春雛

 ふと、孟宗竹の向こうから、筝と尺八の合奏する「都の春」が流れてきた。師が先んじて奏し、教え子がその手本をならうという具合だ。つたないながらも温かみのこもった音色は、客人をもてなすための心尽くしであろうか。
 坪庭の方へ目を向けたので、彼の視界の半分を、横に座っている菜花の姿が占領する。青竹と桃の木の間に、茶請けのよもぎ色をしたひちぎりを、今まさに黒文字でそうっと切り分けようとしているその姿は、どこか心がほっと休まるような風情をかもしている。
「桃子、竹雄、おいで。摩緒先生がお越しですよ」
 おっとりとした声で、夫人が子供たちへと呼びかける。微笑ましい演奏はふつりと途切れて、
「はあい、おたたさま。ただいま、まいります」
 坪庭の奥から、少女の快活な返事が返ってきた。摩緒は、以前耳にした時よりもずっと生気に満ちあふれたその声の調子に、少女の父親である屋敷の主人と目くばせし、ともに微笑みをかわして安堵を分かち合った。
「その後、姫様にはお変わりないようで」
「ええ、お陰様で。先生に厄払いをお願いして、すっかり元気を取り戻したようです」
 その隣で、細君が慎ましやかだが愛嬌の感じられる笑みを含みながら、夫の袖を引く。
「元気も元気。あれは、お転婆というものですわ」
「そうだねえ。あの子は、惣領息子の竹雄よりもずっと活発だから」
「おもうさま、それはほめてくださっているの?」
 金砂子の襖がはらりと開いて、弟君の手を引いた桃子姫が、いたずらっぽい笑顔のまま広間へ入ってきた。桃割れの前髪にさした真珠のびらびら簪を振り子のように揺らし、紅藤色の小振袖には桃の枝と唐団扇を散らしたその姿は、まるで「吉祥」の二文字が少女の体を借りて目の前を歩いているかのようだ。
「摩緒先生。そのせつは、たいへんおせわになりました」
 お転婆娘とはいえ、礼節をわきまえたその口上は、さすがは幼いながらも華族令嬢といったところか。その桃の実のようにつややかで血色の良い顔を見つめて、摩緒はいくぶんか声音を和らげながら、
「お元気そうで、何よりです。もう、怖い夢はご覧になっていませんね?」
「はい。先生のおいいつけどおり、まくらのしたにおまもりをいれてますから」
 こたえながら、桃子姫は、彼の隣に座っている菜花の顔をちらちらとうかがっている。以前の依頼では彼女を伴わなかったので、姫君にとっては初対面の相手だった。菜花は華族一家との対面にやや緊張しているらしく、ぎこちない笑顔で姫君に会釈したきり、助けを求めるように摩緒を見てくる。
「この娘は菜花といいます。姫様の遊び相手に連れてまいりました」
「──ええっ?」
 寝耳に水というように、当の菜花が目をみはるかたわら、桃子姫はその言葉を待っていたとばかりの勢いで菜花の手を取った。
「菜花おねえさま。むこうでおあそびしましょ。ちよがみのあねさまにんぎょうをさしあげましょうね。おひなさまもおみせしましょうね」
「は、はあ……」
 幼子に気圧されている菜花を、彼は少しおもしろく思いながら眺めていた。
「お相手しておいで。その間に、こちらはこちらで用事があるから」
「ああ、そうなの? それじゃあ……」
 右手を桃子姫、左手を竹雄君にとられながら、やや心もとなげに長い廊下を渡って竹林の奥へと消えてゆく菜花。その後ろ姿を、板敷の広間に残された大人たちは微笑ましく見送った。
「お連れの方に、ご迷惑でなければ良いのですが」
 父親がまだ頬をゆるめたまま言うのを、摩緒も微笑を残したまま、軽く首を振ってやりすごす。
 年少者たちが退室したところで、彼は本題に入った。今日は三月三日、上巳の節句である。すなわち陽の数が重なる日であり、陰陽五行において、
「陽が極まれば、陰に転じる」
 といわれる通り、強力な陽の気を祓い清めるべき日であるから、以前桃子姫の厄払いを引き受けた縁あって、彼が屋敷へ呼ばれたのだった。
 彼は平安装束に身をあらため、御幣と護符、清浄な塩を持ち、広大な屋敷を確認して回った。以前の依頼で鬼門のほころびを閉ざし、柱には護符を貼り、気の流れを遮ることのないよう、樹木の植え替えなどを提案していた。屋敷ではこれらを律儀に聞き入れて実践していたため、一見すると家内に厄災の入り込む余地はないように思われる。だが、隅々にまで目を向けてみれば、陰の気が黒ぐろと吹き溜まっている箇所がある。そういった場所に向かって、摩緒は清めの塩と護符の灰をまき、
「内外清浄、六根清浄」
 と口の中で唱えながら印を結ぶ。これを繰り返してゆくうちに、屋敷に滞っていた気が浄化されていくのが、見鬼の才を持たない人々にも肌身で感じられるようになったらしい。
「何やら、清々しゅうございますな」
 などといって廊下で深呼吸する女中のいでたちは、おすべらかしに白小袖、茄子紺の袴といった、いかにも由緒正しき公家づとめらしい古めかしさ。しかし、水干に括り袴という彼自身の姿は、むしろさらに時代をさかのぼって、千年の昔の王朝装束の趣きを伝えるようなものであったので、時代錯誤なのはお互い様だった。
 いよいよ残す部屋は桃子姫の一間のみとなった。隣接する竹雄君の部屋を浄めていた時から、摩緒は襖の向こう側がドタバタとやけに騒がしいのが気にかかっていた。いったいどのような遊びに興じているのだろう。内心で首を傾げながら、襖越しに呼びかける。
「姫様。摩緒です。開けてもよろしいでしょうか」
 幼いとはいえ、少女の居室に無断で立ち入ることは憚られる。彼は片膝を畳につけた控えの体勢のまま、しばし返事を待ったが、なかなか反応が返ってこない。あれほどにぎやかに駆け回っていたものが、嘘のようにしんと静まり返っている。
「──姫様。開けますよ」
 一言断りを入れてから、摩緒は懸具に手をかけた。
 流れるように開かれた襖の向こうには、十段にも及ぶ見事な雛飾りがすえられている。しかし、その豪華絢爛な内裏雛を鑑賞するいとまもなく、彼の視線はその脇に立てられた几帳に縫い留められていた。女中に女官のような衣服を着せる屋敷であるから、王朝趣味は幼い令嬢の室内にもみられた。
 その几帳から、これもまた懐かしい桃色の小袿の褄が、かつて平安の京で女房たちが御簾の下からのぞかせた出衣のように、たおやかに流れているのだった。
 桃子姫がたわむれに隠れているのだろう、と彼は思った。
「姫様。菜花はどこに行きましたか。広いお屋敷なので、迷ってはいないかと心配なのですが……」
 少し声を落として尋ねる。やはり几帳の陰から、返事は返ってこない。いぶかしみながら、彼はその練絹と練絹の間にそっと手を差し入れた。すると、少女がさっと顔を隠したのがわかった。
 摩緒は予感を覚え、思い切って透き見していたその几帳の垂れ布を、はらりと引き上げた。
「姫様。──いや、菜花だね?」
 衵扇の陰で、あっと小さな声が上がったのを彼は聞き逃さなかった。物の怪は名を言い当てられれば立ちどころに姿を消すというが、相手は王朝の亡霊でもまやかしでもなく、生身の人間の娘であるから、彼は躊躇なくその手に触れ、檜扇を自分の手の内に引き取った。
「見ないで……」
 菜花は、おそらく桃子姫の着せ替え人形に甘んじていたのだろう。真っ白におしろいをぬりたくられた顔、紅のはみ出た唇を見せまいというように、そっぽを向いている。
「……お化粧落とすまで、会いたくなかったのに」
 摩緒はなにやらその横顔がいじらしく思えて、一度はうばった扇をふたたびその手に返してやりながら、
「女雛のようで、かわいらしいよ」
 と、気付けば柄にもないことを口にしている。
「──うそつき」
 いちょうの葉のように広げた衵扇の奥で、くぐもった声がそうこたえた。

2023.3.3


Boule de Neige