Side: M

大正十五年十二月二十四日


 木製の回転扉を押した時、彼はふと、奇妙な心の動揺を覚えた。
 それは、何か逃れようのない運命が目前まで迫っているという、確かな予感のもたらすものだった。──まさか、と頭の中で打ち消す声が生ずる一方で、いいや、きっとそうに違いない、と確信がささやく。
 永遠のような一瞬ののちに、回転するガラス扉に送り出された彼は、真新しいホテルのロビーへと足を踏み入れていた。
「──摩緒?」
 その声を耳にした瞬間、摩緒は弾かれたように顔を上げた。勿忘草色の水干の肩から、降り積もった雪がはらはらとこぼれ落ちる。大きく見開かれたその瞳は、青い天鵞絨(ビロード)の絨毯を敷いた大階段の、その先へ釘付けとなる。白い草花と蝶の彫刻を背にして、中二階の踊り場に、その少女は立像のごとく呆然とたたずんでいた。
「菜……花?」
 摩緒がやっとの思いで喉の奥からその名を絞り出したことで、凍り付いたかに思われた時計の針は再び動き出した。菜花はしゃくりあげるように、大きく胸を波打たせた。その顔は遠目にも泣き出しそうであることがはっきりと認識できた。今にも転げ落ちんばかりになって、階段を勢いよく駆け下りてくるのを、彼は思わず両腕を前へ差し出してしかと迎え入れながら、
「──どうして、こんな無茶をするんだ……!」
 万感極まる思いでうったえかけた。菜花が涙を一杯に溜めた瞳で、挑むようにキッと彼を見上げる。
「無茶? ……今日を逃したら、もう、二度と会えないかもしれないのに?」
「それは──」
「……摩緒は、それで良かったんだ? だから、今日が最後って知ってるのに、私と顔を合わせなくて済むように、こんな山奥に隠れようとしたんだ?」
「──違う!」
 自身でも驚くほど、強い否定の声が出た。両目を瞠(みは)り、恨み言をのみ込む菜花の肩を、彼は震える手でつかむ。
「おまえは何も分かっていない。私がどれほど思い悩んだか、どれほど身を引き裂かれる思いを味わったか──」
 九百年の長きに渡り、この身を支配してきた呪いから解き放たれた時、すべては終わったのだと悟った。彼と出会うべくして百年の時を往来してきた彼女もまた、来たるべき時に、その時空の扉が閉ざされることを知った。
 それは、大正十五年十二月二十五日──大正という時代の終わる時。最後のその日は、すでに明日に迫っている。
「顔を見れば、きっと別れがつらくなる。だから、もう会えないと思った──」
 階段脇に置かれた、人の背丈ほどもある舶来物の柱時計が、機械的に時を刻んでいる。コチ、コチ、コチ、と一分の狂いもない無情な針の音は、今朝このホテルに到着した時からずっと、摩緒の耳元でしつこく鳴り続けていた。刻一刻と、彼女という存在が自分から遠ざかっていくようで、ひどく恐ろしかった。真新しい柱に鎮宅霊符を打つ時にも、白樺の森で雪の深々と降る中に、防解火災祭の祭文(さいもん)を唱える時にも──その心はずっと彼女への思慕でわなないていた。
 今、この腕の中に菜花はいる。その身体が氷のように冷え切っていることに気付き、摩緒は彼女が辿ってきたであろう道程を思った。おそらく菜花は、たった一人で停車場へ走り、汽車に乗り、雪道を嫌がる車夫を懸命に説得して、この山奥まではるばるやってきたのだろう。最後に一目彼に会う、ただそれだけのために。
「本当に……おまえは、無茶ばかりするね」
 その声に、もはや先程までの動揺の色はなかった。おずおずと見上げてくる菜花の眦に大粒の涙が浮かんでいるのを、親指でそっと拭ってやりながら、摩緒は、
「向こうに暖炉があるから、少し温まっていなさい」
 と勧めた。すると菜花が不安げに首を振る。
「──摩緒はどこに行くの? 一緒にいてくれなきゃ、やだ」
「どこにも行かないよ。何か拭く物を借りに行くだけだ。そのままでは風邪をひいてしまうから……ほら」
 再び彼女を暖炉の方へ送り出そうとした時、「失礼いたします」と、フロントから様子を窺っていた一人が近づいてきて一礼した。縁に金モールのついた、格調高い黒の制服に身を包んだ若いホテルマンは、上品な物腰で誂(あつら)え向きの白いタオルを手渡してくる。
「本日は生憎の天気でございました。冷えたままではお体に障りますので、どうぞお部屋にてお寛ぎください。先程、湯の用意を申し付けておきました」
 ちょうどその時、菜花が小さなくしゃみをした。摩緒は、自分がロビーで待っていれば良いだろうと思い、その申し出をありがたく受け入れることにした。
「お気遣い、ありがとうございます」
「こちらこそ、陰陽師様には大変感謝いたしております。ご霊験にあやかり、当館が百年も続く名ホテルとなることを、一同願うばかりです」
 と、万事において卒のないホテルマンに促され、摩緒はフロントで宿帳に名前を書き入れた。ペンを置いた時、背後から覗いていた菜花がそれをさっと取って、彼の名前の横に自分の名を書き足してしまった。ホテルマンはそれを見て何も言わずにただ微笑し、染みひとつない白手袋で真鍮のルームキーを手渡してきた。プレートには、蝶の浮彫とともに「蝶の間」と刻字がされてある。
「行っておいで。私はここで待っているから」
 鍵を渡されると、菜花はまた悲しげな顔をする。
「そう言って、私のこと、ここに置いて行ったりしないよね?」
「──そんなことはしない」
 心外だと否定する摩緒であったが、つい今朝がた、彼女を五行町へ置き去りにするという前科をこしらえたばかりなのだから、説得力はなかった。しばらく押し問答をした末、結局彼が折れることになった。心中穏やかならざるものがあったものの、片時も離れていたくないという菜花の思いには、一層胸をかき乱される心地がした。
 開業後間もないホテルとあって、客室は真新しく清潔だった。外国人客の宿泊を見込んでか、装飾はやや凝りすぎると感じるほど日本的な趣向をこらしてある。一面に色彩豊かな蝶の刺繍をほどこした大きな衝立の向こうに、風呂場があった。菜花によれば、その浴槽は「猫足」で大層「かわいい」のだという。
「菜花は本当に、かわいいものが好きなんだね」
「うん。だから、乙弥くんのことも好きだよ」
「──乙弥? 乙弥も"かわいい"のか?」
「そう思わない?」
 衝立と浴室の扉を隔てて、こうした他愛もない会話を続けながら、摩緒はストーヴの傍の椅子に座っていた。薄氷を張ったような菱格子窓の向こうは、一面の銀世界だった。時折、ホテルお抱えの黒塗りフォードが宿泊客を送迎する、そのテイルライトが雪景色にほのかな赤色の線を刷くばかりである。
 今日が最後だというのに、まるで普段の延長のようにとりとめもなく交わされるやりとりが、摩緒の頭の中からしだいに時間の感覚を奪ってゆくようだった。明日も明後日もその先もずっと、今までと同じように、菜花が目の届くところにいてくれるのではないかという淡い期待さえ持った。
「乙弥くんに、ありがとうって言っておいてね」
 気が付けば、彼女は真っ白なタオル寝衣(ねまき)にその身を包み、ストーヴの近くにしゃがんでいた。雪をかぶったようなその小さな背中が寒そうで、摩緒は帽子掛けにかけておいた二重廻しでその肩をそっと覆ってやった。菜花は小さく鼻をすすってから、「ありがとう」と言う。
「ずいぶん無理を言って、ここ、教えてもらったの。……だから、帰っても、怒らないであげてね」
「……怒ったりしないよ」
 衝立にかけてある、菜花の白いベストが、屋根から滑り落ちる雪のようにはらりと絨毯の上へ降ってきた。ストーヴから聞こえてくるスティーム音のほかには、もう何も聞こえなかった。
 摩緒はそっと手を伸ばして、菜花のほのかに上気した頬に触れてみた。
「冷たい」
 と言って、猫が人の手にじゃれるように、彼女は両目を閉じる。
「──摩緒の手、氷みたい」
 そうか、自分の手が冷たいから、こんなにも菜花が温かく感じられるのか、と摩緒は思った。そして、彼女が去れば、もはやこの手は永遠に凍り付いたままなのだろうとも予感した。
 摩緒が、儀式用の水干袴から普段着へ着替えて浴室から出てきた時、菜花は先刻まで彼が座っていた椅子で両膝を抱えていた。平常(いつも)の制服に着替えており、その上に彼のインバネスを羽織っている。眠っているように見えたが、彼女はふと顔を上げて、ちょっと恥ずかしそうにつぶやいた。
「あのね。──私、おなかすいちゃった」
「ああ……。じゃあ、下に降りてみようか」
 ばつが悪そうに頷く菜花を、摩緒はとてもかわいらしいと思った。そして、そのかわいらしさは、今の自分には毒なのだとも痛感した。一刻も早く帰してやらなければならない。とうに分別はついているのに、一方では一秒でも長く傍に留まっていてほしいと願っている。
「朝から食欲がなくて、何も食べられなかったの。……摩緒の顔見たら、なんか、ホッとしたみたい」
 大階段を下りながら、彼女は少し元気が良すぎるほどの声で言う。空元気を出しているのだろうか、と摩緒は案じた。いたずらに時を延ばすことは、果たして彼女のためになるのだろうか。──けれど、青い天鵞絨を一段ずつ下っていく菜花の、見慣れた後頭部の形や、少しはねているくせ毛などを見つめているうちに、やはりどうしても、まだ帰したくはないと思った。せめて、最後の晩餐をともにとりたい、と強く願わずにはいられなかった。
 ダイニングルームには、すでに二十人弱ほどの宿泊客の姿が見られた。外国人が多く、昼にすれ違った時に摩緒が見かけた、黒モーニングやアフタヌーンドレスはもう見当たらない。代わりに、格調高いタキシードや光沢のあるイブニングドレスをまとった紳士淑女たちが、各々のテーブルで笑いさざめいていた。
 白い制服を着た給仕が、二人を暖炉の傍の温かい席へ案内した。白いテーブルクロスの上に、銀器がまばゆいばかりに輝いて見える。
「緊張しちゃうね、こういうところ……」
 高い格天井を肩身が狭そうに見上げながら、菜花がささやいた。確かに場違いという感覚は否めなかった。摩緒は手渡された献立表に視線を落とす。「清羹汁」「牛繊肉焙焼」「洋三葉煮込」などという西洋料理名が並んでいた。
「ええっと、コンソメスープ……。ローストビーフ──」
 正面の菜花が眉根を寄せつつも暗号のように解読しているのを、彼は飽くことなく眺めていた。
「よく分かるね。私にはどんな料理なのか、見当もつかない」
「右側にアルファベットで書いてあるでしょ。だから、なんとなく読めるだけ」
「そうか。洋食には、どうも疎くてね──」
 言いながら、彼の脳裏にある思い出がよみがえった。それは二年前、彼女と二人で洋食店に行った時の記憶だった。初めて口にした洋食である、あの時のライスカレーが、その後食べたほかのどの西洋料理よりも美味しかったことを思い出す。
 給仕が料理を運んできた。摩緒はまったく食欲を覚えていなかったが、そうと菜花に気取られまいと、前菜の「清羹汁」に銀の匙をつけた。飴色の液体から香るのは、ブイヨンの匂いなのだと菜花が教えてくれた。また、牛肉の薄切りはローストビーフといい、煮込み野菜はセロリということも学んだ。彼女との最後の晩餐は、美味の中にも一抹のほろ苦さがまじっていた。その風味を、彼は食後の珈琲でまぎらした。菜花も、いかにも苦そうにカップに口をつけていた。
 その時、前方から、グランドピアノの演奏が流れてきた。食事を終えた外国人の集団がその周囲に集まっている。彼らはピアノの音色に合わせて、異国の言葉で美しい歌を歌っていた。耶蘇教徒たちが聖歌と呼ぶものだった。
「忘れてたけど、明日はクリスマスなんだね」
 菜花は聖歌隊を見つめて、ぽつりとつぶやいた。バカラガラスのシャンデリアが、グランドピアノの奏者の頭上で、目もくらむばかりの輝きを放っている。
「私、サンタクロースにお願いすれば良かった。──明日を」
 菜花の背後で、暖炉の炎がひときわ激しく燃え上がる。符丁を合わせたように、二人の視線が交わった。
「──今からでも、間に合うかもしれない」
 言葉がひとりでに、摩緒の口をついて出てくる。
「私も願うから。せめて一時──いや、その半分でもいい」
 自分は何を言っているのだろう。成すべきこととは、まったく真逆のことを口にしている。最後の晩餐を終えたら、すぐにでもこの娘を帰すのではなかったか。──頭の片隅で、分別の声がうったえかけてくる。
「だから、行くな。……行かないでくれ、菜花。私とともに、──明日を迎えてほしいんだ」
 しかし、彼の真実(まこと)の声は、すでに思慮の外(ほか)にあった。摩緒は胸の底から滾々と湧き上がる声を、押しとどめる術を持たなかった。
「摩緒……」
 と菜花が何か言いかけた時、不意に後方で、バンッという大きな爆発音が鳴り響いた。続けて白い閃光がダイニングルームを包み込んだ。摩緒たちは無論、聖歌隊も仰天して何事かと振り返った。
 何ということはない。写真師が、マグネシウムを焚いて、シャッターを切ったところであった。
「──失礼、エクスキューズミー! あー、どうぞお構いなく!」
 鳥打帽をかぶった若い写真師が、カメラを構えたままおどけた声で詫びる。テーブルに座っている宿泊客たちは、クスクスと鷹揚に笑いながらそれを見逃してやっていた。あまりの衝撃音に、猫が尻尾をつかまれたようになっていた摩緒は、ふと、向かいの菜花が自分と寸分たがわぬ反応を示していることに気付いた。
「──びっくりしたあ」
 菜花がくしゃりと相好を崩す。張りつめていた糸のゆるんだ気安さから、つられて摩緒もつい目の端を和らげた。テーブルをはさんで、二人はひとしきり笑みを交わし合った。
 そして、笑いの波が引いていった時、摩緒は水のように澄んだ瞳で、真っ直ぐに菜花を見つめた。笑った顔のまま、菜花ははらはらと涙をこぼしていた。陰が極まれば陽に転じるように、笑いが高じれば涙に変わるものらしい。その笑顔もその泣き顔も、彼にはたまらなく愛おしかった。
 見つめ合う二人の間に、奇妙な交感があった。
 古い唄に唄われるように、もし、昔を今に返す袖があるのなら──と彼は思う。それがもし叶うならば、彼は何度でもその袖をひるがえすだろう。そうして、出会った頃に今一度戻りたいと願うだろう。けれど、いかなる秘法をもってしても、ゆく時を引き留めることはできないのだった。
 どちらからともなく、彼らは席を立った。グランドピアノからは、異教の神に捧げられる聖なる歌が流れ続けていた。その美しい音色と、シャンデリアの輝きと、人々の笑いさざめく声に送られながら、二人はダイニングルームを後にする。
 青い階段を並んで上っていった。踊り場で、摩緒はふと、先を行こうとする菜花を呼び留めて、振り向きざまにその身体を抱き上げた。不意のことに彼女はしっかりと摩緒の首にしがみつきながら、抗議の声を上げた。
「──い、いきなり、心臓に悪いよっ!」
「そうか。すまない」
「……それ、全然思ってないよね?」
「うん。だって、おまえの方こそ、私の心臓に悪いから。お互い様じゃないか」
 ──時よとどまれ、この腕の中に。
 ささやかにして、途方もない望みを胸に抱きながら、彼は、露の宿のその禁じられた鍵を開ける。
 そして固く閉ざされたその扉は、日付の変わるまで、再び開かれることはないのだった。

 手さぐりで、電気スタンドのスイッチをつける。
 暗闇に慣れた目には、その光がやや眩しい。反射的に、摩緒は光源から目を逸らして、ほの白く浮かび上がる窓を見遣った。菱形のステンドグラスに、銀砂子を散らしたような雪がうっすらと積もっていた。
 窓辺のテーブルに置いてある水差しを手にとり、重ねてあったグラスへ七分ほど湯冷ましを注ぐ。それを手渡してやると、菜花は一口二口、渇いた喉を潤した。
「──床盃(とこさかずき)の代わりだね」
 摩緒がしみじみとした口調で言うのを、聞き逃さずに、
「……それ、何?」
「知らないのなら、それでいい」
「ずるいよ。教えて」
 と、彼女は食い下がる。けれど、彼がひたとその顔を正視していることに気付くと、急にいたたまれない風で、大きく寝返りを打ってしまった。
「──もう、日付け、変わっちゃったかなあ」
 くぐもった声でたずねてくる。答えの見つからぬ摩緒は、黙してその後ろ頭をそっと撫ぜた。もとより共白髪の夢を結ぶことは叶わぬ相手だった。しかし、彼女を繋ぎとめたこの一夜を、彼はこの先決して後悔することはしまいと思った。
 蛹が蝶に生まれ変わるように、摩緒は自分が今朝までとはまるで違う存在になったような気がしていた。もはや、頭の中で絶えず彼を縛(いまし)めていた分別の声は聞こえなかった。自由になった魂をすべてその少女に傾けつくしながら、彼はようやく今、自分が心のままに生きていることを悟った。──そして、大正という時代がまもなく終わりを告げるとしても、この心だけは、決して過ぎし時の形見にはしたくなかった。
「摩緒の手、大きくて落ち着く。──大好き」
 彼のなすがままに短い髪を撫でさせていた菜花が、再びちらりとこちらを向いた。摩緒はそのはにかんだ笑顔を瞳に焼き付けていた。今この瞬間こそが、今生の見納めとなるかもしれないことを噛みしめながら。
「私も、菜花の手が好きだ。──小さくて、温かくて」
 離しがたくて、とみなまでは言わずに、その手をそっと離す。その指に、指環のひとつでも贈ってみたかった。──いや、叶え得る願いは叶えてしまおうと、摩緒は思い立って、鞄の中から金色の紙縒(こより)の束と鋏をとりだした。儀式で使う水引を作るためのものだった。
「菜花、手を出してごらん」
「こう?」
「うん。しばらくそのままで」
 紙縒を引き出し、菜花の薬指にくるりと巻きつけた。鋏を入れ、少し長めに切る。端と端とをつまんで結わえていき、摩緒は水引の指環に、小さな花の形を作った。
「わあ、かわいい……!」
 菜花が電気スタンドの灯りに手を近づけて、キラキラと輝く小さな総角(あげまき)結びに目を細めた。
「これは"入型"。幸福を呼ぶ結び方だよ。"人型"は不幸を遠ざける結び方だ。こうやって──」
 総角結びの結い目をほどきかけて、やめた。一度結んだものを結い直すことは、縁起の良いことではない。これほど小さな水引ひとつにも験を担がずにはいられぬ自分を、摩緒は見出していた。
「ねえ、私にもやらせて」
 菜花が摩緒の手を取った。摩緒は目を伏せて見守った。彼のこしらえ様をならっていくが、その結び方はより簡単な蝶々結びだった。
「ああ、これはいいね──。ほどけても、何度でも結い直せるから」
 仲良く手を並べて、水引の指環を見比べる。──その時、菜花の手が、電気の光にすうっと透け始めた。摩緒はそれをどれほど幻覚と信じたかっただろう。しかし、律令のごとく急々と流れる時は、もはや二人の逃避行に一刻の猶予をも許さなかった。
 薄れゆくその身体を、摩緒は両腕に掻い込んだ。霞か空気を抱いているように、それは実感に乏しかった。菜花という存在が自分とはるか遠く隔たってゆくのを、まざまざと思い知らされる。
「摩緒、私──」
 幾重にも閉ざされてゆく扉の向こう側から、菜花のかすかな声がした。一言たりとも聞き逃すまいと、摩緒は時の彼方へ耳を澄ませていた。
「──ねえ、まだ聞こえるかな?」
「聞こえているよ。──もっと、声を聞いていたいから、そのまま話し続けて」
「──……本当に、まだ届いてる? ……あのね。私、今、すごくしあわせだよって──」
 彼女が結んだ水引の蝶に、彼はそっと震える唇を押し当てた。きっと今、彼女もそうしているだろうと予感した。
「──……ちゃんと、聞こえてるかなあ? ねえ、摩緒、お願いだから何か言ってよ……」
「聞こえるよ、菜花。……菜花」
 遠く、はるかかけ離れた時の彼方で、二人を分かつ最後の扉が閉ざされた。もはや声は届かず、影も形も残らず、彼の花嫁は、夢のように不可触の存在となった。
 嘘をつくことができない、素直な性質の娘だから、きっと幸せだという言葉に偽りはなかったのだろう。彼に幸福をもたらし、彼が幸福をもたらした人とともに、大正という時代は、ゆきてかえらぬ旅人となった。引き留めることも、呼び戻すこともかなわない。だが、摩緒はそれを不幸とは思わなかった。なぜなら彼は知っていたからだ。心の中に舞い込んできたあの娘は、二度とそこから去ることはないのだと。
 摩緒は冷たい菱格子窓に手を触れた。雪はいまだ深々と降り続いている。指に結んだ水引の蝶が──幸福の証が、曇ったガラスを透かし見るようにぼうっとかすむ。氷のかけらが窓をゆっくりと伝い落ちてゆく。彼もまた、己の頬に流れるものを指先でそっとなぞる。
 最後にこうして涙をこぼしたのは、いつのことであったか。
 九百年の記憶の窓を開け放ってもなお、涙がこれほど温かく人の心を通うものであることを、知り得たことはなかったという気がした。

 

2023.6.23

Boule de Neige