初恋の味


 ふと、読みさしの新聞から目線を上げる。壁時計の針はちょうど午後三時を指している。待ち人はじきに来るだろうとテーブルの上にたたんだ新聞を置きながら、青年は窓の外を一瞥する。五月晴れの澄んだ空に、街路樹の銀杏の青葉が照り映えて、目にまぶしいほどだった。思わず両目を細めたその時、誰かの手が肩にポンと置かれた。振り向くと、その人差し指の先が彼の頬にめりこんだ。
「また、ひっかかった」
 そう言って菜花は笑う。つられて彼も、彼女の指先に笑窪をきざむようにした。
「わざとだよ」
「まさか。摩緒がふざけるわけないじゃん」
 決めてかかる言い方をして、向かいの席に腰掛ける菜花。新聞の横に置かれたカルピスのグラスに目を留めて、意外そうな顔をする。
「あれっ、コーヒーじゃないんだ?」
「今日は、少し暑いから」
「そっか。珍しいね、摩緒がコーヒーを飲まないなんて」
 菜花はテーブルからやや上半身を乗り出すようにして、機嫌よく彼の顔を眺めている。あらかじめ頼んでおいたカルピスが、彼女の前に運ばれてきた。ストローで中身をかき混ぜながら、はにかみがちに言う。
「摩緒といえば、コーヒーに新聞だもん。いつも真面目な顔をして、冗談なんか全然言わないし」
「そうだったかな」
「もしかして、自覚ないの?」
 とぼけるそぶりを見せつつも、ふと真顔になって彼は目の前の少女を見つめる。鈴を張ったようなその瞳の中で、来し方の月日は昨日今日と変わらぬ輝きを帯びているように思われる。窓越しの銀杏の若葉がまだらな影を落としている彼女の頬に、みるみるうちに赤みが差してくる。
「──あの、何で見てるの?」
「見てはいけない?」
「そんなことないけど……。そうやって無言で見られてると、ちょっと恥ずかしいんですけど」
 菜花はよく冷えて汗をかいたグラスを持ち上げて、ほてりを冷ますようにストローに口をつける。片手で頬杖をついてその様子を見守りながら、そういえば、と彼は至って真面目な調子で言った。
「カルピスは、初恋の味がするそうだね」
 飲んでいたものにむせる菜花。頬をますます血色よくして、うらめしそうに睨んでくる。
「なに、それ?」
「どこで見たんだったかな。いつかの新聞だったかもしれない」
 素知らぬ顔をして彼は答える。自身もまだほとんど中身の残っているグラスを新聞のそばから取り上げて、一口飲んでから、彼女のグラスのすぐ傍に置いた。二つのグラスが触れて涼しげな音を鳴らす。
「そういうの、摩緒らしくない……」
「確かに私は、恋を語るような男じゃない」
 それでも、と落ち着き払った声で続ける。
「私は菜花に恋をしているから、いつだっておまえを見ていたい、ささいなことで気を引きたい、と思うくらいの不真面目さは持っているつもりなんだが」
 そう言ったあとで、彼は胸がすーっと空くような、えもいわれぬ爽やかな気分を味わっていた。
 思いがけず直球を投げかけられて、菜花はすっかりしどろもどろになっていた。その様子がまたかわいらしくて、彼は思わず今を写真に残しておきたいという欲求に駆られた。
「──ちょっと、今、何撮ったの!?」
 真っ赤になった菜花に、テーブル越しに奪われそうになったスマートフォンを、彼は新聞の下にさっと隠してしまう。
「何も撮ってないよ」
「嘘、じゃあなんで隠すの?」
「隠してない」
「そんなわけ──あっ」
 新聞に伸びかけた菜花の手をしかと握りしめて、彼は会心の笑みをこぼす。
 新緑の影踊るその新聞の日付は、令和四年五月某日──と読めた。
『此の一杯に、初戀の味がある』
 そう新聞に書いてあったのは、いつのことだったか。千載一遇の人を見つめて、青年は二人の間に流れた年月を思う。百年変わらぬ味、百年冷めぬ温もり──百年色褪せぬ恋が、今もなおここにあることを愛おしみながら。



23.5.7 まおなの邂逅100周年


Boule de Neige