X 劇場
 この世界に彼が戻ってきた。夢でも幻でもなく、数日前に起きたばかりの出来事だ。ほんの半日という短い時間であっても、千尋にとってそれは何よりも輝かしい体験だった。
「元の世界に私も戻るよ」
 子供の頃の約束を、ハクは一途に果たそうとしている。今は一日と同じ場所で同じ時を過ごすことのできない身の上でも、いずれきっと彼の前に道は開かれるだろう。その日を思うたび、千尋の心は天にも昇るようだった。毎日が美しく花開いていた。
 彼女の人生が充実していることに、母親の悠子はいち早く気付いていた。最近何か嬉しいことでもあるの、と聞かれると、千尋は屈託なく笑って頷いた。高校生の娘の事情を根掘り葉掘り聞きだそうとするほど無粋な親ではないので、悠子は、そう、よかったねと千尋の頭を撫でるにとどめる。この街に引っ越してきた当初は田舎暮らしが気に入らずにぴりぴりしていた母親も、段々と土地の水が合うようになってきたらしい。千尋も成長した今では、女友達のように打ち明け話ができた。
 家族団欒のひと時も大切なので、千尋は夕食の時間までには必ず帰宅するようにしていた。トンネルの向こうは朝だったり夜だったりと定まらないが、こちらへ帰ってくる時間はいつもだいたい同じだった。両親の顔や、家族でかこむ食卓を思い浮かべてトンネルをくぐるからなのかもしれない。


 今日も森の奥で音楽時計が鳴る。トンネルをくぐった先に、電車や船を待つ神々がひしめいている。ハクは塔の上から下りてくると、いつものように千尋の手を引いて時計台の外へ連れ出した。
「今日は、店に珍しい客が来ているんだよ」
 笑う彼の向こうに、ネオンを映した夜の川がきらめいている。船着き場には何艘かの船が停泊し、荷揚げの人足たちが大小さまざまなハトロン紙包みやかめなどを積み下ろしていた。向こう岸から届いた荷物もあれば、こちらの岸から渡す荷物もある。
 ハクの喫茶店にはすでに明かりがともっていた。月の満ち欠けを描いた色ガラスの戸が、地面に青や金の光を投げかけている。店番もいないのに開けておくのは不用心だなと千尋が思っていると、その戸が勢いよく開いた。中から顔をのぞかせた客が、その大きな目の中に千尋をみとめるや、大口を開けて街中に響き渡るような声で呼びかけてくる。
「セーーーン!!」
 懐かしい顔、懐かしいその名。千尋が呼び返そうとする間にも、かつての姉貴分は風のように突進してきて、千尋を強く強く抱きすくめた。
「セーン! 本っ当におまえなのか? あのチビだった千だよな? こんなにでっかくなっちまって、背なんかもうオレと変わんねえじゃん!」
「──リンさん、苦しいよ!」
 千尋は顔をくしゃくしゃにして笑った。二人で水辺の蛙のようにぴょんぴょん飛び跳ねながら、再会の喜びを分かち合う。
「今日オレ、非番だからさ。千に会いにきたんだ」
「どうしてわたしがここにいるって分かったの?」
「こいつから聞いたに決まってんだろ、こいつ! 他に誰がいるっていうんだよ?」
 にやにやしながら、親指でかつての上司を指すリン。ハクは千尋の視線を受けて微笑んだ。
「今でも時々、湯屋に行くことがあるからね。千尋はリンと仲が良かっただろう? だから話しておこうと思ったんだ」
「報告が遅えんだよ!」
 リンは肘の先でハクの脇腹を思い切り突こうとした。それを察したハクがさりげなく身をかわしたので、不発に終わったが。
「おまえらのこと、みんな気にしてたんだぜ? あんなふうにいなくなるからさ。まさかとっくに再会して、こんなところで二人でしっぽりよろしくやってたとはなあ。ん?」
 頬を指の先でぐいぐい押され、千尋は真っ赤になった。やましいことも恥ずかしがるようなことも何もないはずなのに、姉貴分が自分たちで何を想像していたかが分かってしまったからだった。
「おっ、なんだその顔! ハク、おまえも案外隅に置けねえな?」
「リン、コーヒーが冷めないうちに中へ入ろう。千尋もゆっくり座って話がしたいだろうから」
 ハクは苦笑しつつ、立ち話もなんだからともう片方のガラス戸を開けた。

 千尋が元の世界へ帰っていった後も、あの湯屋は変わらず八百万の神々を迎え入れているという。その日々は、一見すると彼女が来る以前からのくり返しのようだが、よくよく目を凝らせば働き手の中にささいな変化はあった。
 まず、湯婆婆の弟子だったハクが去った。湯婆婆の一人息子である坊は、毎日塔の上から下りてくるようになった。湯婆婆自身も息子を案じて、しばしば階下へ顔を出すようになる。ハクという上役を失った従業員たちは、初めのうちこそ右往左往で、たびたび湯婆婆の叱責を受けたらしい。が、しだいに仕事の配分を工夫することを覚えて業務に支障の出ないようにした。いったん軌道に乗ってしまえば、後は順調に回っていくものだ。近頃などはあの鉄の魔女をして、週に一度は、
「今日は"一本"つけるからね」
 と言わしめるほどの繁盛ぶりだという。
「オレはなぜか坊の子守りを押し付けられてさ。たまったもんじゃないよ、あんなわがままなガキの遊び相手なんて」
 リンがカウンターに頬杖をついて、くすくすと笑った。言葉とは裏腹に、その口調はやさしげだ。
「本当は、別のやつがいいって駄々こねてたけどな。薄情な誰かさんがあっさり辞めちまったから、あたいにお鉢が回ってきたってわけ」
 カウンターの奥で、ハクが背を向けたまま肩をすくめた。彼女の面倒見のよさを知る千尋は、湯婆婆が大事な箱入り息子の子守りをこの姉貴分にまかせたことが、ごく自然なことと思えた。
「坊は元気にしてる? 釜爺は?」
「じいさんもガキも、元気すぎるくらい元気だな。毎日、ボイラー室に集まっておまえらのことを話してるよ」
 千尋の脳裏に懐かしいボイラー室の様子が思い起こされた。蒸されるような熱気、ススワタリたちが運ぶ石炭のつややかさ、さまざまな薬草のにおい、釜爺が回している車輪の回転音。リンは内緒話のように、笑いまじりに千尋の耳元へささやきかけてくる。
「坊のやつ、ガキのくせにあの図体だろ? ボイラー室のくぐり戸が抜けられないからさ、湯婆婆にせがんで、魔法でネズミに変えてもらうんだぜ」
「そうなの? あんなに小さくなっちゃったら、いなくなった時に見つけるの大変だね」
「そうなんだよ! 本物のネズミみたいにチョロチョロ動き回るから、こっちはつかまえるのも一苦労だ。釜爺なんかは、子供は好奇心旺盛でせわしないくらいが一番いいんだって言ってるけどな。他人事だと思って、のんきなもんだよ」
 ああそういえば、と、リンは何か思い出したように水干の懐に手を差し入れた。
「これ、じいさんが千とハクに渡しとけってさ」
「──釜爺が?」
 カップを洗っていたハクが振り返った。リンはカウンターの上に「観賞券」と書かれた二枚の細い紙を置く。千尋も椅子から身を乗り出してまじまじと見つめた。
「リンさん、これ何のチケット?」
「劇場のチケットだよ。ちゃんと二人分な。釜爺のやつ、古株だけあって色んなところに顔が利くんだよ。劇場にも伝手があって、こっそり手に入れたんだって」
 リンは千尋の顔をのぞきこみ、意味ありげな含み笑いを見せる。
「最近、はやりの演目があってさ。湯屋でも結構話題なんだぜ。ハクはこういうの疎そうだから、知らないだろうけどな」
「ああ。劇場に行く機会がなかったし、そもそも行こうと思ったこともなかったよ」
 指摘は当たっていたようで、ハクは素直にリンの言ったことを認めた。珍しそうにチケットを見ている二人のかたわらで、したり顔のリンが両手をたたく。
「だったらおあつらえむきだな。よしっ! せっかくここにチケットがあるんだ。今から二人で観劇してこい!」
「──えっ?」
 千尋もハクも、きょとんとしてその顔を見た。思い立ったが吉日とばかりに、リンは「ほらほら」とカウンターから出てくるようハクを急かす。
「いや、今日はもう店を開けてしまったんだ。また今度の機会に」
 やんわりと断りを入れるハクだが、なおもリンは食い下がる。
「相変わらずくそ真面目だなー。いいから、店番なんかオレにまかせとけって!」
「それはありがたいが……、千尋もあまり長居はできないんだ」
「そんな長い芝居でもないって。なっ、千も気になるだろ? すげえ人気の演目なんだぜ?」
 突然水を向けられた千尋は、その勢いに気圧されながら、うんうんと頷くしかなかった。
「ほらな!」
 と水を得た魚の勢いで、リンはとうとう渋っていた店主をこちら側へ引っ張り出してしまう。そしてまだ何か言おうとしている彼の手になかば強引に二枚のチケットを握らせ、千尋共々ぐいぐいと店の外へ押していった。
「じゃーな、楽しんでこいよ!」
 笑顔満面のリンの鼻先で、ぴしゃりとガラス戸が閉められた。
 問答無用で自分の店から締め出されたハクは、やれやれという表情で千尋を見る。千尋が小さく噴き出したので、彼もたまらずに目をくしゃりとさせた。
「せっかくの機会だし、行ってみようか。劇場へ」
「うん。リンさんがあんなにすすめてくるから、どんなお芝居なのか気になってきちゃった」

 そうと決まれば話は早い。開演に間に合うよう、二人はつい先程歩いてきたばかりの港街の大通りを小走りに戻っていった。時計台を通り過ぎ、横へ折れるとまた別のネオン街が現れる。その中に「劇場」というサインを見つけることはたやすかった。場外には待機客が列をなし、出入口に立てられた「好評上寅中」の幟が風にハタハタとひるがえっている。なぜか「上演」のさんずいが抜け落ちているのを千尋は見つけてしまい、入場を待つあいだずっと、足りないものを書き足してしまいたいような思いに駆られていた。
 開場の合図がかかる。待ちかねた客の列は規律を失って、大波のようにエントランスへ押し寄せた。ハクは千尋を見失わないよう、彼女の肩を抱いてかばいながらその波の中を進んでいく。周囲が騒がしいので、千尋は自分の心臓の音が聞こえないことを幸いに思った。
 劇場の支配人らしき黒服の影男が、ハクの差し出した二人分のチケットを慣れた様子で切った。それらを返してよこす時、連れ立つ二人を見て、白手袋をはめたその手がしばし動きを止めたようだった。千尋は不思議に思ったけれど、ハクが彼女の手をとって会場の扉へいざなうので、意識はすぐに白い手袋から優しいその手へと移っていった。
「どこに座ろうか? 二つ並びの席がまだ残っているといいけど」
 ハクは千尋の手を引いたまま、薄暗い会場の通路を進んでいく。客席はすでに八割方埋まっている。舞台にあまり近すぎる席は、劇の全体が見えなくなる、などと注文をつけている場合ではなかった。離れ離れに座ったり、立ち見になったりせずに済むようにと、二人は目についた空席になだれこむように腰を落ち着ける。それは「劇場」と刺繍された赤い緞帳どんちょうの目の前の席だった。
 席を確保して安心したらしいハクが、小さく息をつく。
「近いね。首が痛くならない?」
「大丈夫だよ。映画館でも、たまにこういう席に座る時があるから」
 千尋は座席に首をもたせかけて、重厚感ある緞帳を見上げた。プログラムもパンフレットも手元にないので、これからその舞台上で何を見せられようとしているのか、皆目見当がつかない。
「どんな演目を演るんだろうね」
 それは隣のハクにしても同じことだった。彼もまた座席に深く腰掛け、何か目印になるものがないかとその瞳をめぐらすが、場内に目ぼしいものは見当たらない。この街の常で劇場の観客もまた千差万別、幕が上がる前の客席は、さざなみのようなざわめきにつつまれている。千尋は後ろからトントンと肩をたたかれ、折角確保した席の移動を求められたらどうしよう、と心配しながら振り返った。
 その心配が杞憂に過ぎないことはすぐに察せられた。二人の後ろの席にその白い巨体をうずめている大根の神は、二つの目を三日月のように細くして笑っている。赤い盃を伏せて頭にかぶせたものを、帽子のように少し持ち上げて会釈してきた。千尋もはじけんばかりの笑顔で頭を下げ、
「あの時はありがとうございました」
 声に振り向いたハクも目を見張った。顔なじみの観客は彼に視線をうつし、うんうんと頷きかけてくる。そして、善いことをした子供を褒めるような調子でハクの頭に触れた。彼が戸惑いながらもどこか気恥ずかしげなのを、千尋は珍しく思いながら見つめていた。
 やがて開幕のブザーが鳴った。場内の明かりは徐々に落とされ、客席の話し声もひそめられていく。どこかで小さな鈴の音が鳴り始めた。神社の賽銭箱に吊るされている鈴を鳴らすほど大きくはなく、かといって猫の首につけられる鈴ほど小さな音色でもない。風鈴のように涼しげで、今にも消え入るような、それでいて途切れることなく空気に乗って流れてくるその響き。千尋がそれに耳を傾けているうちに、するすると緞帳は上がっていき、舞台上の様子が観客の眼前にあらわになった。
 幕開けとともに、劇場は水を打ったような静けさに包まれる。

 まず千尋の目に留まったのは、いつかどこかで見たような、それでいてひどく異郷めいた街並みを描いた背景幕。ハリボテでつくられた建物や看板は、風雨にさらされてくすんだような色味をしている。舞台上にしか存在しないその架空の街には、白い煙がゆったりとたちこめていた。ドライアイスなのか本物の霧なのか、千尋には判断がつかない。その煙が客席の二人の足元にまで流れ落ちてきたので、千尋はハクと顔を見合わせた。早朝の霧の中にいるように、少し肌寒いような気がした。するとハクは首に巻いていた青い襟巻をはずし、千尋の肩にそっとかけてくれた。ぬくもりの残る襟巻をかき合わせて、千尋はひそかな喜びに微笑んだ。
 舞台袖から一人の役者が姿を現した。黄色い浴衣姿の娘役で、顔を白い紙の面で覆い隠している。少女は何かを探すように、きょろきょろしながら霧の中を歩いていく。
 古びた建築、そびえるガス灯、浴衣姿で散歩する神々。全てがもうもうと立ち昇る煙にかすみ、千尋を夢見心地にさせる。少女はふと、つきあたりに見える人気のない横道を折れてみようという気になったらしい。
 紗幕が下りてきて、場面は細い路地へと移り変わった。
 鈴の音がわずかに大きくなる。人が一人通るばかりの細い路地に、少女の下駄の音がからんころんと鳴り響く。誰かが振る鈴の音色も、それに共鳴するように、しゃりんしゃらんと節を合わせてくる。客席に背を向けた少女は踊るような足取りで、長い道を先へ先へと進んでいく演技をする。やがて行く手に白い光が見えてきた。背景幕の裏側からライトを当てているらしい。あたかも後ろからの追い風に背中を押されるかのように、少女はよろめきながらその光の中へ飛び込んでいく。
 路地を抜けた先には、似たような古い街並みが続いていた。大小さまざまな影が、障子紙にうつしとった墨絵のようにひしめいている。店の売り子や荷揚げの人足の中にそういう影男や影女たちの姿を見かけていた千尋だが、彼らが舞台役者までこなしているとは思いもよらなかった。それらの影の中心から、あの涼しげな鈴の音色が聞こえてくる。影の垣根の向こうに、ひらひらと白いものが漂うのが見える。少女は寄り集まった影と押し競まんじゅうしながら、少しずつ音の出所に近づいていった。
 影の最前列へ躍り出ると、そこには色の剥げかけた欄干をめぐらせた、小さな舞台が設けられていた。舞台の上にまた別の舞台。見ている千尋は、現実と空想の境がどんどん曖昧になっていくような気がしている。そこに実体を持つ新たな役者の姿を見出すことができた。青年役らしいその役者は、白い衣をまとい、水色の袴の裾から白い裸足をのぞかせている。奇妙なほどの類似性に、千尋は思わず隣を見てしまうが、当の本人は瞬きもせずにじっと舞台に見入っている。青年役の顔は白紙の面に覆い隠されて見えないが、その片手には銀色の鈴が握られていた。
 青年は、少女から見て右手を向いていた。舞台上に立ってはいるものの、踊ったり、歌い出したりする気配はない。ただ直立のまま、手にした鈴を絶え間なく鳴らすばかりだ。そしてその若者は、時折、空に向かって白く細長い布を投げる。それはさながら、一匹の白蛇が天に昇る姿のようだった。
 その白い布が、舞台袖からの風に吹かれて、ひらひらと少女の頭の上に落ちてきた。少女がそれに触れると、確かにその手でつかんだはずが、瞬時にして白い花びらのように散っていく。どのような仕掛けなのか千尋は気になったけれど、それが自分の住む世界の舞台ではないことを思い出して、疑問に思うことをやめた。
 少女がふと顔を上げてみれば、青年の紙の面が微動だにせず彼女を見つめている。鈴の音色は、いつの間にかやんでいた。
 少女はゆっくりと舞台に近づいていく。若者は草花が太陽の光を求めるように、少女に合わせて身体の向きを変えていく。凍り付いたようだった裸足をうごかして舞台の縁まで歩み寄ると、緑の欄干の上からそっと両手を差し伸べた。前屈みになったその青年の顔の上で、紙の面がはらりとめくれ、一瞬、白い顎の輪郭が見えた。
 少女はつま先立ちになって、差し出されたその手に触れた。二人の指が絡んだ瞬間、青年は小さく何かを言いながら、少女の身体を軽々と舞台へ引き上げた。千尋が息をすくませる間に、少女は欄干の柱に立たされていた。若者はその腰を支えたまま、まるで立像を仰ぐような感嘆に満ちた様子で、少女を見上げている。
 青年はまた何かを言ったようだったが、千尋の耳には聞き取ることができない。その役者の話す言葉は、千尋の知らない言語のように聞こえるのだった。たとえるならば、水の泡が弾けるような音に似ていた。
 少女役は前屈みになり、その紙の面の口と思われる場所に耳を近づけている。青年は少女の腰をひしと抱きしめている。二人は親密に顔を寄せ、紙の面の唇と唇を重ね合わせようとした。
 ──不意に後ろから伸びてきた、大根の固い手に両目をおおいかくされ、千尋はその情感高まる場面を目撃することはかなわなかった。キスシーンから遠ざけられなければならないような年齢でもないのに、と千尋は内心思わないでもなかった。だが同時に、見なければ見ないでよかったのかもしれないとも感じられた。今ですら、隣のハクの顔がまともに見られそうもないのだから。
 少女の手に、青年は自分の鈴を握らせた。二人の手で小さく振るっている。清らかなその音色を聞いているうち、千尋は不思議な懐かしさに心震えるのがわかった。
 ふと、肘掛けに置かれた彼女の手にハクが自分の手を重ねてきた。驚いた千尋は隣を見た。彼はじっと舞台を見つめている。千尋の視線はつい、ちらちらと舞台とその手とを行き来してしまう。
 舞台上の街に雨が降ってきた。霧のように細かい雨。街並みはけぶり、ひしめく影の姿も見えなくなる。雨の中に残された恋人たちは、ひしと抱き合う。その紙の面に雨が降りかかる。白紙の上に染みが点々と広がっていく。千尋はその青年の素顔を見たいと思った。舞台の少女も同じ願望にとりつかれたのだろう。薄墨のにじんだような相手の面に手を伸ばす。しかし青年は、それを取り払われることを恐れるように、白い袖で顔を隠してしまう。
 思わぬ拒絶を受け、少女は後ずさった。
 瞬時にして夢からさめたような様子だった。帰り道を求めてか、少女は後ろを振り向きかける。すると袖で顔を隠したまま、青年がその手首をつかむ。驚いた少女は手にしていた鈴を落としてしまう。若者はわなわなと首を横へ振る。聞き取れない声が訴えかけている。去ろうとする人を必死に引き留めているのがわかる。
 雨脚はますます強まっていく。客席の千尋の頬にもしずくが降りかかってくる。白い煙の中に無数の落とし穴のような水たまりがゆらめく。濡れてちぎれた青年と少女の紙の面が、二人の足元にビチャリと落ちた。面が外れて思い切りがついたのか、若者は、顔を覆い隠していた袖を、静かに下ろす。
 その顔には、目というものがなかった。眉も、鼻も、口もない。白面の、のっぺらぼうがそこにいる。あらわになったあどけない顔に、恐怖をありありと浮かべる少女。それにつられて千尋も思わず悲鳴をあげそうになり、ハクの肩口に顔をうずめた。
 冷たい空気が彼女の脚を撫ぜる。おそるおそる片目だけ出してみると、舞台には白い煙がもうもうと立ち昇っている。青年はいつの間にか姿を消していた。代わりに、明け方の湖畔のような霧の中に、顔のない白い大蛇がうごめくのが見える。我を失った大蛇は荒れ狂い、空から大雨を降らせた。ハリボテの街は霧の中にくずれ落ち、影の群れは逃げまどい、少女は白蛇にからめとられて湖の底へと連れ去られていく。
 ──青い紗幕の向こうで展開する湖の場面は、時に千尋の頬を赤くさせた。背後から伸びてくるお節介な大根の手が、どれほど長くその目を覆っていても、それですべてを遮断できるわけではない。
 蛇の若者は、さまざまな手を尽くして少女を楽しませようとする。少女は相手に顔のないことを恐れながらも、その真心を無下にはできずにいる。少女の心は近づいては遠ざかる逃げ水のように、異相の青年をますますひきつけていく。
 ある時、恋の道に迷い、思いあまった若者は、銀の鈴を少女に手渡した。自分の想いを受け入れてくれないのならば、いっそひと思いにそれを打ち壊してくれ、と身振り手振りで懇願するのだった。すると少女は、しばらく悩んだ後、鈴を手にしてそっと立ち上がった。頭の上にそれを振りかざしたので、水底に無惨にも叩きつけられることを予感した青年は、力なくうなだれた。
 ──鈴の音が、涼やかに鳴った。
 ハクはまた、肘置きの千尋の手を握りしめている。
 二度目ともなれば、千尋も何かしらの意図を感じずにはいられない。胸を高鳴らせつつ、横目でちらとその表情を確かめてみる。優しい微笑み、心くすぐるはにかみ、甘いささやき──。
 そういったものを予感していた千尋だったが、隣にあるものは、ゆりかごの幼児のようにいともあどけない寝顔だった。
 喜劇役者よろしく、彼女は座席からずるっと滑り落ちかける。
 ──眠くなればどこででも眠る、そんなハクの言葉が思い起こされた。いつから彼の意識はめくるめく物語の世界を離れ、深い夢の滝壺へと流れ落ちていったのだろう。
 千尋の手を握ったまま、ハクは首を少し彼女の方へ傾けて熟睡している。その寝顔に千尋はひきつけられる。劇のクライマックスをその目で見届けるよりも、彼が今見ている夢の景色を心の眼で見てみたかった。

 舞台の緞帳が下り、観客は拍手喝采でその終幕をたたえた。
 周囲の喧騒に、閉じられていたハクの目蓋が小さく動く。カーテンコールの最中にようやく、まだ深い夢の底を見ているようなその瞳はぼんやりと千尋をとらえる。
「ハク、どんな夢を見てたの?」
 好奇心にかられた千尋が尋ねてみると、
「──鈴が鳴っていたよ」
 目蓋を指先でおさえながら、内緒話のようにハクはささやいた。
「私と千尋がいた。……ような気がする」
「それ、もしかして、今まで見てたお芝居の影響?」
「芝居の?」
「ほら、あの人たち、ちょっとだけわたしたちに似てたし……」
 もじもじしながら、千尋は指摘する。うぬぼれかもしれないと思わないでもなかったが、劇中、どうしても既視感のようなものを覚えずにはいられなかった。
「言われてみると、そんな気もするよ。夢だったのか、芝居だったのか──」
 その名残を求めてか、ハクはじっと緞帳の下がった舞台を見上げている。
 後ろから肩に触れられ、千尋が振り返ると、あの時の湯治客が別れの挨拶をしてきた。他の観客たちもすでに出口に向かって流れをつくっている。世話焼きな神に向かって、千尋はさようならと愛想よく手を振った。広いようで、世界はせまいと思った。二度ある出会いは、三度あるかもしれない。
「それで、劇は面白かった?」
 ハクが感想を聞いてくる。途中から彼の寝顔に心ひかれ、ほとんど舞台など観ていなかった千尋は、しどろもどろになりながら答えた。劇の内容を思い出すことに気を取られていたので、支配人が目の前にぬっと現れるまで、その影のような姿が近づいてきたことに気が付かなかった。驚いた千尋がようやく周囲の静けさに気付いて後ろを振り返ってみれば、場内はすっかり無人になっている。二人は最後の客だった。
「すみません。長居をしてしまいました」
 千尋と同じく、退出をうながされていると感じたらしいハクが、隣で座席を立ちかけた。すると支配人は、そうではないと否定するように首を振り、手ぶりで彼に握手を求めてきた。見当が外れたハクは小首を傾げながら、それに応じる。白い手袋をはめた手は存外友好的で、ぽかんと呆気にとられている千尋にも握手を求めてくる。千尋はふと、釜爺の伝手というのは、ひょっとするとこの支配人なのではないかと思った。
 支配人は、劇場の出口まで二人を見送りに来た。舞台で見た役者たちが、衣装を身に着けたままずらりとひかえている。彼らも帰っていく客を見送っていたらしい。千尋は浴衣姿の少女役を見つけ、同時にあちらも彼女を目にとめて、互いにあっと声をもらした。
「人間の女の子のお客さんだ! ──それにほら、竜もいる!」
 少女役がはしゃぎ、他の役者たちも一斉に二人の方を見た。影や異形がわらわらと寄ってたかって、千尋はまたも握手を求められる。白蛇の若者を演じたのっぺらぼうは、のっぺらぼうの仮面の下の素顔をさらけ出して、ハクと熱烈な握手を交わしていた。少女役も同輩たちを押しのけて、千尋の手を強く握りしめてくる。
「この人たちがモデルなわけね!」
 にこにこと笑いながら、相手は千尋の顔を覗き込んできた。
「ちょっとは似てる? ……うーん、あんまり似てないかも。でも、ご本人たちを前に演じるっていうのは、結構粋な話ですよねえ」
「──モデル? ご本人?」
 劇場の演者たちからこれほどの注目を浴びている理由を、千尋は悟った。劇の内容の要所要所にどこか既視感めいたものを覚えたのも納得で、やはりそれは、二人を題材に取り上げた芝居だったらしい。少女役は千尋の隣にならび、二人が似ているかどうかを朋輩たちに見比べさせた。
「うちの支配人兼監督が、向こう岸の街からネタを仕入れてきたんです。最近、うちは紋切型な芝居ばっかりで。竜と人間の恋物語なんて、なかなか新鮮でしょ? まあ、色々脚色してるみたいですけどね。お客さま方には大受けですよ。おかげさまで連日、この通りの満員御礼なんですから」
「へ、へえ、そんなにたくさん観られてるんですか……」
 自分の知らないところで、いつの間にか有名人になっていたような気分だった。そのうえ、恋物語という題目をこうもはっきりと口にされてはたまらない。
 思わずのぼせ上がって顔を覆う千尋を、役者たちがはやし立てた。元ネタを知ることで劇により現実味や深みを与えたかったのか、それとも単なる好奇心か、彼女たちは二人の関係についてさまざまなことを聞きたがった。
「ご想像にお任せしますよ」
 ハクがやんわりと理由をつけてそこから連れ出してくれなければ、千尋は夜が更けるまで、このにぎやかな劇場にとどめおかれることになっていたかもしれない。

 二人は彼の店ではなく、千尋の帰り道である時計台に向かって歩いていった。その赤い壁にハクが新たに張ったらしい張り紙を、三、四の神々や影が見ていたが、考え事をしながら通り過ぎる彼の目には留まっていないようだった。
「──あのお芝居、湯屋でも話題ってリンさんが言ってたよね?」
 水際の風に冷まされてもまだほてりをおびる頬をおさえながら、千尋は小さな声で聞いてみた。
「みんな、知ってるのかな? あれの元になったのが……」
 ハクは千尋を見、唇をふとゆるめて目の前のトンネルに視線をうつす。
「前に湯屋に行った時、やけに皆集まってくると思ったよ。しきりに千尋のことを聞いてくる者もいてね。その理由が、今日やっと分かった」
「やっぱり、みんな知ってるんだ……」
「娯楽の少ない職場だから。でも、七十五日もすれば、皆忘れているよ。きっと」
 その言葉は、今の千尋にはあまり効力をもたなかった。彼女にしてみれば、芝居の中のこととはいえ、二人が愛を語り合ったり、熱い抱擁をかわしたりする、まだ実際には彼女の身に起きてさえいない色事のあれこれを、多くの知り合いに見聞きされたようなものだ。気にするなという方が無理な話だった。
 隣のハクはじっと、取りつかれたようにトンネルの向こうを見つめている。芝居のほとんどを見過ごした彼は、千尋のような気まずさを感じてはいないらしい。むしろ、心ここにあらずの様子だ。
 千尋は借りていた襟巻を肩からはずし、そのまま返すべきか少し迷った末、えいとつま先立ちになって彼の首に巻き直してやった。
 つややかな川面の色をやどした瞳が、千尋だけを映し出す。
「──やっぱり、あの役者さん、ハクには全然似てないね」
 至近距離で見れば見るほど、そう思えた。
「あの娘役もね」
 青い襟巻に鼻先をうずめて、ハクが目を細めた。




Boule de Neige