思ひ、思はれ




 その名の通り雲と霧深い山間地に、雲霧家の館はそびえていた。日暮れが近づくにつれて雲行きの怪しくなっていくことを案じた一行は、行く手に見えたその屋敷を仮寝の宿ときめ、峠越えは明日を待つこととした。
「さしたるおもてなしもできませぬが、どうぞごゆるりと……」
 あてがわれた部屋は二つ。うち一つはいわくつきの開かずの間だというが、よほどの怪異でなくば、百戦錬磨のこの連中を脅かすことはできまいと思われた。
 それでも念には念を押して女子供は安全な寝所に休ませておき、男二人はその次の間である、襖一枚隔てた開かずの間に詰めることとした。
 ──丑三つ時。
 柱に背をもたれたまま、犬夜叉はふと鉄砕牙の鞘を握りしめる。妖気や邪気のたぐいではない、だが何かしらの異変を察知したのだった。
 見れば暗闇の中で、襖の一枚がほのかに光って見える。そこには流麗な墨絵で一人の女性が描かれていた。その絵姿は、どうやらはらはらと涙を流しているようである。
 犬夜叉は不思議と心かき乱された。──襖絵の女性が、段々とよく知る人の姿に見えてきたからだ。今日もささいな口喧嘩の果てに泣き別れとなってしまった、鉄鋼よりも分厚い襖一枚の向こうに眠る、その人に。
 ──そんなことを思う間に、その襖は音も立てずに開かれていく。開いた襖の向こう側からは、白い霧がただよってくる。墨絵の影が──いや、本物の人影がその中からゆっくりと歩み寄ってくる。
「──かごめ?」
 相手は人差し指を口元にあてる動作をした。そしてとうとう犬夜叉の目の前までやってくると、しゃがんで彼と目線の高さをあわせた。霧が深くて一寸先の顔さえ見えない。
 その人は両手を伸ばして、金縛りにあったような犬夜叉の頭をそっと抱き寄せる。
「──他の名前を呼んだら、すぐ言霊を言ってやろうって思ってたのに」
 それは、温かい胸だった。肌の下をめぐる血潮の音さえ聞こえてきそうだ。犬夜叉は突如としてくるおしい思いがこみあげてきて、柔らかい体をひしと抱きしめ返した。可愛らしい驚きの声とともに、心の臓がひときわ生き生きと鼓動する──。
「はいはい。そこまでですよ」
 明かりが灯った刹那、犬夜叉ははっと我に返った。
 まだ晴れぬ霧の中、手燭をもった仲間たちが彼を見下ろしている。彼らは口元に含み笑いさえ浮かべている。──おとりにされたらしい、と気づくまでにそう長い時はかからなかった。同時に、今自分がいかにきわどい姿を仲間たちに晒しているかを思い知らされてしまう。
 今にも押し倒されそうだったかごめは、自力で犬夜叉の下から這い出てくると、ふうと一息ついた。
「──危なかったわ」
「うん。かごめちゃんが体を張ってくれたおかげだね。犬夜叉が襖絵に憑りつかれずに済んだのは」
「ううん、そうじゃなくて……。ううん、そうなんだけど、えっと」
 珊瑚と七宝が、まじまじとかごめの顔を覗きこんでいる。
「襖絵の怪を祓い、かごめさまと仲直りもできた。めでたしめでたしではないか」
 仏のような弥勒の笑顔に、犬夜叉はぴきりと青筋を立てた。いつものことながら、策士の思う壺にはまっていたことがひどく癪に障った。
 けれど、あのまま邪魔が入らなければ、自分とかごめはどうなっていたことか。──ほっとする一方、未然に防がれたその先を思うと、犬夜叉はひどく胸騒ぎがして、なんだか心残りのようでもあるのだった。
 あの襖に描かれていたのは、雲雨図と呼ばれるものだという。屋敷の先の主が、亡き夫人との雲雨の情をしのんで絵師に描かせたものだというが、他のことに頭を占められている犬夜叉は右から左へ聞き流していた。



2021.9.23



Boule de Neige