丑寅の方角に、鬼が出るというその山は屹立していた。山頂には鈍色の暗雲が厚く垂れこめ、この時期にしては奇妙に生暖かい風を麓に向けて吹き下ろしている。
「犬夜叉、はい。これあげる」
 きな臭い山おろしを顔にうけて眉をひそめる犬夜叉の眼前に、かごめが懐中に入れておいたものを差し出してきた。手のひらに乗る程度の小さなもので、懐紙でこんもりと何かを包んである。
「めしにしちゃ、気が早えな」
「違うわよ。これはね、節分の豆」
「……豆だあ?」
 頓珍漢な差し入れに、犬夜叉は呆れ顔をしつつ、その紙を縒ってある部分を爪の先でいぶかしげにつまみ上げた。──そういえば、と昨夜のかごめが随分と熱心に釜の中の豆を炒っていたことを思い出す。
 それがとっておきの隠し技とでもいうように、隣のかごめは得意顔だった。
「鬼に向かって豆をまいて、退治するの。『鬼は外、福は内』って言いながらね。やったことない?」
「あるかよ。大体なあ、豆なんぞで鬼が退治できるってんなら、鉄砕牙はいらねえだろうが」
「……それはそうだけど。別にいいわよ、いらないんだったらそれで」
 彼の反応が思わしくないので、かごめはふてくされたらしい。唇をとがらせ、足早に犬夜叉の先を行こうとする。
「おい。おれを置いて行くな」
 犬夜叉は渡された豆を懐にしまいつつ、その後を追いかけた。しかし、みるみるうちに目の前に濃い霧が立ち込めてゆき、あっという間にかごめの背中を見失ってしまう。
「──ちっ。匂いまで途切れてやがる」
 完全にはぐれてしまった。だが、かごめもそれなりに場数を踏んでいる。こういう時には、必ず犬夜叉が捜しに行くと分かっているはずだ。むやみやたらと動き回ったりはしないだろう。ならばさほど離れてはいないはずだと見当をつけ、尋ね人の名を呼びながら犬夜叉は霧の中を進み続けた。
「犬夜叉、ここよ」
 やがて、どこか程近いところで声が応えた。安堵しつつ、犬夜叉は白一色の四方をあてどなく見渡す。
「どこだ、かごめ?」
「ここよ、ここ」
「おれが見えるか?」
「──見えないわ」
 前方にぼんやりと人影が浮かび上がった。霧の向こうから、彼に向かってゆらゆらと手を振っているのが見える。犬夜叉も片手を上げて自分の居場所を知らせた。彼女の手が、こちらへ、こちらへと、待ちきれないように彼を招いている。
 場慣れしたようでも、一人で取り残されれば心細いらしい。かごめにはそういう人恋しいところがある。それが彼女のかわいらしさなのだった。やはり二人は片時も離れずに寄り添う運命にあるのだと、魔物の領域にあることなどすっかり忘れ、犬夜叉は会心の笑みを浮かべた。
「かごめ、待ってろ。今行くからな」
 彼女はいじらしく待っている。
 足取りも軽く迎えに行こうとする犬夜叉。
 その頬をぎりぎりかすめるようにして、何かが目にも留まらぬ速さで飛んでいった。
 行く手で甲高い悲鳴が上がる。
「犬夜叉、大丈夫!?」
 背後から声がした。反射的に振り返れば、弓を手にしたかごめがほっとした顔で駆け寄ってくる。予期せぬ登場に、犬夜叉は呆気にとられてまじまじとその顔を見つめる。
「──本物のかごめか?」
「当たり前じゃない。鬼に破魔の矢が撃てる?」
 犬夜叉の鼻先にまだ破魔の気を帯びる弓を突き出し、挑むような目を向けてくるかごめ。今しがた自分の顔のすぐ傍を飛んで行ったのは破魔の矢だったのか、と犬夜叉は納得した。うめき声のする方に目を向ければ、いくらか薄れた霧の中、かごめの矢に片目を射抜かれた鬼が苦痛にのたうち回っている。
 ──鬼とかごめを見間違えた、などとは口が裂けても言えない。秘密は胸の内にしまっておこう、と犬夜叉はひそかに心を決める。
「かごめに、先手をとられちまったな。おれが先に仕留めるつもりだったのによ」
 さも残念、という素振りで肩を竦める。だが、かごめの目は彼の秘密を見通していた。
「びっくりしたわ。犬夜叉ったら、崖の方に全速力で走っていこうとするんだもん」
「え」
 言われてちらと足元を見れば、数歩先は断崖絶壁である。転落すれば、さしもの彼も無事では済まなかっただろう。
「……」
 無言のまま、一歩後ずさる犬夜叉。
「──許してくれ。死にたくねえ!」
 片目に破魔の矢を突き立てたまま、瀕死の鬼が荒い息の下で懇願してきた。かごめは背中の矢筒から矢を引き抜き、鋭くとがった矢じりと鬼の顔とを交互に見比べる。
「もう絶対に人を傷つけないって、約束できる?」
「ああ、できる、約束するとも!」
「本当に?」
 鬼は必死の形相で、何度も頷いた。犬夜叉の瞳が疑念に細められる。
「うさん臭えな。鬼の約束なんざ、信じられるかよ」
「そう? 私は信じるわ」
 かごめはにっこりと笑い、犬夜叉の静止をやんわりとなだめて鬼に近づいて行った。鬼の片目に突き刺さった矢に彼女の手がそっと触れた瞬間、それはまばゆい光を放ち、幻のように跡形もなく消え去っていく。
「その代わり、もし約束を破ったら、あんたのもう片方の目をこの矢で射抜いてやるから」
 鬼がその生還を狂喜する間も与えず、かごめは新たな矢を地面に深々と突き立てた。浄化の光が瞬時にして山頂に立ちこめる暗雲と霧を取り払う。その恐るべき力に、ひっ、と鬼は後ずさった。
「──あ、ちょっと待って」
 去り際、かごめは懐から取り出したものを、おののく鬼の手にそっと握らせた。
「人間を食べたりしないように、豆をあげるわ」
 それは病める者に施しを与える、慈悲深い笑顔だった。

 帰路、犬夜叉は彼女から渡された炒り豆をかじりながら、かごめの凱歌を聞いていた。
「言ったでしょ。豆をまけば、鬼退治ができるって」
「……おまえを敵に回すやつは、根っからの馬鹿だな」
 年の数だけ豆を食べれば幸福が訪れるという。彼はいくつ食べさせられることになるのやら。
「晴れてるのに、寒いわ。今晩は雪が降りそうね」
 かごめは彼にぴったりと身を寄せた。犬夜叉は豆をぽりぽりといわせながら、彼女の方にこうべを傾ける。土の上に落ちる影が、水上で寄り添う二羽の鳥のようにひとつに重なった。
「かごめ。おまえ、なんであんなに怒ってたんだ?」
「──だって。あいつ、犬夜叉を傷つけようとしたわ」
 わかってるくせに、とかごめは肘で犬夜叉の脇腹を小突く。わかっていても、その口から聞きたかったのだと、犬夜叉はおのれの貪欲さを思い知る。
「逆の立場だったら、犬夜叉も怒ったでしょ?」
「あ?」
「もう。とぼけたって、ちゃんとわかってるんだから」
 かごめは正しい。逆の立場ならば、あの鬼は鉄砕牙によって跡形もなく吹き飛んでいただろう。彼の心には、かごめのように温情をかける余地はない。
 犬夜叉はまた一粒、豆を口の中に放り込んだ。



21.01.23 

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Boule de Neige