影絵の恋


「──ふふっ」
 どこからか聞こえた笑い声に、湯女は驚いて背後をかえりみた。
 始業後の大部屋はとうにもぬけの殻だと思っていた。今しがた忘れ物を取りに戻ったところだが、部屋の中に人の気配はなかったはずだ。
 しかし、湯女は声が聞こえるたった今まで見落としていた。障子に二つの小さな人影が映っていることを。
「──の手は、小さいね。ほら、比べてみるとよくわかる……」
 午下がりの日差しにあたためられて、薄紙越しのその若い声は、くすぐったいような優しさをふくんでいる。互いに向き合う格好で欄干に腰かけた男女が、手と手を重ねて見つめあう姿は、まるで舶来の恋物語の挿絵のように美しかった。
 労働に明け暮れる日々の慰みに、ほんの一枚障子をへだてた小さな楽園で、人目を忍びつつささやかな秘密の戯れに興じることを、いったい誰がとがめられるだろう。
 それなりの年季を数えてきた湯女は、あえてその障子に近づいて詮索するような、野暮な真似をすることはなかった。押し入れから目当ての襷を探り当てると、ふと微笑みをこぼして、足音ひとつ立てずに部屋の襖を閉じたのだった。


2021.09.19 Clap


Boule de Neige