068:片翼

04年ALW映画版 ファントム


 天使が去ったあの日、彼の音楽は、永遠に羽ばたく術を失った。
 もう二度と、楽譜を目にすることはない。オルガンに触れることもない。過去への戒めのため、音楽そのものと決別するのだと、心を決めた。
 それでも、彼には建築がある。奇術がある。芸術は何も音楽にのみ限られたものではない。芸術でなければ、研究に没頭することもできる。醜悪な容姿とひきかえに天から与えられた彼の才能は、音楽を唯一の住処とすることはなかった。
 彼は、自分の人生から音楽を切り離すことができるはずだと信じたかった。
 ──だが、その願いに反して、音楽は彼の魂を見限ろうとはしなかった。
 ふとした時、設計図の余白に音符を書き入れてしまうことがある。それが無意識下に生まれた新たな音楽なのだと気付かされるたび、彼は、自分の中にしぶとく息づく「作曲家」を厳しく責め立てる。未完成の楽譜を破り捨て、背を向け、なかったことにしようとする。
 それでも──。
 闇に揺れる蝋燭を見つめていると、どこからか短い旋律を奏でる声が聞こえてくる。床の上にうち捨てたはずの音楽を、空高く響かせる至上の歌声。その美しい天使の姿を、彼は夜ごと夢にまで見る。
「──ああ。クリスティーヌ」 
 目覚めた瞬間に、熱い涙が頬を伝う。
 天使は去った。
 彼には、音楽だけが残された。
 音楽は、彼の魂そのものだから。
「クリスティーヌ。私が音楽を生み出すたびに──また何度でも、君に出会えるような気がする」
 

2021.11.27

Boule de Neige