深く渡る川 - 2 -


 いつの時にも、夏の午下がりにはどこかで水遊びに興じる子どもの声がするものらしい。
 景色は変わったように見えても、人の暮らしの根底にあるものはそう変わりはしないのだろう。蝉の声がじりじりと耳を焦がすような日には、冷たい水を思う存分浴びてみたくもなる。
(──まるで、あの頃に立ち戻ったようだ)
 ハクの口もとにほのかな笑みが浮かんだ。

 木の枝にとまるフクロウの動作を真似たように、千尋の妹はしきりに首を横へかしげている。
 その目は一心にあの石の祠を見つめていた。
「カミサマ、でてこないかな?」
「──なに、神さまと遊びたいの?」
 千尋はバスタオルを広げて妹の濡れ髪を拭いてやる。妹はなすがままにされながら、心配そうにつぶやいた。
「カミサマ、あつくないのかな。おうちの中、エアコンきいてる?」
「うーん……エアコンはないかなあ?」
「じゃあ、ネッチュウショウになっちゃうよ!」
 思わず千尋は吹き出してしまった。妹がさっと振り返るので、とっさに咳ばらいでごまかす。
「心配しなくて大丈夫だよ。神さまは暑さに強いんだから」
「なんで?」
「なんでって、だって、川の神さまだから。水の中は冷たいでしょ? だから暑くても平気なんだよ」
 聞くが早いか、妹はつい先程まで遊んでいたビニールプールへ戻っていく。ビニールの縁をつかみ、半身を乗り出すようにしてプールの中をのぞきこんだ。
「つめたーい!」
 千尋も妹にならい、片手を水にひたしてみた。
 青くゆらめく水の底で、魚やイルカや亀の絵がのんびりと泳いでいるように見える。

 祠の外はすでに暮れかかっていた。
 姉妹が庭で水遊びする様子をうかがっているうちに、まどろんでしまったようだ。顔を出す機を逃してしまった。
「……」
 ハクはまだ夢から覚めやらぬような瞳で二人が遊んでいたビニールプールを覗きこむ。
 ふと視界の端で何かが動いたような気がした。アメンボが一匹、氷の上を滑るようにして水面をすいと渡っていくのが彼の目にとまった。
「むこうでは──」
 ちょうど窓の下に置きっぱなしにしていたサンダルをつっかけ、千尋が庭に出てくるところだった。
「そろそろ、お店を開ける時間かな?」
「ああ……。もう明かりが入る頃だろうね」
 荻野家の窓からもカーテン越しに照明の光がこぼれている。そろそろ夕食時だろうか。
「ねえ、ハク」
 ぼんやりと窓の明かりをながめていたハクは、呼びかけへの反応がひと呼吸分遅れた。
「……うん?」
 千尋がぐっと距離をつめてくる。突き出してきた顔は、真剣そのものだった。
「大丈夫?」
「何が──?」
「ハク、なんだか調子が悪いみたい」
「……そんなことはないよ」
 内心の動揺を気取られないよう、ハクはつとめて明るく笑ってみせる。
 が、千尋の目をごまかすことはできない。
「それ、空元気だよね」
「……いや、そんなことは」
「お願い、正直に言って」
 腕をつかまれた。
「ハクを連れて帰ってきたのはわたしなんだよ。もしもハクに何かあったら、わたし……」
 泣き出しそうにゆらぐ愛しい声。聞くに堪えないハクはとうとう隠し通すことを観念した。両眼を閉じ、心を落ち着けるようにそっと息をつく。
「──千尋が気に病むことなどない。私自身が、この世界に帰りたくて帰ってきたのだから。それでもし私の身に何かが起きたとしても、それは私が選んだことの結果なんだ。決して後悔はしないよ」
 千尋の顔がにわかにこわばった。今の悟ったような物言いから、ハクが差し迫った状況に置かれているのではないか、と直感したのだろう。いまにも消えてしまいそうな幻をつかまえておかなければとでもいうように、千尋は熱烈に彼の胴体に抱きついてきた。
「いやっ、死んじゃやだっ!」
 勢いあまって数歩後ろによろけながら、ハクはきょとんと両眼をみはった。千尋がひたいを彼の鳩尾の辺りに押しつけてしきりにしゃくりあげている。
「せっかくまた会えたのに──!!」
 少年のようにあどけない顔で茫然としていたハクが、はたと震えているその肩に気づく。怖がりなところは幼い頃から変わらないらしい。思わずそっと肩に手を添えてみると、はじかれたように千尋が顔を上げた。
 泣き濡れた瞳を見下ろしながら、千尋が自分のために流してくれる涙ほど清らかなものが他にあるだろうか、とハクは感じ入った。
「──すまない。余計なことを言って、あらぬ心配をかけてしまったね。……確かにこちらへ戻ってからの私は本調子じゃない。今日などは思うように体が動かないし、正直この姿を保つのでさえやっとだ」
 でも、と青ざめかけた千尋の顔色を読みとって、ハクは言葉をついだ。
「原因はわかっているんだ」
「原因……?」
「うん。だから私は決めたよ、千尋」
 意志の強い眼で千尋を見据える。
「もう一度、あの川へ行ってみようと思う」



20.02.02

Boule de Neige