黙 契 ─ 2 ─







「──かごめさま」
 空を見上げて一息ついたところを、背後から呼び止められた。今しがた暇乞いをしたはずの相手が、赤子を抱いて戸口まで出てきている。
「申し訳ない。かごめさまには、とんだご迷惑を……」
「ううん、気にしないで。珊瑚ちゃんの具合が良くなるまでは、弥勒さまがついていてあげなきゃ」
 かごめは何でもないことのように笑いながら、赤子へ手を振る。幼い息子が指しゃぶりをやめ、抱いてほしそうにしきりに彼女の方に手を伸ばすのをなだめながら、弥勒はその大人びた笑顔へ気遣わしげな目を向けた。
「しかし、いささかやりにくいでしょう。二人きりでの妖怪退治というのは──」
「大丈夫。……私の方こそ、ごめんなさい。弥勒さまと珊瑚ちゃんに心配かけちゃって」
 赤子がむずがるほどねだるので、かごめはこころよく両腕にその小さな重みを受け取った。温かな胸に抱かれるや、揺り籠に入ったような心地よさを感じたのか、今にも泣き出しそうな赤ら顔が嘘のように穏やかになる。母親が風邪で寝込んでいるのが、幼心にひどくこたえているようだった。
「いい子ね。素直に甘えてくれて」
 誰かへの当てつけのようなつぶやきに、弥勒は思わず苦笑する。
「彼も甘えたいはずですよ。きっと」
「どうかな。私が手を差し出しても、こわがって逃げちゃうんだもん」
「……少し経てば、また尻尾を振ってすり寄ってきますよ。結局は、かごめさまだけが生き甲斐のような男なのですから」
 彼女の腕の中で、赤子がわき腹をくすぐられたような笑い声を上げた。恋しいものを欲することに何の疑いも抱かぬ無垢な存在。かごめはその屈託のない笑顔の映し鏡になろうとしたが、引き上げた頬が否応なしにこわばるのをどうすることもできなかった。

 翌日には妖怪退治に向かわねばならないことを告げると、夫は一瞬目を伏せた。
「珊瑚が家で養生してて、弥勒が村に残るんだな。──だったら、おれ一人で行く」
「私が一緒に行ったら、足手まといなの?」
 かごめは矢筒に入れた矢の本数を確かめながら、横目で問う。納屋の窓からさしこむ縞模様の夕陽に照らされた犬夜叉は、数歩離れたところから、切々とした瞳で彼女の横顔を見つめていた。
「そんなわけねえだろ。ただ……」
「ただ?」
「……おまえを危ない目に遭わせたくねえんだ」
 しばしの沈黙があった。
「──なんだ。そんなの、私だって一緒」
 甕の縁から水があふれるように、ひとしずくの思いがかごめの口からこぼれ落ちた。
「あんたを一人で戦わせたくない。──だから、一緒に行くのよ」
 犬夜叉はぐっと言葉に詰まる。その横顔から、何を言われようとかごめが決して意志を曲げないだろうことを察したようだった。
 矢筒を満たして納屋を出ようとすると、すかさず彼が先回りしてかごめの行く手をふさいだ。かごめは挑むようにこうべを上げる。
「どいてよ」
「──この、意地っ張り」
「意地っ張り? それはお互いさまじゃない」
 我知らず傷の残る腕をつかんでいた。そのささいな痕跡ゆえに、相変わらず指一本かごめに触れようとはしない犬夜叉だが、かげろうのように揺れる瞳が、噛んだ唇のわななきが、爪の食い込むほど握りしめた拳の固さが、離れがたさを切に訴えていた。
「──……かごめ」
 一度胸をつくような声で呼んだきり、犬夜叉は思念を振り切るようにして納屋を出て行った。かごめは胸に手を当てて暮れなずむ景色に吸い込まれていくその背を見送った。彼がどれほど夜の局から遠ざかろうと、心と心は褥にならべた二つの枕よりも密接に通い合っている──。そう信じることが、来たるべき夜の唯一の慰めだった。


2020.02.29


Boule de Neige