴくりと動かした。母の膝から顔を上げ、関心をあらわにした瞳で話の続きをうながす。母は小首を傾げて、少年に微笑みかけた。
「宰相はある日、白い犬を連れて寺をお訪ねになりました。しかし、宰相が寺の門をくぐろうとしたところ、白い犬が宰相の行く手を阻みました。どうあっても、宰相を寺の中へは入れさせまいとするのです」
 犬夜叉の脳裏に、白い大きな犬が、困り果てた宰相の足元にまとわりつく様子が浮かび上がった。袖や足でどれほど追いやられようと、犬はめげることなく、主人の足に噛みついたり、さかんに吠えたてたりしている。
「賢い飼い犬が言うことを聞かないので、宰相は不思議に思いました。そして、ある有名なまじない師を呼び、これはどういうことかと尋ねてみました。すると、まじない師は答えました。──その寺には恐らく、宰相を呪うための呪物が埋められているに違いありません、と」
 犬夜叉は、何度か瞬きをした。呪いというものを、幼い少年はまだ知らなかったのだ。母はやはり微笑を浮かべたまま、父譲りの少年の銀髪を撫でた。
「まじない師の言う通り、寺の中からは呪いの道具が見つかりました。もしも宰相が気づかぬまま、その道具の上を踏み越えてしまっていたならば、大いなる災いに見舞われたことでしょう。──白い犬は、宰相の身に危険が迫っていることを知り、宰相を救って差し上げたのですよ」
 母の言いたいことがわかりますか、と母は尋ねた。
 わかるようで、まったくわからない。
 犬夜叉は、再び目を瞬かせる。
「犬と人、人と妖。たとえ同じ生き物でなくとも、助け合い、心を通わせることができるのですよ」
 あなたにはまだ早いかもしれないけれど、と切なげに目を細める母。
「あなたの父上と、この母がそうでした。──あの方と、宰相も」
 母は少年を抱き締める。
 春の陽光を浴びたように温かな胸の中で、犬夜叉は、ただ首を傾げるばかりだった。
 人と助け合い、心を通わせることができる。母の言葉は、それこそ誰が語り出したのか定かでない昔話のように、少年にとっては真実味を欠いたものだった。少なくとも今、少年の知る小さな世界の中で、そうした関係を築くに値する人間を見出すことは、不可能だった。
「十人、百人……いいえ、千人にたった一人かもしれません。それでもいつか、きっと出会うはずです。──あなたにとっての、大切な人に」
 犬夜叉は、おのれの指先に生える爪をじっと眺めた。それから口を少し開け、舌の先で牙に触れてみた。人にはないものを持つ少年を、人間は軽んじ、蔑み、遠ざける。今はただ、このささやかな居場所を守ることで精一杯だ。
 先のことは何もわからない。この小さくも暖かく心地よいねぐらに、母と二人、いつまで閉じこもっていられるのか。もしいずれ外の世界に出るとすれば、その先には何が待ち受けているのか。この屋敷の中と、きっとさして変わりはないだろう。一歩踏み出せば、十人、百人、千人の敵に出会うに違いない。
 それでもいつか、万に一つの可能性であっても、母の言う「たった一人」に巡り会うとすれば──。母が語った昔話の白い犬のように、誰かのために危険を嗅ぎ当て、身を挺してその人を守ろうとする日が来るだろうか。この心を、この命を預けてもいいと思える、そんな人間が本当に現れるだろうか。
 いずれにせよ、強くならなければならない。誰よりも強く。人にも妖にも、何者にも脅かされることのないように。そうしてこそ、この身を守ることができる。守りたいものを守り抜くことができる。
「──犬夜叉。見てごらん、雪がようやくやみましたよ」
 幼子の思考は持続しない。犬夜叉の関心は、すぐさま自分の爪から、御簾の外の凍てついた銀世界へと移っていった。



21.01.18




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Boule de Neige