相合傘


「ここで停めてください」
 たまらずに、摩緒は車夫の背中へ声をかけた。ほろなどを張ってみたところで、この槍のように降りしきる雨から逃れられはしまい。
「ちょっと雨宿りしてから帰りますから」
「でも、お客さん、この辺りじゃあ軒らしい軒も見当たりませんよ」
「結構です。向こうに大木が見えますから。どうもご苦労様でした」
 まだ帰路の半分ほども来ていないが、人の好さそうな車夫に、彼は十分な運賃を支払った。濡れそぼった鞄をひっつかみ、もう片方の手は隣の菜花の手をとって、猛威を振るう雨の中を一目散に駆けていく。
 大木の下に至り、ようやく多少の雨露はしのぐことができた。木陰から振り返ると、外は一面白い靄に包まれたようになっている。ちょうど雨雲の直下に当たってしまったらしい。
 ふと、彼の頬にぴちゃりと水飛沫がかかった。隣の菜花が犬のように頭を振るわせて、水気を飛ばしていたのだった。
「すごい雨! 途中からいきなり降ってきたよね?」
「うん。傘を持ってくるべきだったね、油断したよ」
 濡れた髪をかきあげながら、摩緒はでこぼことした木の根に腰かけた。菜花もそれにならい、近くの根にちょこんと座る。
くすの木だね」
 節くれだった木の根に触れ、彼は雨露をさえぎってくれる深緑の天蓋を見上げた。
「樹木医ではないから、はっきりとは言い切れないけれど。おそらく樹齢千年ほどではないかな」
「千年!? じゃあこの木、摩緒と同じくらい長生きなんだ──」
 菜花が驚嘆の声を発した。摩緒もその言葉に新鮮な驚きを覚えつつ、
「そういうことだね」
 とうなずきかける。靴を脱いで、中に溜まった水を土の上に落としている菜花が、何とはなしに言葉をついだ。
「ずーっと昔にも、ここで雨宿りしたことがあるかもしれないよ。摩緒が覚えてないだけで」
「うん。そうかもしれない」
 彼は大楠の太い幹に向かって身を乗り出し、乾いてささくれだった木肌に目を凝らした。
「他にもたくさんの人が雨宿りしてきただろうね。見てごらん、菜花」
 呼ばれて菜花が木の幹に視線を向けた。そこに刻まれている絵を知っているかと聞こうとした時、
「──相合傘!」
 と思いがけずその口から答えがこぼれたので、摩緒はきょとんとした。
「知っているのか?」
「摩緒こそ」
「それは知っているよ。江戸の町を歩けば、塀とか障子とか、どこかしらにこういう落書きがあったからね」
「へえー、そんなに昔から相合傘ってあったんだ」
 菜花が楽しげに笑う。
「遠いみたいだけど、結構近いのかな。昔の人たちって」
「まあ、大昔の人間が実際ここにいるからね」
「大昔の人間? それって摩緒のこと?」
 彼女は相合傘の下に刻まれた名を読もうとして、鼻先がつきそうなほど近く木肌に顔を寄せていた。
「摩緒には会えるもん。今だって隣にいるし、遠い気なんてしてないよ」
 一瞬の間を置いて、そうだね、と摩緒は言った。
 気もそぞろだった菜花ははっと彼を見、途端に自分の言葉に自信を失ったような顔つきになる。
「今の、別に深い意味はないから!」
「うん?」
「本当に、なんでもないからっ」
 彼女は木の幹の向こう側にさっと顔を隠してしまう。摩緒は首を傾げつつ、古い相合傘の下に腰を落ち着けた。目の前をきらめく雫がしたたり落ちていく。手のひらを差し出し、そのうちのいくつかを手中に受け止めた。
 雨音にまじって、蝉の鳴き声が時雨のように降りそそいでくる。大地が乾く頃にはまた、何万回見たかも知れない夏の青空が、雄大な枝ぶりの向こうに広がっているはずだ。摩緒はその景色を目蓋の裏に描き出した。いみじくも菜花の言った通り、いつかの夏にもこうして夕立に見舞われ、大樹の下で雨宿りをした日があったように思われるのだった。
 目を開けてみると、元の木の根に菜花が座っていた。隠れん坊には飽きたらしい。上体をかがめるようにして、木陰の外の様子をうかがっている。
「雨、まだ止まないね……」
 摩緒が返事をしかけたその時、頭上で轟音が鳴り渡った。悲鳴を上げた菜花は全身の毛を逆立てた猫の敏捷さで、彼の元へと跳んでくる。木陰の向こうに閃光がほとばしるのが見えた。半身にひしと抱き着かれたまま、摩緒はなだめるように彼女の頭に触れる。
「怖がりだな、菜花は」
「──だって、今のすぐ近くだったよ!」
「落雷が怖いのか。大丈夫、雷避けのまじないがあるから」
 菜花は摩緒の半乾きのシャツを握りしめながら、幼子が覚えたての言葉を繰り返すように、彼が教えたまじないを唱えた。摩緒は大楠の幹に、指で避雷の護符の文言をしたためていた。鞄から紙と筆を取り出すこともできたが、怖がる菜花の手を振りほどいてまでしてそれを実行するという選択肢は、彼の脳裏には存在しなかった。
 やがて雷鳴は遠ざかっていき、雨雲もその道連れとなったようだった。土の上に木漏れ日が揺れるようになると、菜花はようやく摩緒の腕を離れて、脱兎のごとく木陰の外へと駆け出していった。
「菜花、裸足のままでは危ない」
 木の根の上にぽつんと置き去りにされた靴と靴下を見つめながら、摩緒は揺れる枝葉の向こうへ声をかけてやる。彼女は引き返してきたが、靴下や靴を履く間、顔を背けて頑なに彼の方を見ようとしなかった。
「怒っているのか? こんな悪天候に連れ出したから」
「違うよ。怒ってなんかない……むしろ、ありがとうって、言いたくて」
 蝉時雨に打ち消されそうな声を彼の耳に残して、その姿はまた風のように去っていく。
 ぬかるみに残された足跡に、摩緒は視線を落とした。自然と口元に笑みがこぼれてくる。何が嬉しいのかは判らない。ただ、心が晴れ晴れとしている。
 彼は片手に鞄を握りしめ、夏空の下へ導かれるように、その足跡をたどっていった。



令和三年七月二十七日




Boule de Neige