sub rosa



「乙女の花園に無断で踏み入ろうだなんて、おまえらしくもない」
 兄弟子の口ぶりに、摩緒は狼狽した。予想だにしない制止だった。
「──そのようなつもりは、ないのですが」
「自覚がないのか? なら、もっとたちが悪い」
 木の術者はそうたしなめつつも、彼の反応を楽しむかのようにかすかな笑みを浮かべている。
「女性の秘密を暴こうだなんて、少なくとも紳士のするべきことじゃないさ」
 秘密、という直接的な言葉に、摩緒はいよいよ眉をひそめた。
「あのに、何の秘密があるというのですか?」
「ほらな。言ってるそばから、土足で踏み入ろうとしてるじゃないか」
「心配しているのです。私の知らないところで、私の知らない悩みを抱えているのではないかと……」
 私でさえ知らない彼女の秘密を、なぜあなたが知っているのか──と、喉元まで出かかるのを摩緒はこらえた。兄弟子を追及するのは、完全に間違っている。そうと分かってはいたが、胸中にはびこるこのもどかしさは、自分一人ではどうすることもできない。
「どうか教えてください、華紋さま。──いったい幽羅子は、菜花に何をしたというのですか?」
「それを知ったところで、結局おまえにはどうすることもできないのさ。摩緒」
 小首を傾げてバラの植え込みの生育状況を確かめながら、兄弟子は突き放すような物言いをした。だが──摩緒からは窺い知ることのできないその表情は、小さな花を慈しむように、存外やさしげなものだった。
「だから、ただ菜花くんを信じてあげなさい」
「──信じる?」
「うん。菜花くんならきっと、打ち勝つことができるはずだってね」
 ──何に、と聞きかけて摩緒は口をつぐんだ。たずねたところで、鼻歌交じりに如雨露じょうろをかたむける兄弟子は、きっとまたはぐらかそうとするに違いない。
「信じて待てば、また……いつものように笑ってくれるでしょうか?」
 ほろりと本心がこぼれ落ちた。恵みの雨をうける大輪の花のひとつに、不思議とあの笑顔が淡く重なっていた。黄色いバラの花びらに、虹色の露が小さくきらめいている。
「菜花が落ち込んでいると、どうも気がかりで」
「だろうね。おまえの顔を見れば分かるよ」
 振り向きざま、兄弟子はふと微笑んだ。
「種は蒔かれた。咲かすのも枯らすのも、あとは菜花くんの心次第だから」
「枯らしてしまっては困ります。元気になってもらいたいのに……」
 摩緒は頭の中に、菜花の笑顔を引き出せそうなものを思い浮かべてみる。甘味や贈り物はまずまずの反応だった。次は、何がいいだろう。
「摩緒。おまえは菜花くんを、余程大切に思っているんだね」
 バラの茂みの傍らで、塑像のようにたたずむ兄弟子が何気ない風に言った。
 彼はまた、無意識のうちにあの黄色いバラに目を向けている。
「大切か、そうでないかと聞かれれば、確かに"大切だ"と答えるでしょう」
「それは、志を共にする仲間だから?」
「ええ、そうです。──それに、菜花は、私の"現在いま"ですから」
「"現在"?」
 華紋が首を傾げた時、摩緒も思わずつられて同じ反応を示してしまった。まぎれもなく自分の口から出た言葉だが、なぜそう思ったのかは、一口に説明できそうもない。
「現在、か……。へえ、そうなんだ」
 口角を持ち上げて兄弟子がうんうんと頷くのを見ているうち、摩緒にとって、完璧な楽園のように手入れの行き届いた美しい庭園は、しだいに彼の心を落ち着かなくさせる、居心地の悪い場所となってきた。
「──華紋さま。ひとつ、お願いしたいことがあるのですが」
「うん、うん。なんだい?」
 含みのある笑顔を向けてくる兄弟子に、摩緒は自然と声をひそめた。
「……今日、私が訪ねてきたことは、菜花には言わないでいただきたいのです」
「なんだ、そんなことか。うん、いいとも。この花の名に懸けて、今日ここでおまえと会ったことは、秘密にしておいてあげよう」
「──ありがとうございます。助かります」
 思わぬ快諾に、摩緒はほっと安堵の微笑をこぼした。
 静かに笑い返す木の術者。その指先で、恵みの雨をまとった一輪の花がかすかに揺れている。
「バラの下ではね。どんな会話も、秘密を約束されるものなのさ」





令和三年十一月二十六日

Boule de Neige