cloaked in the night
湯屋の暖簾をくぐってわずかも行かぬうち、彼はぴたりと歩みを止めた。
目の前に延びる見慣れた広小路。暮れ六つ後の薄闇にまぎれて、何かがゆっくりとこちらに近づいてくるのが見て取れる。
彼はその場に立ち尽くしたまま、じっと目を凝らした。
人魂のようにゆらめく小さな灯りが、暗色に覆われたその輪郭をなめらかに描き出す。
百鬼夜行ならぬ、一鬼夜行か。平安の世ほど迷信深いとは言いがたい大正の人々だが、この光景を目の当たりにすれば、そう危ぶんだかもしれない。
生憎、陰陽師である彼は一目でその正体を看破することができたので、恐怖に身をすくませることなどなかった。むしろその鋭い瞳は、瞬時にして親しい者に向けられるまなざしへと変化していた。
「夜道を一人歩きするのは、あまり褒められたことではないね。──菜花」
その呼びかけを耳にしたらしい異形は、むしろそちらが妖異に化かされたように、闇の中で大きく後退した。
「なんで分かったの!?」
「──なぜ、分からないと思ったんだ?」
「だって、夜だし、これかぶってたら顔も見えないし。なんだ、摩緒のこと驚かせようと思ったのに……」
不満をもらしながら、相手は頭部を覆う頭巾を取りはらった。少女には丈の長すぎる、見慣れた紫のインバネス。片手にはカンテラをたずさえている。
彼はそのカンテラを受け取り、二人の間にかかげて帰路を歩き出した。
この時刻でもまだ暖簾を出したままの商店や食堂の店先には、軒行灯がぼんやりと点されている。どこからか夜学通いと思しき青年が出てきて、学帽をかたむけながら駅へと走っていく。夜警の詰所や屋台からも明かりがもれていた。それらを通り越してしまうと、いよいよ人気はなくなり、五行町の夜の闇が一層深まるのが感じられた。
「……こっちの夜って、やっぱり暗いね」
横からの声は、いつになくか細い。
「街灯のない時代に比べれば、これでも明るい方だけどね。──怖いのか? 菜花」
カンテラをかかげる彼の腕に、菜花が心もとなげに身を寄せてきた。歩きにくいほどの近さだったが、摩緒は決して遠ざけようとはしない。歩調をゆるめて、静かに隣へ問いかける。
「夜が怖いのなら、なぜわざわざ一人で歩いてきたんだ?」
「……」
「私に用があるなら、診療所で待っていても良かったんだよ。乙弥もいることだし」
ちらと見下ろした菜花の顔は、いつの間にやらまたも外套の頭巾に覆われて、彼にはその表情をうかがい知ることはできなかった。
「別に用なんて……。言われなくても、次からはそうするつもりだし」
影が独り歩きするように、菜花は彼から一歩ずつ離れていった。背けられたその頭部に、彼はカンテラをそっと近づける。
「菜花、怒っているのか?」
「怒ってなんかないよっ」
「いや、怒っているじゃないか」
「違うってば」
「だったら、顔を見せてごらん──」
反抗して背を向けたかと思うと、菜花は身にまとっていたインバネスをさっと脱いだ。
そして振り向きざま、摩緒がその表情を見て取る隙さえ与えず、彼の胸の中に勢いよく飛びこんでくる。
はずみでカンテラがその手先からすべり落ちたことさえ、彼は気が付かなかった。
「……摩緒の、わからず屋」
ガラスの砕け散る音は、外套を持ち主に着せてやりながら、菜花が口にしたうらみ言にかき消された。それは一点の邪気さえ感じさせない言葉だった。
空いた手が無意識下でその頭に触れかけた時、菜花は気まぐれな飼い猫のように、彼の胸の中から身をひるがえした。
「マント、ちゃんと渡したからね」
何事もなかったかのように、明るい声で言う。
「お風呂上がりで風邪ひかないでね。摩緒」
「菜花」
「もう行かなきゃ。おじいちゃんが心配しちゃうから」
そして手を振ったきり、その姿は振り返ることなく、結界の中へと吸い込まれていった。まるで何かに急き立てられるような、いつになく性急な去り際だった。
彼はしばらくその門を見つめていた。
胸にはまだ菜花が飛びこんできた時の重みが残っている。わからず屋、という声もまた耳元にとどまっている。
「わからず屋、か。──菜花、おまえの方こそ」
壊れたカンテラの灯火の消え入るように、その言葉は誰に拾われることもなく、暗がりへ深く沈んでいく。
遠い寺院で鐘が打ち鳴らされる。湯帷子に羽織った外套をはためかせながら、彼は静かに夜の闇へとまぎれていった。
2021.09.10
Boule de Neige