056:ひとつ
この人がほしい、と思った。
すれ違いかけた瞬間にはもう、二人の目と手はひとつに重なっていた。
相手の顔も、名前も、何ひとつ知らない。
ただ、決してこのまま通り過ぎるべきではない人、ということだけは、身に染みるほどよく分かっていた。
「──どうしてこんなに、胸が苦しくなるの?」
背中を震わせながら、その人はささやく。雨のように降りそそぐ水の音をかいくぐって届いたその声が、この耳で聞く彼女の第一声だった。
「あなたに触られると、なんだか泣きたくなりそう。──どうしてかな?」
彼も小さく身震いする。靄のかかる頭の中で、彼女とまったく同じ考えにとりつかれていたからだった。温かい雨の中、心までひとつに重なり合っているような気がした。
2021.11.27