深く渡る川 - 1 -


「おねえちゃん、それ、なに?」
 庭の花壇のそばに見慣れないものを見つけた妹が、首を傾げた。
 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、千尋は会心の笑みを浮かべる。
「これはねえ、ちゃんとした“おうち”なの!」
「おうち? でも、こんなにちっちゃいよ? ちっちゃくて、だれもはいれないよ!」
 千尋は、ふふんともったいつけて腕を組んだ。
「ただのおうちじゃないよ。これは"石の祠"って言ってね、ここには──」
「──"神さま"が住んでいるのよ」
 姉妹の母、悠子が千尋の言葉をついだ。手塩にかけて育てている花壇や鉢植えの花のそばに、なにやら得体の知れないものを置かれたことで、若干、不機嫌な様子である。
「千尋、それ何なの? どこで拾ってきたのよ?」
「ええ? これは、えっと、森の中で……」
「森の中? あなた、またあの森に行ったの?」
「……あっ、違った! 森の中じゃなくて、帰り道の途中で拾ったんだった──」
 しどろもどろになって答えを探しながらも、千尋の視線は助けを求めるように横へと泳ぐ。
 妹と母の目には見えていないが──そこにはひとりの美しい若者が立っており、先程からくすくすと微笑ましそうにしながら、母子三人のやりとりを見守っているのだった。
 だがそんなことは知る由もない母の機嫌は、ますます損なわれるばかり。
「石なんかむやみに拾ってくるものじゃないわ。ほら、よく言うじゃない。石の祟りがどうとかって──。不気味だから、ちゃんと元の場所に戻してきなさい」
「ち、違うの、お母さん。これはただの石じゃなくて……」
 いぶかしげな顔を向けてくる母に、千尋はなおも食い下がった。
「大切な“守り神さま”のおうちなの! だからこのままここに置かせて、お願いっ」
「守り神さま? 何なの、それ?」
「うちを守ってくれてる神さまだよ。追い出したりしたら、バチが当たっちゃうんじゃない?」
 悠子の口から小さな溜息がこぼれ落ちた。
「変なことにこだわる子ねえ。まあ、そこまで言うなら、別にいいけど……」
 母は浮かない顔でちらりと石の祠を一瞥すると、小首を傾げながら家の中へ入っていった。
 残された妹は、母とは対照的に、二つの瞳を輝かせている。石の祠の前にしゃがんだかと思うと、地べたに手をついて中をのぞきこむようにした。
「カミサマ、よんだら出てくるかなあ?」
「うーん、どうだろう?」
「カミサマー、カミサマー? そこにいるの?」
 千尋はにんまりとして、隣に立っている彼をちらと見上げた。まるで、応えてあげたら?と言わんばかりの眼差しである。
「そうしたいのは、山々だけれど……。物事には、順序というものがあるからね」
 言い訳がましく、千尋の耳元で囁きかける彼だった。

「──でも、本当にこんな小さな家の中に住めるのかな?」
「石の祠は神さまのおうちだと、千尋も言っていただろう?」
「そうだけど、それは昔、お母さんから聞いたってだけで……」
 不安げな千尋のかたわらで、今度はハクが会心の笑みを浮かべる番だった。
「信じられないのなら、一緒に中へ入ってみようか」
「……えっ、わたしも入れるの?」
「私の家だから、招きたい人を招くさ。目を閉じて」
 ハクは千尋の手を引いた。──その瞬間、二人は強い力で石の祠へと吸い寄せられていた。
 仮住まいと呼ぶにはあまりにも上出来な家である。ほんの少し「葦沼」の家に似ているような気がする。ハクの心は喜びに疼いた。作り手である人間が真心をこめれば、石の祠は神にとってこのうえなく居心地のよい住まいとなる。
「もう目を開けていいよ」
 まだ彼の言いつけを守ったままでいる千尋に、ハクは優しく声をかけた。
 おそるおそる、その瞳に景色を映し出す千尋。開いた口がいっこうに塞がらない。
「……外から見たらあんなに小さいのに、中はこんなふうになってるのね」
「千尋が私のために、思い描いてくれた通りの住まいだろう?」
「そうなのかな。ハクが、気に入ってくれたらいいけど……」
 ハクは自信なさげな千尋の手をとり、力強く握りしめた。
「気に入らないはずがない。千尋の真心がこめられた住まいなのだからね。こんなに嬉しい贈り物はないよ。本当に──ありがとう、千尋」
「ううん。……よかった、ハクの居場所ができて。わたしも嬉しい」
 はにかむ千尋を愛おしく見つめながら、彼は、自分から彼女に与えられるものが何であるかをふと考えた。
「千尋は何か、欲しいものはある?」
「どうして?」
「私も何か贈りたいんだ。千尋が喜んでくれるものを」
 千尋はまだ頬をほのかに染めたままだった。
「わたしはいいよ」
「なぜ?」
「もうもらってる。……それ以上に嬉しい贈り物なんて、ないもん」
 彼の肩にもたれかかりながら、千尋が声をひそめて笑っているのがハクには感じられた。夢のように幸せなひとときだった。
「ずっと、一緒にいられるよね?」
「そのために、生きているよ」
 ──そのためだけに。
 とろとろと心地よい眠気に屈しつつ、彼の手は千尋の手を握りしめたままでいた。



20.01.12

Boule de Neige