黙 契 ─ 1 ─







 知るべきではなかったのだろうか。あるいは知ってしまったとしても、見て見ぬふりをするべきだったのか。
 一人寝の夜長、まんじりともせず薄明かりの月に問うが、待てど暮らせど答えが降りてくることはない。やがて月の薄情さに見切りをつけた彼は、彼にとって唯一の話し相手、その胸に守りのように抱いた愛刀・鉄砕牙へ、命を吹き込むようにそっとささやきかけた。
「かごめは、もう寝たかな……」
 祝言を挙げてまだ半月足らず。
 共寝をした夜は、片手で余るほど。
 はじめこそ、何のことはない痴話喧嘩だろう、これも夫婦の試練のうち、などと茶化していた村の面々も、ここ数日は冗談ではすまされぬ気配を感じ取っているらしい。腫れ物に触るのをためらうような空気がただよっているのがわかる。
「ねえ、どうしてかごめちゃんをひとりにするのさ──」
「悪いことをしたのなら、早く謝ってしまいなさい──」
 夫婦としては数年先達の二人に諭された。返す言葉がなかった。何も好き好んでひとりでいることを選んでいるわけではない。ただ一言謝って済む問題なら、とうの昔にそうしているだろう。
 当のかごめは気丈にふるまっていた。昼間顔を合わせればごく自然に会話をし、歩み寄ろうとしてくれているのが感じられる。だからこそ犬夜叉も普段通りの彼を装い、彼女に接することができた。日が昇っている間だけは。
「……笑えるぜ。このおれが、夜を恐れるだなんてよ」
 刀の柄を額に押し当てるようにして、犬夜叉は固く目を閉じる。情けないことに、その刀は小刻みに震えていた。
 夜よりもなお空恐ろしいものがある。
 かごめの肌を見ることが、怖い。
 ──その細腕につけてしまった傷痕を、目の当たりにすることが。
「おれのせいだ。おれが弱いから、かごめにあんな傷を負わせちまった……」
 二人の身も心も溶かすような蜜月に不穏な暗雲が垂れこめたのは、祝言から四日目の夜。三夜に渡り夢中でむさぼった肢体を、今夜こそはじっくり愛でようと決めた矢先のことだった。玉かぎるような肌の上で指先をころがしながら、ささいな睦言にはにかみ合った。ふと抱きついてきたその腕にある裂傷が目に留まった。それがまぎれもなく自分の爪によるものだと気づいた時、犬夜叉は一瞬にして胡蝶の夢から醒めたような気がした。
「──こんなの、全然傷のうちに入らないわ。三年も前のことでしょ? 今の今まで忘れてたくらいだもん」
 何でもないことのようにかごめは笑ったが、犬夜叉は笑うことなどできなかった。その笑顔に反して彼の表情は曇りがちになった。大丈夫だと言われれば言われるほど、大丈夫であるはずがないのだと思えてならなかった。この世で最も大事な、誰よりもこの手で守ってやりたかった存在に、自らの手で痛ましい傷をつけてしまったという自己嫌悪に苛まれた。矛盾した己を責め立てる気持ちから、幸福を味わうことさえも罪悪であるように感じられた。
「なあ、鉄砕牙。……おまえだけは知ってるよな。みんなが思うほど、おれは強い奴なんかじゃねえって」
 刀と心を通わせるように額を触れさせたまま、犬夜叉はつと苦悶の表情を浮かべる。認めたくはなかった。だが、認めざるを得ない。
「だからな、鉄砕牙。おれと約束してくれるか。もし、いつかまた、おれがかごめを傷つけるようなことがあれば──。そうなる前に、おまえがどんな手を使ってでも、おれを止めると!」
 ──ドクン、と刀が彼の呼びかけに反応し、あたかも血の通った人の心を持つかのごとく鮮明に鼓動する。犬夜叉はきつく歯を食いしばりながら、血を吐くような声で続けた。
「……いいか! どんな手を使っても、だぞ。かごめを傷つける奴は、おれが絶対に許さねえ。たとえそれがこのおれ自身だとしても──!」
 彼の手の内で、あたかも宿敵を目前にしたかのように、刀の鼓動が熱く高まるのが感じられた。



2020.02.25


Boule de Neige