Summer hat


 彼女の椅子の背もたれには、いつも麦わら帽子がかけてある。東向きの窓からよく晴れた青空と入道雲が見えるような季節ならいざ知らず、吐いた息でガラスが真っ白に曇るような大雪の日にさえそのままにしているので、
「もうとっくに夏は終わったよ、千尋さん。その帽子は、仕舞ったらいいんじゃない?」
 と、毎年のように私は指摘する。すると彼女は、暖炉の火よりも温かく笑いながらその帽子をとりあげて、
「いいの。わたし、夏が一番好きだから」
 私の頭にぽんと載せてみせるのだった。
 私は赤いリボンのついた帽子のつばの陰から、いつまでも私に無償の愛情を注ごうとする、その優しい笑顔を見下ろしていた。
「──ねえ、また背が伸びた?」
「今、気づいたの?」
「ちょっと前まで女の子みたいにかわいかったけど。もう、赤いリボンは似合わないね」
 そう言って、彼女は指をひと振りした。多分、麦わら帽子のリボンを白や青色に変えたにちがいない。
 少し前までは、被せられると大きく傾いで目深になりすぎるほどだったこの帽子も、今はきちんと私の頭の上に載っている。──それでも、「女の子みたい」という彼女の言葉を真に受けていた私は、ふと意地悪心を起こした。
 私は彼女の帽子を頭からとった。そして、それが当然その手元に返してよこされるものと信じてやまない彼女に、にっこりと笑いかけながら──彼女の手の届かない高さまで帽子を持ち上げてしまう。
「……えっ?」
 彼女は面食らった。それから、つま先立ちになったり、うさぎのように飛び跳ねたり、果てにはまじないまで使って帽子を取り返そうとしたけれど、私はことごとくそうした努力をはねのけた。
「ねえ、返して?」
「いやだよ」
「そんな意地悪しないで、ハク。竜はみんな優しいものなんだよ?」
「誰がそんなこと言ったの?」
 星の数ほども聞いた台詞に、私はあえて首をかしげてみせる。
「返してほしかったら、私にキスしてくれる?」
「ああ──。なんだ、そんなこと」
 彼女は躊躇いなくつま先立ちになって、私の頬にその唇を寄せた。
 自分で仕掛けたことなのに、私は愛玩動物を愛でるようなその行為に焦れてしまう。
「そうじゃないよ。それじゃ、満足できない」
「どうしたの? 今日はまるで、大きな子供みたい」
 私から離れた彼女が、こまったように眉を下げて笑った。そして元の椅子に座り、テーブルの上に置かれた小さな竪琴を引き寄せると、その指先で聞きなれた歌を優しく奏ではじめる。
 私はその音色がもたらす効果をよく知っていたから、せめてもの抵抗として耳をふさごうとした。けれど、彼女がおもむろに立ち上がり、竪琴をかき鳴らしたまま、その顔を近づけてきた瞬間──私の心は彼女に対するいっさいの反抗を放棄していた。
「夏が一番好きなの。──ハクと出会った夏が」
 私は、半身を夢の海に浸しているような心地で、ゆっくりと頷いていた。
 そして、私の心を惑わす魔女の頭の上に、奪った麦わら帽子をそっと返してやるのだった。


2021.9.20

Boule de Neige