W 開月山
 その客は、山の神であるらしいということが、ハクには一目で分かった。
 かつて「油屋」の帳場に立っていた頃は、一度も見かけたことのない客だった。苔むした石から削り出された体を重たげに引きずってきたかと思うと、空いているカウンターの椅子にドシンと腰を落ちつける。その椅子の脚がミシミシと不吉な音を立てたので、ハクは咄嗟に、背中に隠した片手の人差し指でくるりと円を描くような動作をした。すると軋む音はすぐにやんだ。彼が瀕死の椅子の材質を、もろい木から頑丈な石に作り替えてしまったのだった。
 新参の客は、三日月のように細い切れ込みの入った目で、小さな店の中を物珍しげに見回している。他の客はコーヒーの煙をくゆらせていたり、スプーンやフォークで軽食をとっていたり、あるいはカンテラの明かりに新聞を近づけて[[rb:頁 > ページ]]をめくるなどして、思い思いの時間を過ごしている。歓楽街の喧騒からは少し離れた路地に建つ元薬屋の喫茶店は、全ての席が埋まる日はめったにないが、それでも不思議と客足が途絶えることはなかった。
「お客様。ご注文はいかがなさいますか。コーヒー、紅茶、他にも各種取り揃えておりますが」
 カウンター越しにハクが尋ねる。するとその客は、再度先客たちの様子をうかがってから、彼に向き直り、そろそろと石でできた二本の太い指を突き出してきた。ハクはそれらを目の前に二度瞬きをして、確認をとるように、
「では、紅茶でよろしいですか?」
 客が頷いた。その顔と首の付け根あたりから、石の粉が細かい砂となってパラパラとこぼれ落ちる。
「茶葉のお好みがございましたら、どうぞお申し付けください」
 彼は薬棚からいくつかの紅茶葉を見つくろい、袋のラベルが見えるようにカウンターに並べた。客はそのひとつひとつにのっぺりとした鼻先を近づけた。茶葉の匂いで好みを判断しているらしい。やがて袋のひとつを指さしたので、ハクは他の茶葉を棚にしまい、湯を沸かし始めた。視線を感じてふと振り返ると、その客が彼の注意を引くように、カウンターを指さしている。そこには一枚の張り紙が差し出されていた。

『お客様へ

手伝い・留守番・まじない等
ご用命ください

楽復二番街 旧薬屋喫茶店 店主』

 見覚えがあるのは当然で、それはハク自身が数日前に書いて、時計台の壁に張り付けたものだった。トンネルの向こうで「神手」を必要とする神々を募るための張り紙だ。そううまい具合に目に留まるものでもないだろうから、気長に待とうと構えていたが、思いのほか早く好機はやってきた。はやる心を抑えて、そっと尋ねてみる。
「これをお持ちになったということは──。お客様、何かご入用ですか?」
 その客が、ゆっくりと頷いた。
 ハクはカウンターから身を乗り出さんばかりになって、是非とも話を聞きたいと願い出た。


 千尋が教えてくれる月齢を、指折りたどる間に、いよいよ月は満ちた。
 いつかまた通り抜けたいと願ってやまなかったその道。ようやく願いが叶うという時になって、彼は躊躇に足が竦みそうになる。あまりにも長く、この街に身を置いていたことに気付かされたのだった。時に追われ、人から忘れられた神を、あの世界は拒むことなく迎え入れてくれるだろうか。
 その時、トンネルの向こうから、彼を呼ぶ声が聞こえた。光さす出口に、ひとつの人影が見える。彼に向けて手を振っている。──早く帰っておいで、こちらに戻っておいでと、懐かしい世界が優しく呼びかけてくるかのようで、止まりかけた彼の足は自然と駆け出していた。
「びっくりした。ハクのこと、向こうに置いてきちゃったかと思った」
 トンネルを抜けると、千尋が安堵の声をもらした。彼がなかなか出てこないので、気を揉んでいたらしい。ハクは千尋がいつものように話しかけてきたことに、ひそかな感動を覚えていた。それでもなお確かな証拠を求めて、彼女の肩に触れてみる。
「千尋。私が見える?」
「え?」
「私の声が聞こえる?」
 答えを聞くまでもない。千尋の反応を見れば分かる。彼の肉体も、声も、確かにその場に存在していた。もしこの世界が彼を否定するならば、最悪、トンネルから一歩先へ出た瞬間に、この身が跡形もなく消し飛ぶということもありえると思っていただけに、ハクは深い安堵の息をつく。
「良かった。無事に渡れたみたいだ」
「そんなに心配だったの? わたしの手、つかんでても良かったのに」
 頼もしいことを言うので、取り越し苦労が馬鹿らしくなった彼は、思わず笑った。千尋が笑い返してきた瞬間に、心に張った緊張の糸がふっと緩むのを感じた。
「ありがとう。千尋がいてくれて、本当に心強いよ」
「そうかな。一緒にトンネルを通っただけなんだけど」
「一人で入ってたら、ひょっとすると出口で迷ってしまったかもしれない。千尋が呼んでくれたから、ちゃんと正しい出口から出てこられたんだよ」
「──本当? だったら、ついてくるって言って良かった。前はハクにたくさん助けてもらったから、今度はわたしがハクを導いてあげるね」
 うん、とハクは頷く。以前彼女があの街に迷い込んできた時とは、まるで立場が逆になってしまったようだった。道に迷いかけた時、誰かの手が差し伸べられているということは、こんなにも確かな心の支えとなる。あの時の千尋にとって、彼自身もそんな存在であれたことを、時を経た今になって強く願わずにはいられなかった。
 千尋の背後には、早朝の山の景色が広がっている。時計台のトンネルは、彼女がいつも通り抜けてくる入口ではなく、彼が行くべき場所へ通じていた。あの日彼の店で紅茶を注文した山の神は、この地を住み家としているらしい。見ず知らずの山だが、それもこの世界の広大な自然の一部であり、またかつてハク自身もそうであったことを思うと、神類みな友達という気がしてくる。
「ハクにこの山のこと聞いてから、どんなところか調べてみたの」
 苔むした岩肌の山道を、快活な足取りで進みながら、千尋が言った。
「洞窟の湧き水がきれいで有名なんだって。目を洗うと、よく見えるようになるっていう言い伝えがあるみたい。その湧き水の近くに"めのさま"っていう神さまが祀られてて、大きい石がご神体なんだって。画像で見たんだけど、すごく苔が生えてて、ひびも入っちゃってた。結構古い神さまなのかなあ」
 伝えておこうと思っていたことがその口から出てきたので、ハクは感心して千尋の横顔を見つめた。
「よく知ってるね。そう、その神さまが店に来てくださったんだよ」
「やっぱりそうだったんだ。そうじゃないかと思ってた」
 千尋も感動をもよおしたようだった。
「神さまって、本当にちゃんといるんだね。向こうの世界ではたくさん見るけど、こっちだと全然会わないから」
「神さまが人間の前に姿を現すことは、滅多にないからね」
 その例外が今まさにここにいることを思い、ハクはくすりと笑った。
「見えたとしても、人に近い姿をとることもある。元々が人間だったという神さまもね。そういう神々は人間の中に溶け込んでしまうから、案外千尋もそうと気付かないうちに、街中ですれ違っているのかもしれないよ」
「そうだよね。あの街にも、色んな神さまがいるもんね。もし、わたしの学校に人間みたいな神さまがまぎれこんでても、周りと同じように生活してたら、気付ける自信ないなあ……」
 そう言って、千尋はハクの顔をじっとながめた。彼が首を傾げると、気まずそうにその目を泳がせる。
「……でも、ハクみたいな神さまだったら、すぐ気付いちゃうかも」
「私みたいな?」
「だって、絶対いないもん。……ハクみたいな人間の男の子は」
 それはどういう意味だろう。人外ゆえに、近寄りがたいということだろうか。千尋が顔を背けてしまったので、ハクの心の中に生じたその予感はいっそう現実味を帯びてくる。顔も名も知らない誰かと張り合うつもりはないが、一人相撲で土俵から転げ落ちたような気分だった。水がなければ生きられないように、千尋にとって近い存在でありたい。なのに竜と人という垣根は、ささやかな心の触れ合いでは越えることのできないものなのか。ひそかに気落ちする彼の横で、当の千尋はなぜか自分の頬をぺちぺちとたたいている。
「こういうの、気まずいね。──わたし、最近、自分が自分じゃないみたいな気がする」
 少女らしいはにかみを感じさせる物言いに、ハクは思わずその顔を覗き込んでみずにはいられなくなる。千尋はじわりと赤らんだ頬が彼の目に映ったと知ると、
「眠気覚まし。早起きしたから」
 と言い訳をして、急ごしらえの欠伸をしてみせた。

 朝霧が晴れてくると、行く手に千尋が言及した湧き水の洞窟がその姿を現しはじめた。清らかな水のしたたり落ちる音に、ハクは歩きながらじっと耳を傾ける。それは神にのみ聞き取ることのできる言葉となり、その一言一句が彼の頭の中にこだました。山の神はその懐に彼らを迎え入れようとしていた。
「わあ、大きい洞窟」
 千尋がその入口で、両腕を広げる動作をした。左右に伸びる彼女の両手は、湿った岩肌には届かない。
「トンネルみたい。中に吸い込まれそう──」
 千尋、とハクが呼びかけた時、背後から強い風が吹いた。洞窟の入口を通せん坊していた千尋は風に押されて、彼女が予感した通り、あっという間に洞窟の暗がりへ呑まれていく。
「すごい風!」
 中から千尋の驚く声が響いた。
 ──その目には見えていないのだろうが、今、洞窟の入口には、彼女と入れ替わりに一柱ひとはしらの神が立ちはだかっている。道をつなげてくれた恩神に、ハクは感謝を込めて挨拶をした。相手も重たげな石頭を軽くさげて、のっそりと洞窟の中から歩み出てくる。
「──ハク? そこにいる?」
「うん、いるよ」
 千尋に答えながら、ハクは山の神との交信をつづける。
 相手の望みは、その身をできるだけ遠くへ飛ばしてほしいということだった。ハクが頷いて了承すると、苔に覆われた巨体はみるみるうちに縮んでいった。ついには見違えるほど小さな石ころになったものを、彼は近づいて手のひらに拾い上げる。
「ハク?」
「うん」
「まだ来ないの?」
「今から行くよ」
 待ち遠しそうな千尋にそう告げると、ハクは手にした小石を大きく振りかぶり、遠くへ投じた。彗星のようにきらめきながら、山神の化身であるその石は、鬱蒼と茂る木々をこえて彼方の空へと吸い込まれていく。
 洞窟の中は、雨夜のように暗く湿っていた。人の手によって掘り出された神の岩屋は、奥へ進むにつれて道幅が狭くなっていく。けれどしだいに外の光が見えてくるので、圧迫感は覚えない。
「あっ、ハクだ」
 水の気配のすぐ側から、千尋が手を振ってきた。
 洞窟の天井にはアーモンド形の大きな穴が穿うがたれており、まだ薄く霧がかったような朝の空をきれいにくり抜いている。その天然の窓の下には、山の湧き水を溜める水場がもうけられていた。これも人の手で整備され、細い管を通して少しずつ落水するしくみになっている。
『入水禁止 なかにはいってはいけません』
 と書かれた札がかたわらに立ててあるのは、遊び場と勘違いした人間の子供がむずがることがあるせいだろうか。
「ハク、見て。山の神さまだよ」
 千尋がハクの袖を引く。
 湧き水の側に、洞窟の岩肌に立てかけるようにして、切り掛けを回した石の神体が祀ってあった。人の背丈を超えるほどの巨石で、ひび割れて苔に覆われた表面には『山神』という碑文がきざまれている。千尋はその神体にぺこりと頭を下げた。そして、今にも動き出そうとすることを期待しているかのように、じっとそれを見つめる。
「あれ? 神さま、まだ寝てるのかな?」
「いや。山の主は、もう行ってしまったよ」
 くすくすと笑うハクに、千尋が目を丸くする。
「いつ?」
「さっき、千尋とすれ違ったよ。気付かなかったかもしれないけど」
「もしかして、風が吹いた時?」
「うん。何か感じた?」
「わかんない。でも、硬い岩の上なのに、やわらかいクッションに座ったみたいだったの」
 千尋は謎が解けたという表情で、苔生す石の神体に向き直った。

 日が昇ると、洞窟の中をちらほらと人の姿が行き来するようになった。山の湧き水を求めて岩屋に入ってきた人々は、管から落ちる水で目を洗ってみたり、手にすくって飲んでみたりしている。水の出が悪くなってくると、ハクがその流れを助けた。水場の脇では山神に供え物を置いていく人もいれば、中の様子を写真に収めていく人もいる。やがてそのうちの一人が、石の神体に生えた苔をタオルで拭いている千尋に話しかけてきた。
「あの。聞いてもいいですか?」
「はい?」
 千尋はきょとんとした。それは母親に連れて来られたらしい少年だった。千尋が入念に神体の手入れをしているので、この山の管理者とでも勘違いしたのかもしれない。
「ここの水って、本当に目が見えるようになるんですか?」
「ええっと……どうして?」 
「おじいちゃんの目が悪いから、ここの水を汲みに来たんです。もしインチキだったら、がっかりするかなって思って」
 千尋が返答に困るのも無理はなかった。そのご利益で絶対に目が見えるようになるとも、決してそうはならないとも言い切ることはできないのだから。するとペットボトルに湧き水を汲んでいた母親が、くるりと振り返っていきなり息子を叱った。
「こら。インチキとか、そんな罰当たりなこと言ったらだめでしょ。せっかく山の神さまからお水を分けてもらったのに。──すみません、本当に失礼な子で」
「いえ、あの」
 思わぬ謝罪にしどろもどろになりながら、千尋がハクを見た。ハクは水場を離れ、母親に叱られてふてくされている少年の前にしゃがんだ。利口そうな顔をした子だった。この少年にしてみれば、決して悪気があったわけではなく、ただ率直な疑問を口にしただけなのだろう。
「神さまは、全ての願い事を叶えることはできないんだよ」
 少年のひたいに二本の指をあてて、ハクはその心の深淵に語りかけた。
「でも、山の神さまはそなたのことを見ているよ。──おじいさんのことをとても大切に思っているんだね。優しい子だ。おじいさんの心が少しでも晴れるように、私があの水にまじないをかけてあげる」
 少年はおそらく自分でもそうと知らないうちに、小さく頷いた。そして母親に駆け寄ると、その腕にしがみつき、出口の方へぐいぐいと引っ張っていこうとする。
「ねえ、早く帰ろうよ。それ持って、おじいちゃんに会いにいきたい」
「何? こんな水、インチキだって言ってたくせに」
「"病は気から"って言うんでしょ? きれいな水でおじいちゃんが元気になるかもしれないじゃん。だから行こうよ、早く」
「もう、せっかちなんだから」
 叱った時とは見違えるほど優しい顔つきになって、母親が千尋に会釈した。千尋も呆気にとられつつ挨拶を返した。親子は仲良く連れ立って、洞窟の出口へ歩いていく。二つの後ろ姿が見えなくなるや、千尋はようやく呼吸することを思い出したかのように、水場のふちに手を置いて大きく息をついた。
「ハク。わたしもこの水、飲んでもいい? 緊張したのかな、すごく喉が乾いちゃった」
「もちろん。さあ」
 彼女は両手に湧き水を受けとめ、手首と手首のあいだに唇をよせてそれをゆっくりと飲み干した。今度は心地よさげな吐息がこぼれる。
「山の水って、冷たくておいしいね」
「お飲み。きれいな水を飲むと、心が落ち着くから」
 千尋は安堵の笑顔で頷いた。

 昼時を迎え、二人は洞窟の外に出た。この世界で彼に与えられた半日という時間のうち、早くも半分が過ぎたところだった。ハクにとって、千尋以外の人間をこれほど間近に見るのは久々のことだ。湧き水の流れを助け、人間の少年の心に触れたことを思うと、彼は忘れかけていた神性が、自分の中で再び呼び覚まされる時を待っているような気がした。
 千尋のためにと白米を握ってきたら、向こうもまったく同じものをハクのためにこしらえていた。早起きをしてまで自分を思って作ってくれた、その真心がハクにとっては何よりも嬉しかった。
 日差しをちょうどいい具合に遮ってくれる木陰を見つけ、肩をならべて同じものを食べる。
 何を口に入れても味がなく、惰性で食事していたひところが嘘のように、一口食べるごとに心満たされ、力が[[rb:渾々 > こんこん]]と湧いてくるのが分かった。
「山の神さま、どこで何してるのかなあ」
「どうだろうね。できるだけ遠くに行ってみたい、と言われたよ」
「日帰り旅行ってこと? そっか、神さまもそういう息抜きするんだ」
 千尋は最後のおにぎりを手にとり、まるで友達の休日の予定を想像するかのような調子で言った。
「神さまだっておなかは空くよね。今頃、どこかでご当地グルメとか食べてたりして」
「うん。人間が好むことは、神さまも好きなはずだから」
「ハクも好き?」
「千尋が好きなことは、何でも」
 洞窟へ戻る時、空にたなびく雲が捌けて、ほの白い月が浮かんでいるのを千尋が見つけた。今夜満月を迎える月は、ふっくらと丸みを帯びていながらも、うっすらとしてどこか眠たげだ。ハクは千尋に問いかけてみる。
「この山の主がどうして"めのさま"という名で呼ばれるのか、分かる?」
「ううん。どうして?」
「中に入れば分かるかもしれないよ。さあ」
 ちょうど洞窟の中から人が出てきた。入れ違いに入口をくぐり、奥へ進んでいく。誰もいない水場には、山の湧き水のしたたる音がこだましていた。
「ほら、あの穴を見てごらん」
 ハクは千尋の背に触れ、アーモンド形に開いた天井の穴を指さした。ちょうどその穴の中に、白い月がおさまっているのが見えた。千尋はあっと驚きの声をあげ、もっとよく見ようとつま先立ちになった。
「目になってる!」
「そう。目は"めめ"、月は"のの"だから、かけ合わせて"めのさま"になったんだよ。きっと」
 岩穴は目の輪郭で、その中にはめこまれた月は瞳と見立てることができる。遠い昔に誰かがこれを見つけ、その「目」から湧き出る水を、眼病治癒の妙薬とうたったのだろう。
「大きな目。神さまが見てるみたい」
 千尋は立ち位置を変えてみたりして、月の瞳が岩穴の目の中を動くのを楽しんだ。あまり熱心に見上げていたので、天井から落ちてきた砂か何かが自分の目の中に入ってしまったらしい。しきりに片目をしばしばさせているのを、ハクは水で洗い流すようにすすめた。
「目の中がちくちくする」
 そう言って千尋は湧き水を手にすくい、片目にあてがった。しかしそれが目に染みたらしく、片手で目をおさえたまま座り込んでしまう。
「なんだろう。ものもらいかな?」
「湧き水が冷たいから、染みたのかもしれないね。見せてごらん」
 安心させるように、ハクは千尋の手を目の上からどかせた。彼にうながされ、千尋は閉じていた目をゆっくりと開いてみせる。その目のふちから、透明の水が湧いて頬の上をひとすじ流れ落ちた。一瞬、水の中にきらりと光るものを見つけ、ハクがあっと思う間にそれは千尋の手の上にしたたり落ちた。
「目の中に何か入ってたみたい。もうちくちくしない」
 千尋は不思議そうに自分の手のひらを見つめる。それは何かの小さなかけらのようだった。ハクが触れようとすると、そのかけらは水が土に浸透するように、千尋の手のひらに吸い込まれ、跡形もなく消えてしまう。少し気にかかったものの、当の千尋がけろりとしているので、ハクはあまり追究して不安をかき立てるのもよくないと思い、それ以上詮索することはしなかった。

 昼下がりにも人は洞窟を訪れた。ハクは湧き水につきそい、千尋は訪れた人間が水を汲む手伝いをした。「めのさま」という山神の通り名の由来を教えたりもした。空が暮れなずんでいくにつれて、岩穴の目の色もまた移り変わっていく。月の瞳はその輝きを増していく。
 ある時を境に人の足がぱたりと途絶えた。千尋は早起きだったので、ハクの肩に頭を預けてうつらうつらとしている。──不意に背後から一陣の風が吹いた。ハクが頭だけで振り向くと、そこにはこの山の主がたたずんでいる。留守番の役目はこれで終わった。彼と会釈をかわした後、山神はのっそりと神体の石の中に入っていった。千尋の手できれいに拭かれた石は、一度かすかに揺れ動いたが、すぐにまた不動の静けさをとりもどす。
「千尋。そろそろ帰ろうか」
 起こされた千尋は目をしばたたかせ、神体の石を見上げた。
「山の神さま、もう帰ってきたの?」
「うん。向こうへの入口を開いてくださったよ」
 ハクが指さしたのは洞窟の出口で、その奥からかすかに街のにぎわいが聞こえてくる。こちらからあちらの世界への入口は、どうやら無数に存在するらしい。
「お邪魔しました、めのさま。きれいなお水をありがとうございました」
 千尋は神体に向かってぺこりと頭を下げた。すると洞窟の天井から一滴の水がしたたり落ちて、そのうなじにぴちゃりと降りかかった。
「ぎゃあっ!」
 と大げさな反応を見せる千尋に、ハクはなだめるように言い添える。
「めのさまがね、ご神体をきれいにしてくれてありがとう、と礼を言っているんだよ」
「そうなの?」
 安堵の色が千尋の顔ににじんだ。すると山の神が悪戯心を起こしたのか、その頭の上にまたも山の水がしたたり落ちてきて、洞窟の中に千尋の声をこだまさせた。




Boule de Neige