V tempus fugit
 音楽時計が鳴り出すのは、いつも夕方と決まっていた。だが、その音を合図に千尋がトンネルをくぐる時、向こうの世界は必ずしも元の世界と同じ時間帯とは限らなかった。
 その日は早朝のようだった。時計台を出て、目の前にあるはずの水辺の街は影も形もない。あれほど豊かだった川の水さえも、どこへともなく消えてなくなっている。夜には水の底に沈んでいるはずの草原が、朝日に照らされて風にそよいでいるのを、千尋は夢を見ているような気分で見渡していた。
「朝になったら、ハクのお店はどこに行っちゃうの?」
 ふと、脳裏に浮かんだ疑問を口にしてみた。
「あの街はなくなっちゃうんだよね。だったら、ハクの家は?」
「家はないよ」
 隣から返ってきた事もなげな答えに、千尋は思わず目を丸くした。
「じゃあ、ハクはどこで寝るの?」
「眠くなれば、どこででも」
「どこででもって……。もしかして、野宿してるの? 風邪、ひいたりしない?」
 千尋が本気で心配していることを察したハクは、頬にかかる髪をかきあげて、くすぐったいような笑顔を向けてきた。
「千尋。私が元々、どこで暮らしていたか覚えている?」
「えっ?」
 千尋は頭の中に、懐かしい湯屋のたたずまいを思い浮かべてみる。すると、ハクがその考えを読んだように「川だよ」とみずから答えたので、思い違いに気付かされた。
「そうだよね。ハクは川の神さまだから、ずっと水の中で暮らしてたんだよね」
「うん」
 屋外で眠れば風邪をひく。それは人間の話であって、自然そのものである竜には当てはまらないらしい。川を住処にできるのなら、森や山に暮らせないという道理はないだろう。──その一方で、人の理解をこえた存在であるはずの彼が、奇妙に親近感を覚えてしまうような行動をとる。街角で小さな喫茶店を営んでいたり、隣でコーヒーを飲んでいたり、時計台で人と待ち合わせしていたりする。
「不便はないよ。──でも、気にかけてくれて嬉しい」
 ハクの言葉には偽りがなかった。彼が嬉しいと言う時には、その瞳が言葉以上に喜びを伝えようとする。彼はその存在を確かめるように、千尋の手をやさしく握りしめた。彼女もその手を握り返したので、自然と互いに一歩ずつ踏みだす体勢になる。──二人のあいだの何が偶然で、必然で、または奇跡と呼べるものなのか。太陽のきらめきをその瞳にとらえる時、風に揺れるヒナゲシの花がふくらはぎをそっと撫でるのを感じながら、千尋は、きっとすべてがなるようになるのだという気がしていた。
 手を引かれ、緑なす草原の丘を歩いていく。時計台からは、あの祭囃子のような音楽がかすかに流れてくる。初めて見上げた時にはただただ不気味だったものに、今となっては不思議と愛着さえ感じられる。ハクは一日のうち、太陽の照るあいだは、多くの時間をその時計台で過ごしているらしい。時計を鳴らすかたわら、門番のようなことをしているのだという。
「あの時計台は、元の世界と隣り合わせだからね。千尋の近くにいられるような気がするんだ」
「そんなに近くにいたんだったら、もっと早く会いにくればよかった」
「私はいつも、千尋に会っているつもりでいたよ。心の中で、時計を鳴らすたびに何度でも」
 千尋の心に温かいものが広がっていく。そう言われると、離れていた時間を惜しむ気持ちがどこか遠くへ流れていくような気がした。
「時計といえば」
 と、ハクは小首を傾げて彼女の顔を覗き込む。
「さっき、あの街が朝になると消えてしまう、と言っていたね。どこに消えてしまうのかは、正直私にもよく分からない。明け方に店じまいをして、時計台に来て、気が付くといつも忽然と消えてしまってるからね。
 ──でも、もしかすると、ただ目に見えないだけなのかもしれない。日が昇るあいだは、街が眠っているから。そういう風に、街全体の時計が組み込まれているのかもしれないよ」
「──街が眠るの? 生き物みたいに?」
「わからない。直接、街に聞いてみたわけじゃないからね。ただ、千尋や私が疲れて眠りたくなるのなら、街にだってそういう時がないとは言えないんじゃないか、と思ったんだ」
 千尋は信じられないというように目を見開いた。が、すぐに自分のかかえる矛盾に気付かされる。目の前の存在を信じてやまないのに、あの街が生きているはずがないと思い込むのは妙な話だった。竜がいることを確信しながら、そこに川など流れていないと否定するようなものかもしれない。 
「本当に街が眠ってるんだったら、静かにしてあげなきゃ。起こさないように」
 彼女がシーッと人差し指を口元にあてると、ハクもその真似をした。そよ風の中に二人は笑い声をひそめる。そして、草原に点在する石像のひとつひとつに手を触れ、思い思いの名をつけて回るという、素朴な遊びに時間を費やした。
 千尋は、人間界では有名なあるおとぎ話を彼に話して聞かせた。それは魔法をかけられた娘が、時計の針が深夜十二時を打つまでのあいだ、美しい王城で夢のようなひと時を過ごすという物語だった。興味深げに耳を傾けていたハクは、やがて時計台を振り返り、草原を渡る風の心地よさにその目を閉じた。
「ほんのひと時だとしても、それは二度とない時間だっただろうね。私も、やっと──」
 ふとうつむいた彼は、二人の足元で風にそよぐ夏草のように、そっと肩を揺らした。その笑い方がいかにも嬉しそうで、続きが聞きたい千尋は瞳いっぱいに期待をたたえながら身を乗り出した。
「やっと、なに?」
「この前、向こうの世界に渡る方法を教えただろう? ようやく、それが実現しそうなんだ」
「──ほんとうに?」
「うん」
 これが伝えたくてたまらなかった、という笑顔でハクは頷く。
「店のお客さまと、話をつけたんだ。留守を預かることになってね」
「いつ? どれくらいいられるの?」
「次の満月に、半日だけ。おとぎ話よりも、少しだけ長くいられるかな?」
 半日。それでも二人にとっては、コップに注がれた満杯の水にも等しい。あふれんばかりの喜びを一滴もこぼしたくないという思いで、千尋は自分の望みを打ち明けた。
「わたしも一緒に行きたい! ハクの行くところに、ついていったらだめ?」
「千尋も来てくれるの?」
「もし、ハクがいいって言ってくれるなら」
「他に答えがあると思う? 願ってもない申し出だよ」
 彼は嬉しそうに笑っていた。──かと思うと、歓喜のあまり全身からふと力が抜けたように、草の上にぱたりと仰向けになる。白い衣に土や葉がふりかぶるのをものともせず、額に手の甲を休ませ、青い袴につつまれた片膝を立てて、はるかな高みに広がる空を、目を細めながら見上げている。その姿がいかにも心地よさげにくつろいで見えたので、しばらくかたわらに座ってじっと様子をうかがっていた千尋も、やがて片手で頭の後ろのポニーテールを解いて、太陽に染まる髪を柔らかく散らしながら、緑なす草原に小さな大の字をえがいてみた。
 いつにも増して、空が青く澄んで見える。指先を浸そうと手を伸ばせば、それは逃げ水のように遠ざかり、あきらめて手をおろした時、今度は窒息しそうなほど間近に覆いかぶさってくる。千尋は深く息を吸った。耳元をかすめていく風の中に、かすかな葉擦れの音、羽虫のはばたき、時計の浮世離れした音楽、そして、
『私も、やっと──』
 吐息にも似た静かなささやきがよみがえる。
 投げ出された千尋の手を草の中から探り出すように、彼の指先がつと触れてきた。千尋の瞳は揺れながらも、そのまま流れる雲を追いかけつづけた。一本、また一本と、指と指がからまっていく。白い竜にも似た細い雲が、青空をゆったりと渡っていく。やがてそれが、太陽の白い光に少しずつ呑みこまれていく時、ふたつの手はひとつに重なり合った。
「千尋」
「……ハク」
 同じ空の下、同じ草葉の陰で、顔を互いに向けて、どちらからともなく名を呼び合う。深い安らぎは、千尋のまぶたに心地よいまどろみをもたらした。夢と現実は、ひとつの空の下に共存している。──朝には二人で雲の流れをたどり、夜には星の数を数える。太陽が、月が、ゆるやかにうねる川のように、ひとすじの光の道を照らし出す。二人の手と手はつながれたまま、同じ道を共に歩いていこうとする。
 ──音楽時計の音色がやみ、千尋の意識は夢の浅瀬から、現実の草原へと浮上した。
 ハクが草の中から頭をもたげ、時計台の指し示す時刻を確かめる。そして、まだ眠っていたいような千尋に呼びかけ、
「つい、長居させてしまったね」
「ううん」
「そろそろ行こうか。あまり遅くなると、ご両親が心配してしまう」
「大丈夫だよ。いつもちゃんと、元の時間に戻れてるもん」
 千尋は笑って、大きく背伸びをした。
 今見た夢は薄い雲となって、帰路をたどる彼女の頭上を音もなく流れていく。道なき道のかすかなきらめきが、半歩先をゆくその髪のひとすじに残っている。千尋は手を伸ばして、白い背中に一本だけはりついた細いハマスゲの草を、指と指のあいだにそっととらえた。




Boule de Neige