金 の 籠

 表通りに出られない。足は絶えず動いているのに、周囲の景色は一向にうつろう気配がなかった。このまま走り続けても意味がないことを悟った菜花は、息を切らして立ち止まった。肩で呼吸しながら足元に目を落とすと、無数の棒のような影が伸びている。
「何? これ──」
 まるで檻の柵のようで気味が悪い。その影を踏み越えていこうとする菜花だったが、不思議と何か見えない力で押し戻されてしまった。幾度か試みたが、やはり一歩たりとも先へ進むことはできない。
「無駄だよ。おまえは今、結界にとらわれているのだ」
 予期せぬ声に、菜花は間髪入れず後ろを振り返った。軍帽のかげから彼女を見据える二つの瞳。それらは「彼」と同じ陰陽師の名を冠する者とは信じがたいほど、非情な冷たさをやどしている。
「──白眉!」
「白眉"さま"、だろう?」
 眉を逆立てて呼びすてる菜花に、敵は不快をもよおした様子だった。
「無調法なやつらとつるんでいるせいか、無礼な小娘だ」
「何しにきたの? まさか、また摩緒を傷つけるつもりなの?」
 血相を変えて詰め寄る菜花を、じろりと見下ろす。
「だったらどうする?」
「そんなこと、私がさせない!」
「させない、だと? おれの結界の中で手も足も出ないおまえがか。未熟者が、口だけは達者だな」
 鼻であしらうような嘲笑に、菜花は奥歯を噛みしめた。奇襲を受けるたび、満身創痍で診療所に横たわる「彼」の姿が脳裏に浮かんだ。傷口に何度塩を塗りたくっても飽き足りない、鬼畜の所業にやりきれない怒りが湧いてくる。彼女の瞳が赤く見開かれたのを目の当たりにした白眉は、はたと真顔になった。
「生意気に歯向かうつもりか」
「ここであんたを止めなくちゃ、次は摩緒を襲うでしょ!」
「面白い、ならばこの結界を破ってみせろ。──来い、菜花」
 菜花は敵に向かって突進した。手を伸ばせば今にも拳が届きそうな位置に、その憎い顔はある。あるはずなのに、近づいても近づいても、透明の柵のようなものに強くはじき返されてしまう。
「小娘ごときにおれの術が破れるものか」
 金属の義手を伸ばし、白眉は己に立ち向かおうと躍起になる菜花の喉元をとらえた。その手にゆっくりと力がこめられていく。唇を噛んで窒息に耐える彼女の顔を見下ろしながら、
「菜花。おまえも獣のように、飼い殺しにしてやろうか。深く暗い檻の中で、蠱毒の壺の虫けらどものように、死ぬまで互いを食い合わせてみようか──」
「──私を、脅してるの?」
 菜花が虫の息でたずねるのを耳にした敵は、「だったらどうする?」と、つい先程と同じ台詞を口にした。その唇にはいつしか、かすかな笑みさえ浮かんでいるのだった。
「おぞましいだろう。恐ろしいだろう。──ここでこうしておまえをくびり殺すことは、造作もない。だが、それではあまりにも容易く、呆気ない。おれはおまえに地獄の苦しみを与えることができるのだから」
 白眉は身を乗り出した。そうして菜花の揺れる瞳のうちに、自分に対する絶対的な恐怖を見出そうとした。
「さあ、"怖い"と言え。その一言で、おまえはもはやおれの呪縛から逃れられはしまい」
「……」
 菜花はがっくりとうなだれた。すべてを諦め、屈服したかのようなその様子に、白眉は会心の笑みをこぼす。
 その一瞬の隙をついて、彼女はスカートのポケットに片手を滑りこませた。中にはひとつの燐寸マッチ箱が入っていた。診療所のランプをつけるのに「彼」が使っていたものだ。菜花が箱の意匠を気に入ったので、まだあるからと譲り渡してくれたのだった。その燐寸箱を菜花は片手に握りしめた。一人ではないという心強さに奮起し、敵と目線を合わせるためにぱっと顔を上げた。
「火は金を剋す!」
 油断していた白眉がはっと瞳を険しくした瞬間、菜花は束にして火をつけた燐寸を金属の義手に強く押し付けた。火は使い手の意志に焚きつけられてたちまち激しく燃え上がり、弱点をつかれた敵は、舌打ちしながら後退せざるを得なくなる。
「──いまいましい小娘め!」
「人の首絞めておいて、いまいましいって何!?」
 殺気だった悪態にもめげず、菜花はさらにもう片方のポケットから小さなスプレーを取り出した。令和では欠かせないアルコール消毒液だった。それを火の元に向かって吹きかけてやれば、炎はますます勢いづいて金の術者をのみ込もうとする。
「くっ、小賢しい!」
 彼女が熾す火では、不死の陰陽師を焼き尽くすことはできないと菜花は知っていた。それでも、弱点である火がその金属の義手に発揮した威力はなかなかのもので、敵は大炎の中から凄まじい形相で彼女を睨みつけてきた。
「──菜花。ただの連れの小娘と思わせておけばよいものを、やつも不用意なことだな」
 金属が溶けて地面にボタボタと流れ落ちる。菜花はそこに柵の影がないことに気づいた。彼女を閉じ込めていた檻のような結界は、すでにその身の回りから解かれていた。
「おい、裏手から煙が上がってるぞ! 火事だーっ!」
 表通りの方から人の声がした。金の術者は何を思ったか、鬼気迫る様相で彼女との距離をつめ、無事の方の手で菜花の手首をつかもうとした。地獄の炎さえ凍り付きそうな、冷ややかな殺意を目の当たりにした菜花は、忘れていた恐怖に駆られて言葉を失った。
「菜花──!」
 頭の中にはたった一人の顔が浮かんでいた。その声が聞こえた時、彼女はそれが自分の内側から聞こえたものに違いないと思った。喉がかれるほど名を呼んで助けにきてほしかった。けれどそれにも増して、「彼」をこの男と引き合わせたくなかった。またしても生死の境をさまようような、危険な目にあわせたくはなかった。
 つかまれそうになった手を振り切り、菜花は死に物狂いで走り出した。できるだけ遠くへ、一歩でも「彼」から遠ざけるように。背後からまた名を呼ぶ声がした。炎の燃える音、けたたましい金属音もした。自分がどれほど恐ろしい怪物に追いかけられているのかと心竦ませる間もなく、足をもつれさせながらひたすら駆けた。
 やがて後ろからがっしりと肩をつかまれた。振り払おうにも、男の力にはかなわない。
「私だよ。菜花」
 抵抗する彼女を、確かな声がなだめた。菜花ははっと振り返り、心配そうなその顔を目にすると、声にならない声でその名を呼んだ。その顔に触れて真新しい傷がないことを確かめた。
「すまない。一人にして、本当にすまなかった」
「ああ、良かった。摩緒が無事で、本当に良かった……」
「一人きりで、あの白眉さまに立ち向かったんだね。──怖かっただろう?」 
 安堵に胸をなでおろしつつ、うん、と菜花は素直に頷いた。
「怖かった。摩緒に何かあったらどうしようって、ずっと怖かった──」
 黄昏の街路に無数の影が伸びる。
 男の口角が上がったのを、黄金の夕日に目を細める彼女はまだ知らずにいる。



令和三年九月十三日

 


Boule de Neige