かわいい子

 大店おおだなの主人というものは、経営に関してはびた一文譲らぬ守銭奴でありながら、私的な人付き合いの上での勘定となると、さだめて羽振りのよくなる人間が多い。
 彼の依頼人もまた、これまでの経験則にたがわず、そういった性質の商人であるようだった。江戸の時世から大切に保管されてきたという家宝の憑き物を落とし、屋敷に厄払いをほどこしたことで、彼はその依頼人にとって無類の「恩人」となった。過分な謝礼金を渡そうとするのを、どうにか説得して相当の額におさめられたはいいが、それでは相手の気持ちがどうしてもおさまらぬという。
 むしろ彼の無欲さは、相手に美徳と見なされたらしい。依頼人はますます彼との親交を深めたいと言って、市中のとある老舗料理屋での会食を強く希望した。
「謝礼はもう十分にいただきました。どうかお気遣いなく」
「まあ、そうおっしゃらずに。長年の憂いを取り除いていただいたのに、あれきりの謝礼ではこちらの面目が立ちませんよ」
「ですが、診療所に助手を待たせてありますから……」
「摩緒先生のことですから、さぞ優秀な助手をお持ちなのでしょうな。さあさあ、外に車を待たせてありますから──」
 何かしらの理由をつけて辞退しようとする摩緒だった。だが結局は依頼人の熱意に根負けし、うながされるがままセダンの後部座席へ乗り込むほかなかった。


 その料理屋は、依頼人の行きつけの店だという。自動車の窓から店構えを目にした時に彼が予想した通り、いわゆる芸者付きの料理屋であった。
 こういった店では当然長居を求められる。今更ながら、式神に留守を命じたことが彼は悔やまれた。子供のようなあの従者を連れていれば、誘いを断ることもたやすかっただろう。乙弥でなければ、あの娘でも良かった。どれほど治安の悪い町にも、女連れの客を芸者付きの店へ案内するような無法者はいないはずだ。
 正直なところ有難迷惑ではあったものの、これも依頼人なりの心尽くしなのだと彼は十分理解していた。なので門前でいきなり引き返すような無体は働かず、店の者に会釈する依頼人につづいて料理屋の暖簾をくぐったのだった。
 案内された二階の座敷にはすでに支度が整っていた。金屏風の前には二人の芸者がいき人形のようにひかえていた。客がそれぞれの席に着くや、それらの人形はゼンマイ仕掛けのように動き出して、紋切り型の伎芸を披露しはじめた。
 酒食のもてなしが進むにつれ、赤ら顔をした依頼人はますます有頂天になり、芸妓たちを傍へ呼び寄せた。
「さあ、おまえは摩緒先生に酌をして差し上げなさい。私が喋ってばかりいるせいで、どうもお酒が進んでいらっしゃらないようだからね」
 そう言って豪快に笑いながら、二人のうちの一方に徳利を持たせた。もう一人はおそらく依頼人の馴染みなのだろう、言われる前からそつなく酌婦をつとめている。
「摩緒先生。ご一献を……」
 磨り膝で近づいてきた芸者が、徳利の口をそっと傾ける。澄んだ液体を杯に受けながら、彼は横目でその様子をうかがった。出会った相手の人相や顔色をつい観察してしまうのは、ある種の職業病かもしれない。
「あまり、無理をしてはいけないよ」
「──まあ。疲れているように見えますか?」
 お化粧が足らないのかもしれませんね、と芸者は愛想笑いを浮かべる。その袖口から覗く白い手が、彼の肩に触れてきた。摩緒は一度も口をつけぬまま、膳の上にゆっくりと杯を置いた。
「あなたは顔色が良くない。どうやら日々の眠りが浅いようだね。何かが……いや、誰かがあなたの夢枕に立つのではないかな?」
「……まあ」
 年若い芸妓は、ふと真顔になって目を伏せた。図星のようだが、心を見透かされることを避けている様子だった。余計なことを詮索してしまったかもしれない、と彼は心を痛めた。苦界くがいに身を沈める女であれば、人に語ることのできない事情のひとつやふたつ、あってしかるべきものだろう。
 それでも、こうして行き合った以上、看過することはできない。摩緒は口元に二本指を立て、小さくまじないを唱えた。まじないは宙で小さな文字となって先程の杯に降り注いでいく。彼はそれを再び手にとり、横で俯いている芸者に差し出した。
「これを飲みなさい。きっと、よく眠れるようになるから」
 芸者は驚いて目を見開いた。が、すぐに申し訳なさそうに眉を下げて言う。
「あの。摩緒先生が召し上がらないうちは──」
「──ああ、そうか。気が利かなかったね、すまない」
 素面しらふな客をさしおいて、芸妓が杯を受け取るなどということはご法度にちがいない。彼は己の無知を詫び、手にしていた杯の中身をくいと飲み干した。そして新しい杯に酒を満たすと、先程のまじないを再びほどこして、隣にすすめた。芸妓の方も、今度は拒む理由はなかった。
 余程睡眠が足りていなかったらしい。彼の肩にことんと寄りかかる格好で、その芸者は深い眠りに落ちていった。それを見た依頼人が驚いて、自分の相手をしていた芸者に朋輩ほうばいを引き取らせた。
「摩緒先生、申し訳ありません。ほら、梅ちゃん、起きなさいよ……」
「いえ、いいんです。そのまま寝かせてやってください」
 彼は微笑わらって、酔いがさめたようになっている依頼人に向き直った。
「私がまじないをかけたのです。明日の朝まで目覚めないでしょう」
「まじない? どんなものです?」
「酔いが早く回る術ですよ。そのと飲み比べをしていたのですが、どうもこちらの分が悪かったものですから、少しばかり細工してみたのです」
 摩緒のこしらえた話を、相手は額面通りに受け取ったらしい。「なるほど、そういうことでしたか!」と豪快に笑いながら、安堵の表情を見せた。
「いや、こちらで引っ張ってきておきながら、とんだ粗相をしてしまったかと肝が冷えましたよ。お楽しみいただいているようで、結構結構」
「粗相だなんてとんでもない。私の方こそ、つい負けん気を起こして、その妓に悪いことをしてしまいました」
 摩緒はいかにもばつの悪そうな様子で、言葉をついだ。
「私に免じて、どうか今夜はよく休ませてやってください。その妓はもう十分、私を楽しませてくれましたから」


 五行町の目抜き通りで送迎の車を見送る頃には、術の効き目が表れはじめていた。
 徐々に迫り来る眠気と闘いながら、摩緒は診療所の扉を開ける。夜間診療に訪れる患者がいないともかぎらなかったが、幸いにも今夜はその様子はなかった。患者の代わりにあの娘がいた。留守の間、乙弥の雑用を手伝ってくれていたらしい。ちょうどいいと思った彼は、持ってきた土産物を彼女に手渡すことにした。
「これ、何?」
「依頼人の方にごちそうになってね。助手に持っていくようにと言われたんだ。乙弥は食事はしないから、菜花がいただくといい」
 彼女が名店の熨斗のしのついた折詰を開けてみると、中にはおはぎがぎっしりとつめられていた。
「わあ、おいしそうっ」
「菜花は、おはぎが好きなのか?」
「うんっ。魚住さんが作ってくれるんだけど、すごくおいしいんだよ」
 無邪気な菜花の笑顔に、そうか、と摩緒もつられて相好をくずす。
「──フナがおはぎを。それは良かった。おまえは、甘いものが好きなんだね」
「好きだよ。前に摩緒がおごってくれたアンミツも、すごくおいしかった」
「そうか。そうだったのか。──うん。菜花は、本当にかわいいな」
「……え?」
 おはぎの小豆を口の端につけたまま、菜花はぽかんと彼を見つめた。そのあどけなさが、眠気で半分閉じかけている彼の目にはいつになく好ましいものと映っていた。摩緒は手を伸ばして、親指の腹でその口についている小豆の粒をとってやった。口に含んでみると、やわらかい小豆のつぶれたところからほのかな甘みがひろがった。
 菜花の手から、食べかけのおはぎが折箱の中に落ちていった。
「──摩緒、なんかおかしいよ。ね、熱でもあるの?」
「うん。熱はないけどね。少し……眠いようだ」
「……もしかして、お酒、飲んだ?」
「──少しだけ。ほんの一杯だけ、だよ」
 ふと目に留まった菜花の肩に、彼はひたいを預けた。頭とまぶたが重くて、これ以上支えていられそうになかった。自分のかけた術がこれほど強力な眠気をもたらすものだとは知らなかった。普段の眠りが、いかに浅いものであるかも。
 二、三度、菜花と乙弥に名を呼ばれたのがわかった。
 それきり、何も聞こえなくなった。


 かわいそうな妓がいた。
 夜に眠ることさえままならない。着ることや、食べることさえままならない子もいた。泥沼からすくい上げることのできた人もあれば、そのまま沈んでいった命も星の数ほどある。医術も陰陽術も、決して万能ではない。だからつねに誰かのために最善を尽くしながらも、どこかで越えることのない一線を引いてきた。
 そうして、与えるべきものには与えてきた。けれど彼自身は、何ひとつ求めることなく生きてきた。月日は百代の過客にして──そう詠んだのはいつの世の誰だったか。永遠にも思われる旅路に、いずれ失うと知っているものを伴うことはできなかった。愛着が湧けば、それだけ手放すのがつらくなるとわかっていたからだ。
 だが──
 今ここに、かわいい子が、いる。
 決して聞き分けのいい娘ではない。むしろ、手を焼いていると言ってもいいだろう。危険をかえりみずに、その娘は何度も何度も不可侵の線を越えてこようとするのだから。
 彼女はよく笑い、よく怒る。ひどく悲しむこともあるが、それ以上に大きな楽しみを見出そうとする。生まれたての純粋な心の持ち主なのだ。いつも自分の心にひたむきな、誰よりも嘘の似合わない娘。同じ血を宿しているはずなのに、まるで陰と陽をなすように、彼とはついになっている。
 だからこそ、かわいいと思う。
 ──かわいい子には、旅をさせるべきだという。
 だから、生き抜くための試練を与える。彼女のためを思い、時には心を鬼にもする。けれど、旅にはまだ行かせない。行かせたくはない、この命あるかぎりは。
 そばにいて、笑っていてほしい、と思う。


「……寝ちゃったよ」
 途方に暮れた菜花は、ほとんど唇の動きだけで、乙弥に助けを求めた。動くに動けないまま、自分の肩で静かな寝息を立てているその人の頭を見下ろす。
「やっぱり、変だったよね。今日の摩緒──」
「お疲れなのかもしれません。ご自分に術をかけてしまうほど……」
「──術?」
「ええ。よく眠れるように、まじないがかかっているようです」
 乙弥は首をかしげて、主の寝顔を覗き込んだ。──あ、とその小さな口から声がこぼれた。
「菜花さん。笑っていらっしゃるようですよ」
「……えっ、摩緒が?」
「はい。──驚きました。摩緒さまが眠りながら笑顔になるのは、手前の知るかぎり、初めてのことですから」
 菜花の瞳が、好奇心にかがやいた。
「……乙弥くん。私も見たい、摩緒の寝顔!」
「でも、菜花さんが今動いたら、起こしてしまうかもしれませんよ」
「あっ、そっか。まだ寝たばっかりだもんね……」
「もう少し眠りが深くなったら、布団にお寝かせしましょう。その時に菜花さんもご覧になれますよ」
 そうだね、と声をひそめて菜花は屈託なく笑った。
「摩緒、今、どんな夢を見てるんだろう?」





令和三年十月二十日

Boule de Neige