その人の瞳は、不思議と懐かしい色をしていた。顔には全く見覚えがないのに、いつかどこかで、目と目を合わせたことがあるはずだという気がしてならなかった。
 熱心な視線を感じたのだろう。その人は、何とはなしに窓側へ向けていた顔を、隣の千尋へくるりと移して、単刀直入に尋ねてくる。
「友達になりますか?」
「──えっ?」
「だって、興味があるんでしょう。私に」
 にっこりと笑えば、柔らかくしなるその瞳。奇妙な懐かしさは、千尋の胸の中でより一層かき立てられるようだった。そしてそれは、さながら初恋を告白する時にも似たはじらいを伴っていた。
「……あります」
 千尋はなけなしの勇気を振り絞り、その人に向かって頷きかける。
「あなたと友達になりたい。あなたのこと、知りたいんです」
「そう」
 一瞬、その人は遠い目をした。
「じゃあ、もうひとつ知っているよね。──千尋、私の最初の友達が、あなただということを」
 彼女は親しみを込めて、千尋の名を呼んだ。ただそれだけのことが、千尋には目眩がしそうなほど嬉しく思われた。その日から、彼女の瞳は千尋だけのものとなる。千尋の呼びかけに応じて彼女が振り返る度、宝物を手に入れる喜びに、千尋は酔いしれた。
 美しい友情は、しかし、盛りを過ぎた桜の花びらとともに、春風のように散っていく運命にあった。初夏を迎える前に、親友は遠くの町へ引っ越していくことになる。
「わたしたち、前にどこかで会わなかった?」
 泣きべそをかきながら、千尋は答え合わせをしようとした。けれど彼女は、ただ笑うばかりだった。これほど別れを惜しんでいるのに、何のしがらみもなく去って行こうとする親友が、千尋は心底恨めしかった。もう、一滴の涙さえ流してやるものか。心を決めたものの、千尋の熱い瞳は、その決意を跡形もなく溶かしきってしまう。
 彼女は千尋の頬に触れてきた。そして、指先を温かな涙にひたし、額と額を近づけながら、
「──あなたの涙は、一番小さな川」
 別れの言葉にしては、奇妙なことを囁くのだった。
「この川は、私だけのもの」
 彼女とは、それきりだった。転居先を尋ねることを失念していたので、千尋は相手に連絡する手段さえ持たなかった。葉桜に初夏の日差しが降り注ぐ頃、周囲は彼女の存在をすっかり忘れ去った。悲しみに沈んでいた千尋も、新たな人間関係に目覚め、いつしか親友と呼んだその人を思い出すことさえなくなっていった。



「──大丈夫ですか?」
 千尋に助け起こされながら、その人は、皺の寄った手で彼女の手を握り返してきた。高齢にしては存外強い力に、千尋は目を見張る。
 老人の倒した歩行杖は、まだ持ち主の手には戻らないまま、アスファルトの上で冷たい雨に打たれていた。腰の曲がっているその人の支えは、千尋が差し出した手ひとつだ。だからこそ手放すつもりはないようだった。ひょっとすると、自分の孫と勘違いしているのかもしれない、と千尋は思う。迫り来る塾の時間を気にしつつも、このまま放っておくことはできそうになかった。ひとまず声をかけてみようと、その顔を覗き込んだ時、千尋ははっと息をのんだ。
「どうもありがとう。親切なお嬢さん」
 老眼鏡の奥で、優しく細められるその瞳。磁石よりも強い力で千尋の心を惹きつけたその瞬間、その人は、あれほど強く握っていた千尋の手をぱっと離した。そして、ゆっくりとした動作で歩行杖を拾い、胸をかきむしりたくなるような、もどかしい微笑みを浮かべて千尋に会釈をするのだった。一連の動きを、千尋ははやる心を感じながらも、ただ呆然と見つめる他なかった。
 枯れ木のように折れ曲がった背中が、降りしきる雨の向こうへ消えていくまで、千尋はコンビニの駐車場から一歩も動き出せずにいた。道端に咲く紫陽花は、雨に打たれて重たげにこうべを垂れている。その陰から、母校の青いジャージを着た生徒が、傘も差さずに水たまりの中を駆けてくるのが見えた。



 エンドロールが終わってもなお、千尋は何も映さないスクリーンを見つめ続けていた。静かな失望が、その胸の内にきざし始めていた。
 暗かった場内に照明が入ると、人々は長い夢から醒めたように、次々と座席から腰を上げる。ざわめきの中から、しきりに鼻をすする音が聞こえてくる。
「感動した?」
 隣からの問いかけに、うん、とぎこちない笑顔で千尋は頷いた。のどの渇きを覚え、ドリンクホルダーからウーロン茶を取り上げる。そのあまりの軽さに、千尋はまたも落胆した。映画の途中で、とうに飲み干してしまっていたことをすっかり忘れていたのだった。
「ほら。飲みな」
 千尋の表情を観察していた彼が、くすくす笑いながら自分の飲み物を差し出してきた。千尋は二口、三口飲んで持ち主に返そうとしたが、もういいよと言うので、すっかり空にしてから、容器を場外のごみ箱に捨てた。ごみ箱の傍には巨大なパネルが設置されていた。今夏最大の感動作、という、飽きるほど耳にしたうたい文句が目に留まる。
 ──感動した。実際、こんなにも胸が騒いでいる。もう少し、あとほんの五分、監督が結末を遅らせてくれていたならば、きっと千尋も今、涙に濡れたハンカチを手にしていたに違いない。映画館の外に出るなり、じりじりと照り付けてくる真夏の太陽を、千尋は恨めしげに見上げた。
「あんなに感動したのに。わたし、涙腺が固いのかな?」
「何。映画で泣きたいの」
 彼は、ショルダーバッグの持ち手を握る千尋の手をとった。水のような指の冷たさが心地よかった。
 手を引かれ、映画館の二軒先にある白い漆喰壁のレストランに向かって歩いていく。
 どこからか、蝉の鳴き声が聞こえてきた。近くの公園に、桜の木が植えられているせいだろう。
「別に、映画じゃなくてもいいんだけど……。いつからか、全然泣けなくなっちゃったんだよね」
「そう」
「最後にいつ、泣いたのかも思い出せないの。変でしょ? 仕事でストレスが溜まった時なんか、思い切り泣けたら、すっきりするのにね」
 千尋、と前を向いたまま、彼が呼んだ。
「もし泣くんだったら、俺のためにだけ泣いて」
「え?」
「千尋の涙は、俺だけのものだから」
 その言葉に、千尋は奇妙な懐かしさを覚えた。けれど理由は突き止められないまま、ぼんやりと彼のうなじを見つめていた。
「俺と別れる時には、千尋も泣けるかもしれないね」
「何それ。もしかして、本気で別れたくて言ってる?」
「違うよ。そんなわけがない。でも──」
 その先の言葉が、千尋に伝わることはなかった。さすがに冗談が過ぎると思った。
 機嫌を損ねた千尋に、その日の彼はどこまでも優しく接した。千尋の好きな料理を注文してくれた。目をつけていたアクセサリーを贈ってくれた。以前行きたいと言った場所に連れて行ってくれた。甘やかされて、悪い気はしない。その瞳に真正面から見つめられると、千尋は他の何も目に入らなくなってしまう。
 あまりにも、盲目だったのかもしれない。
 彼が去った時、千尋は念願だったはずの涙がとめどなく頬を伝うのを感じた。涙を流す度、脳裏に刻まれたその人の面影は、水を何度も塗り重ねていくように曖昧に薄れていった。──その瞳だけが、記憶の底に沈む最後の瞬間まで、千尋の涙をあふれさせた。



 石畳の上に、赤い落ち葉が所狭しと散り敷かれている。所々水たまりになっているのは、今しがた降りやんだ雨の置き土産だった。
 千尋はコートのポケットに両手を差し入れたまま、ゆっくりとした足取りで頭上に綾なす紅葉を眺めている。時々、良いアングルに行き当たると、気まぐれに首から下げているミラーレスを構えた。数百年の歴史をもつという寺院の庭園には、千尋の他にも何人かの観覧客の姿があった。これが晴天や週末であれば、行く道も戻る道もなく人であふれ、のんびり歩き回る余裕などなかっただろう。
 両脇を竹でくくられた道を進んでいくと、池の傍に苔の生えた水琴窟が置かれていた。石のくぼみには水が溜まり、二、三才くらいと思われる幼い少女が、その中をじっと覗き込んでいる。付き添いの親はどこにいるのか。辺りを眺めていた千尋が視線を戻した時、少女は真っ直ぐに千尋を見つめていた。
「ねえ。池に落ちたら、危ないよ」
 反応がないので、おいで、と千尋は手招きした。すると少女は水琴窟から手を離し、千尋に歩み寄ってきた。ひとまず少女が水際から離れてくれたので、千尋はほっと胸をなでおろす。
「いい子だね。お母さんとお父さんがいない時に、水の近くに行ったらだめだよ?」
 少女は肯定も否定もせず、千尋の赤いスカートの裾を握りしめている。目線を合わせて両親について尋ねてみても、首を振るばかり。お母さんを捜そうとうながしてみれば、いらないというようにまたかぶりを振り、千尋の首にひしと抱き着いてきた。
 折よく寺の関係者が通りかかるのが目に入り、困り果てた千尋は立ち上がって助けを求めた。
「すみません。ここに、迷子の子供がいるのですが」
 それに気づいた関係者は、どの子ですか、と小走りに駆け寄ってきた。この子です、と千尋は視線を落とすが、そこについ今しがたまであったはずの姿がない。
 不思議なことに、観覧券を配っている受付の職員は、その日は子連れ客も小さな子供も見かけていないという。それでも念のため、庭園と寺の中を隅々まで捜してもらったが、少女の痕跡らしいものはどこにも見当たらなかった。
 少女の見つめていた水琴窟には、不思議と懐かしい色をした水がたたえられていた。赤い落ち葉がひとひら、水に寄り添うようにそっと浮かんでいた。



 天気予報を見て、いつもよりも早く家を出た。駅に向かう時には、すでに白い雲が分厚く空を覆っていた。両手を揉みながら寒空の下で電車を待つ間に、いよいよちらほらと降り始めてきた。
 人の波に押されながら、千尋は電車へ乗り込んでいく。時間を早めたため、学生の姿が普段よりも多いような気がした。曇った窓の外へ目を向けてみれば、流れ去る景色は白一色に染まっている。まるで一枚の絵をずっと眺めているように、代わり映えがしない。
 その絵の中に、突如としてあの瞳が描き足された。──正面に座っている少年が、おもむろに顔を高く上げて、千尋と目を合わせたのだった。
 千尋は言葉を口にしなかった。
 目は、口よりもはるかに雄弁だった。
 静かに微笑み交わしながら、ただ巡り会える喜びだけを語り合った。川の水がひとところに留まることのないように、その人はまた流れ去っていくのだということが、千尋にはもう分かっていた。雪解けよりもあっという間に、この電車を降りた瞬間、自分がその人を思い出せなくなるだろうことも。
 それでもいい。涙を、心を、記憶を何度奪われてもかまわない。──あなたがふたたび、わたしのもとへ流れてきてくれるのなら。





Boule de Neige