Y 夢違神社
 千尋を見送った後も、彼はしばらくトンネルの前から動き出せずにいた。
 二度と足を踏み入れることのできない世界ならばいざ知らず、一度は通ることを許された道であるから、愛着もまたひとしおだった。その道を通って、つい今しがた帰っていったばかりのその人の顔が、もう懐かしく思い起こされる。ただ会えるだけで満足だと思っていたものが、日増しにそれだけでは足りなくなってきた。
「千尋……」
 ぽつりとこぼした呼びかけに応じるように、トンネルの向こうからかすかな鈴の響きが聞こえたような気がした。あの劇の最中にも、そして夢の世界でもよく似た音が鳴っていた。いっそう懐かしい思いに駆られる。
 ──ハクはほとんど考えることなしに、親の呼び声に答える子のあどけなさで、トンネルに手を伸ばしていた。
 そしてその中の空気を指先に感じた瞬間、火に触れたような熱さを覚えて、思わず後ずさりした。
 ひっこめた手を目線の高さにかかげてみると、トンネルの闇に浸した指先が、銀色に染まっている。
「……」
 握りしめた拳の中にその指を閉じ込め、彼は足早に時計台を出た。
 外はぽつぽつと小雨が降りだしていた。街の至るところで点滅する電飾看板のまぶしさに、目がくらみそうになる。さまざまな文字がひらめいては消えていく。
 喫茶店のガラス戸越しに中をのぞくと、カウンター奥でたすきをかけたリンが律儀に店番をつとめていた。戸の開く音を客が来たものと勘違いした彼女は、
「いらっしゃいませ〜!」
 と元気良く振り返るが、それが彼と知ってぎょっと目を丸くする。
「なんだよ、随分早かったじゃん」
「そう長く、店を開けてもいられないだろう」
 店内には四人の客の姿があった。ハクは三人の顔なじみにそれぞれ会釈をし、初見の一人客の席に近づいていく。バタークッキーをかじっているその客に声をかけようとして、ふとカウンターを見ると、リンがしきりに首を伸ばして外を見ている。誰を探しているかは明らかだった。もう少し早く二人で戻ってきて顔を見せてやればよかった、と今更ながら彼は思った。
「生憎、千尋はもう向こうへ帰したよ」
「ええ〜! なんだよ、もう帰しちゃったのかよ!」
 リンの落胆は大きかった。カウンターから出てきて、ぷっつりと糸が切れたように手近な席にどさりと座り込む。
「おまえって本当に分かんないやつだよな〜。あんな芝居を観た後に、よく黙って帰してやれるよ。劇場の近くに芝居茶屋なんかもあっただろ? 今日くらい、店なんかほったらかして、あいつとそのまましけ込んじゃっても良かったのにさあ」
「そうもいかない。帰りが遅くなれば、向こうの両親が心配するだろうから」
 相変わらずの明け透けな物言いに、ハクは微笑む。立場が変わっても態度に変化がないところは、彼がよく知るリンの美点のひとつだった。
「今日はありがとう。釜爺にも、礼を言っていたと伝えてほしい」
「……なんだよ、水臭いなあ。オレたちみんな、同じ釜の飯を食った仲間だろ?」
 リンは白い歯を見せて、豪快に笑った。
 ──上演中に眠ってしまって、肝心の劇はほとんど観れなかった、などと打ち明けてはこころよい友情に水を差すことになるので、真実はひとつ彼の胸にしまっておくことにする。
 臨時の店番が帰っていった途端、店の中はいつもの静けさを取り戻した。ハクは首から襟巻をとり、袖に襷をかける時に、ふと忘れていた指先を確認する。トンネルの闇に触れて銀色に染まった指は、折り曲げたりするのに支障はないものの、ちょうどその箇所だけ本物の銀のようにカチカチに固まってしまっていた。
 彼は戸棚からハーブティー用の薬草を何種類か取り出し、小鍋にぱらぱらと投入する。火にかけて香りが立ってきたものを木べらでかき混ぜながら、小さくまじないを唱えた。小鍋の中の液体はしだいに色を変えていき、最終的に薄紫色に落ち着く。うちわを扇いでよく冷ましてから、彼は玉杓子でそのうわずみをすくい、流し台の上で自分の指にそっとかけた。何度かくりかえすうちに、指先の銀色が生乾きの塗料のようにとろりと流れ落ちていくのが分かった。
 すっかり指が元通りになると、バタークッキーのおかわりを素焼きの小皿の上にのせて、ハクは先程声をかけそびれた一人客に挨拶をしにいった。
 客神は、何とはなしにぼんやりと天井を見上げていた。眠っているような、物思いにふけっているような、心ここにあらずの様子だ。店主のハクが視界に現れて話しかけると、向こうも小さく頭を下げてくる。
 雑草のように伸び放題の髪。顔は逆さ鳥居の描かれた面布におおわれ、夕焼け色の外套には無数の目が染め抜かれている。初めて見るその客は、みずからを「夢神」と名乗った。時計台の張り紙を見て来たのだという。
 ハクにとって、願ってもない来客だった。


「早く来なきゃ、置いてっちゃうよ」
 若い娘の笑い声がする。
 ハクのそばをゆるやかな風が通り過ぎていったと思った瞬間、それは黒い影となり、みるみるうちに背の高い若者の後ろ姿に形を変えていった。
「ひどいな。もうちょっとゆっくり歩いてよ」
「ごめんごめん。階段、きつかった?」
 軽快な足音がして、若者の隣に娘が駆け寄ってくる。小さな声で娘が何かをささやくと、青年はそれに気を良くしたらしい。二人は親しげに腕を組み、光の先へと吸い込まれていった。
 それがハクにとって、二度目の帰郷の幕開けだった。
 石の大鳥居から一歩先へ踏み出すと、この世界のさまざまなものが彼に向かって押し寄せてくる。山紅葉の深緑、かろやかな鳥のさえずり、水を含んだ花々のかぐわしさ、頬を撫ぜる風の優しい感触──。それらの息吹を感じながら、ハクはちらと頭上の鳥居をかえりみる。その扁額には「夢 神社」と刻まれていた。「夢」の後の一文字は、苔に覆われていて、しんにょうの部分しか読み取ることができない。
 ふと、気配を感じて振り返る。見覚えのある逆さ鳥居の図柄が、いつの間にやらそこに待ち受けていた。
「夢神さま」
 神社の主はゆっくりと頷き、外套の布地に覆われた手でハクの肩にぽんぽんと触れてきた。その仕草からは親しみが感じられ、ハクの口元に思わず淡い笑みが滲んだ。夢神は自分がつけているものと同じ面布を彼に差し出してくる。受け取ったハクは一瞬、それを目の前の相手と全く同じように身に着けるべきか迷った。が、視界を隠されては歩くことさえままならないので、両目を出すようにして仮面の布紐を後ろ頭に結ぶことにした。
 夢神の後につづいて境内を歩いていく。手水舎の水盤の前に、先程見かけた若い男女の背中が仲良く並んでいた。柄杓をとり、手を洗い清めている。
「あれ? 水、出てこないよ」
 娘の方が首を傾げた。青年はどうやら片腕を怪我しているらしく、包帯で固定されていない方の手を振って水気を飛ばしながら、
「栓が閉まってるんじゃない?」
「この竜みたいなやつ? どこ回せばいいの?」
「勝手に回さない方がいいよ。壊したらやばいだろ」
 こうしたやりとりを耳にして、ハクは水盤に近づいて行った。錆びついた竜の蛇口にそっと手を触れる。確かに水は一滴も出てきそうにない。川の流れのようにゆるやかにうねる竜の背を指の腹で撫でながら、小さな声で呪文をとなえた。
「──あっ、出てきた!」
 蛇口をのぞき込んでいた娘が、驚きの声を上げた。すでに手洗いを済ませている青年は「そっか」と、あまり関心のない様子で返す。それを恨んだらしい娘は、ふくれっ面からふと悪戯顔になった。洗ったばかりでまだ水のしたたる両手を、青年の顔に向けてぱっぱっと振ってやる。
「うわ、冷たっ」
 たまらずに、青年は自由のきく腕で顔をかばった。
「冷たいのはそっちじゃん」
「おい、神社でふざけたら罰が当たるって」
「都合良すぎ。神さまなんか信じないって言ったくせに」
 娘が笑う。青年もくしゃりと[[rb:相好 > そうごう]]をくずして、仕返しのように娘のひたいを指先ではじいた。
 若い恋人たちの戯れを見守りながら、ハクはふと、この場にはいない人を思った。今日は平日なので、学校がある千尋は彼に同道できないことをしきりに残念がっていた。けれど、同じ空の下に千尋がいるのだと思うと、ハクは不思議と彼女と遠く離れているという気がしないのだった。
 青錆に覆われた竜の蛇口から手を離す時、ふと、千尋と観劇したあの日トンネルに差し入れてしまった指先が、目に入った。銀色に染まり石になりかけていた指は、薬湯とまじないの効果ですっかり元通りになっている。──あのまま無理にでもトンネルを通り抜けようとしていれば、取り返しのつかないことになっただろうか。この手水舎の水出し竜のように、永遠に身動きのとれない存在に変えられてしまっていただろうか。
 この世界に戻る好機を得たことへの喜びが、ハクの心にいっそう強く感じられた。まだ一人では通ることのできない道。それでも地道に渡っていけば、何か糸口がつかめそうな気がする。自分の力で道を開くことができれば、もう、トンネルからああして警告されはじき出されるようなこともないだろう。
 手水舎を離れ、ハクは夢神にともなって境内の奥へと歩みを進めていった。そこには鬱蒼と生い茂る木々と苔むした石に囲まれた、深緑の池がある。池の向こう側には、小さな石の祠がもうけられていた。ハクに任された役目は、その池を留守にしている水守りの代役である。
「中に入ってもよろしいですか?」
 夢神の承諾を得て、彼は池の水に足先を浸した。守り役が不在であるせいか、その水はどこか活気がないように見える。
 ──ハクはひと思いに池に半身を沈め、頭の先まで潜ると、水中に気泡を生じさせて本来の姿を解放した。
 この世界を流れるのはいつぶりのことだろう。ハクは喜びに瞳を輝かせながら、小さな水の世界を活き活きと探検する。浅い池の底には水草が揺れ、ゆったりと泳ぐ竜の腹をいたずら好きな手のようにちらちらと撫ぜた。彼はくすぐったさに目を細めた。──水に生きる全てのものが竜の友であり、遊び相手だった。それは赤子の記憶のように懐かしい感覚だった。
 ふと、明るい水面を何かがよぎったのが、水底に映し出された影から見て取れた。ハクは水上に顔を出し、その正体を確かめる。ちょうど夢神が池を渡り、石の祠へと移動したところのようだった。その姿は小さな祠の中に吸い込まれていったかと思うと、ほどなくしてまたのんびりと外へ出てくる。その手は一本の古い釣り竿をたずさえていた。どっこいしょ、と声が聞こえてきそうな緩慢な動作で、夢神は祠の前に台座のように置かれた苔石の上に腰かける。
「──こっち、こっち」
 またしても、あの娘の声が聞こえてきた。砂利を踏みしめる二人分の足音が近づいてくる。娘は若者の手を引いて池の前まで連れてきた。
「ここに悪い夢を流すんだって」
「おまじない的なやつ?」
「うん。昔怖い夢を見た時に、ママが連れてきてくれたの。本当に効いたんだよ」
 二人は竜の宿る池の水際にしゃがんだ。肩を寄せながら、互いが手にする紙きれを見せ合おうとする。娘の方は躊躇なく渡したが、青年は手の内に握りしめたまま、しばらく渋っていた。
「やっぱりやめようかな。こんなの、神頼みしたからってどうにかなるものじゃないし」
「なんで? いやな夢を、いい夢に変えてくれるかもしれないんだよ?」
「別に夢見が悪いからって、どうってことないよ。夢はただの夢だし……」
「強がり。結構落ち込んでるくせに」
 ぼそりと娘がぼやく。図星を突かれたのか、相手はぐうの音も出ない。
「いやだってさ、さすがに縁起悪いだろ。こんな怪我はするし、仕事でミスはするし、毎日にように変な夢まで見るしさ……」
「だからここに連れてきたんじゃん。ちょっとでも気分転換して、元気になってほしくて」
 娘は明るく笑って、青年の背中をたたいた。女々しい弱音を吐いたことを恥じたのか、青年はおもてを伏せていたが、その快活さに救われたように上目遣いで相手を見た。
「紙が水の中に沈んだら、次はいい夢が見られるっていうお告げなんだって」
「へー…。じゃ、沈まなかったらどうするの?」
「その時は、私がいっぱい慰めてあげる」
 娘に抱きつかれ、なんだよそれ、と若者がはにかんだ。心の不安を打ち明けることができたおかげか、その顔は先程よりも生気がみなぎっているように見えた。娘にうながされ、青年は思い切ったように、手にしていた二人分の紙きれを池の水に浮かべる。
 ──ハクは石の祠を振り返った。石の上に座った夢神が、池に釣り糸を垂らしている。それを見た彼は水中で長い竜身をおどらせ、ゆるやかな水の渦を生んだ。若者たちの「悪夢」は、その渦にまかれて池の中へとのみこまれていく。
「あっ……沈んだ」
「ね? 言ったじゃん」
 娘の笑顔に、青年の口元もほろこんだ。
「なんか、すっきりした」
「本当?」
「うん。いやなものが、流れていったみたいな気がする」
 夢神は釣り竿をゆっくりと引き上げた。糸の先の針に、魚の形に折られた二枚の紙きれが引っかかっている。どうするのか興味の湧いたハクが水面から顔を出したまま見つめる中、夢神は釣り糸を地道にたぐりよせて、釣り上げたものを目の前にぶら下げた。
 ──風が吹いて夢神の面布をはらりとめくれさせた時、それらの悪夢は大きく開いた口の中にのみこまれていった。そうして夢神はしばらく口の中のものを咀嚼したのち、ゆっくりとのみ下した。かと思うとにわかにえずき、池に向かってぺっと何かを吐き出してくる。驚いたハクが近づいてみると、それはつい今しがた夢神が食べたばかりであるはずの、魚の形に折られた二枚の紙だった。しかしよく見てみれば、のみこまれたものと全く同じ紙ではないらしい。それらは本物の魚さながらの動きで水中に潜っていき、やがて水に溶けるようにしてふと消え去った。
 反対側の水際では、ちょうど若者たちが立ち上がろうとしているところだった。
「まだ何かあるの?」
「いいから、来て来て。おみくじ引かなきゃ」
 急きたてる娘に、青年は腕を引っ張られていく。ハクは水面から頭をもたげてうら若き恋人たちを見送った。二つの背中は木々に囲まれた参道の先へ消えていく。ゆるやかにうねる道の奥に、瓦屋根が突き出ているのが見えた。神籤を引くと言っていたから、社務所のような建物だろう。

 その後も、参拝客はちらほらと神社を訪れた。
 現代の人間は昔ほど迷信にとらわれないというけれど、困った時の神頼みはいつの世も変わらぬ習性らしい。悩める人々はさまざまな悪夢を紙に書いて、それらが逆夢さかゆめとなることを願い、夢神の池に流そうとした。──夢神は釣り糸を垂らす時もあれば、そうしない時もある。先日の山神があの湧き水で全ての眼病を治療することなどできないように、夢神もまたあらゆる夢を釣り上げてのみ下すわけではないのだった。
 はじめのうちは、夢神がおのれの食べる夢を[[rb:選> え]]り好みするのは、単なる気まぐれだろうとハクは思っていた。やがてそうではないことに気付かされた。
 参拝客が池に紙を浮かべる時、その顔が水面に映し出される。水底を覗く時、水底もまた彼らを覗いているのだということを、人は知っているだろうか。水は人の心を照らす。清らかな心は澄んだ水に反映され、悪心を抱いていれば水もまた濁ってしまう。濁りきった水に投げこまれた夢を、夢神は好んで口にしようとはしない。
 池を訪れる人の足がとぎれた時には、夢神は石の台座の上でうつらうつらとしていることが多かった。人間の悪夢を食べ、吉夢を吐き出すということは、ハクの想像以上に疲労をもたらす仕事なのかもしれない。そのうえ、人に逆夢を授けたのち、夢神は劇的にその姿を変化させる。蓬髪ほうはつは顔の周りをつややかに流れ、仮面の逆さ鳥居は本来の位置に戻り、深い青色に染まった外套には閉じられた無数の目が浮かび上がる。老人が百も若返ったような姿でいるあいだ、夢神は頭を深く沈めて、ゆったりと華胥かしょの国に遊んでいた。
 起きている最中は、水面から顔を出すハクに話しかけてくることもあった。これまでのみこんできた夢の数々。逆夢になりうる夢と、正夢でしかない夢との味の違い。初夢には「一富士二鷹三茄子」を見たいと望む人間の多いことなど。ハクは古老の語りにひきつけられる幼子のように、それらの話に興味深く耳を傾けた。人間は人生のうち多くの時間を夢の中で過ごすというから、よりよい夢を見たいと願うのはごく自然のことなのかもしれない。
 水守りが帰ってくるのは翌日とのことだったので、ハクは夢神の神社で夜を明かすことになった。夢神が石の祠に帰っていくのを見届け、夜風にたてがみをなびかせながら月の照る空を見上げる。
 かつて自分の川にあった頃、夜になると月の光が水面に淡く揺れていたことを思い出す。幼い彼は長い尾の中にその輪郭を巻き取るように、くるくると水面を旋回して遊んでみたりしたものだった。
 懐かしい記憶の淵に沈んでいく。
 水の中から千尋の呼ぶ声が聞こえる。どこかでかすかに鈴の音も鳴っているようだ。夢と現実は、ひとつの空の下に共存している。──朝には二人で雲の流れをたどり、夜には星の数を数える。太陽が、月が、ゆるやかにうねる川のように、ひとすじの光の道を照らし出す。二人の手と手はつながれたまま、同じ道を共に歩いていこうとする。神が見る夢は、逆夢なのか、正夢なのか、あるいは予知夢と呼ぶべきものなのか。
 淡水と海水がちょうどまじりあう境目のように、水面に映る人影がぼやけて見えた。ハクは柔らかな水草の中からゆっくりと頭をもたげ、曖昧なその姿に目を凝らす。光が水の向こうで揺れ動いたかと思うと、水中の彼に向けて、人の手が優しく差し伸べられた。彼はその手に無性に甘えたくなった。白い頬の毛並みを、つづいて長い鼻の先を、最後に心地よく閉じられた目蓋をその指にそっとすり寄せる。
 きらりと輝くものが水中に落ちてきた。ハクは薄く目を開けてその動きを追う。何かの破片のようだった。鼻先で触れようとした瞬間、それは幻のようにかき消えてしまった。彼の顔を撫でていた指も、するすると離れていく。引き上げられた手を慕い、竜はゆったりと水面に浮かび上がった。
 朝の光が、いくつかの白い柱になって木々のあいだを通り抜けている。その一柱は、彼が夢にまで見た人を柔らかく照らしていた。
「欠伸で、涙が出ちゃった」
 大きく開いた口元を手で覆い隠しながら、千尋が恥ずかしそうに笑う。
「また早起きしてきたの。こっちにいるうちに会いたくて。──おはよう、コハク」
 挨拶の代わりに、彼は濡れた舌先でぺろりとその頬を舐める。くすぐったさに彼女が身をよじった。
「ふふっ。寝ぼけてる? なんだか、いつものハクじゃないみたい」
 そういうことにしておこう、とハクは思いついた。二本の長い髭を自在に動かし、両腕で千尋を抱くように、彼女の体にするするとからませる。千尋は竜に引き寄せられ、水面をのぞきこむ格好のまま、どんどん前のめりになっていった。
「ハク、ハク、そんなに引っ張ったら落ちちゃう、あーっ!……」
 千尋がかたく目を閉じた瞬間、彼は朝日のきらめく水面から大きく頭をもたげた。竜の角が、耳が、鬣が、草花の時を巻き戻したように、水に濡れた髪の中に隠れていく。頬と頬がそっと触れ合う。水面を映した瞳の輝きはそのままに、ハクは両腕を伸ばして水に落ちてくる千尋を力強く抱きとめた。
 そのまま二人で水の底に沈んでいく。
「──夢でもうつつでも、千尋は私に会いに来てくれるんだね」
 水中で、顔につけた面布がゆらりとめくれ上がる。彼は小さな巻貝にも似たその耳に唇を寄せてささやきかけた。水の声が彼女にも聞こえるだろうか。頬を撫でると、千尋は閉じていた目を薄く開けて彼を見つけようとする。その黒目の奥から、またしても小さくきらめくものが流れ出てくる。その美しい輝きに触れようとしてハクは手を伸ばすが、指先が届きそうなところで、それは泡沫となってかき消えてしまった。

 白い太陽の光が千々になって水面に揺れる。水際にしゃがむ二人の影も、風にゆるやかに散らされて重なったり、離れたりしている。
 ふと、おしゃべりに夢中になっている千尋の足元で何かが這いずる音がした。
 ガラス玉のような目と目が出会う。
「ハク、何か落ちてるの?」
 千尋は彼が地面の一点を見つめていることに気付き、きょろきょろと自分の周りを見回した。千尋がうっかりそれを踏みつけてしまわないように、ハクは彼女の顎の下にある膝小僧にそっと手を添えて、
「蛇だよ」
「──蛇っ?」
「大丈夫、噛んだりしない。水守りの蛇だよ」
「“ミモリ”?」
「うん。水に守ると書いて、水守り」
「ふうん、変わった名前。イモリみたい……」
 目には見えないものを見定めようとして、足元に目を凝らす千尋。彼女の言葉を青蛇は面白い洒落ととったらしく、ちらちらと細い舌を出して笑ったのがハクにはわかった。
「イモリはね、友達なんだって。この池に棲んでいるそうだよ」
 湯屋の者たちが知ったら大変だ、と彼が心の中で思っていると、隣で何か思い出したらしい千尋があっと声を上げた。
「そういえば、釜爺が持ってたっけ」
「何を?」
「イモリの黒焼き……」
 気味の悪い毛虫を踏みつぶしたように、千尋と蛇が身震いした。友が炭火で丸焦げにされかねないことを案じたのだろう、蛇は逃げるように石の上を這って、池の中に深く潜っていってしまう。
 ハクが蛇の友の秘密を守ることを誓ってようやく、それは水面から再びちらりと鎌首をもたげた。
「──あの辺りにいる?」
 蛇の姿こそ見えなくても、水の動きから気配を感じることはできるらしい。千尋はしばらく水面の波紋を見つめていたが、やがてためらいがちに手を伸ばした。目には見えない存在に触れることができるかどうか、確かめようとしているのだろう。青蛇は水中でその身をうねらせながら、ゆっくりと彼女に近づいてくる。千尋の目は水面の揺らぎをとらえている。差し出されたその指先に、蛇はちろりと細い舌を突き出した。
 その舌先に、何か小さいものが光っている。水中で千尋の目からこぼれ落ちたもののようだ。ハクはもっとよくのぞきこもうとするが、彼が近付くと、それは瞬く間に千尋の指先に吸い込まれていってしまった。
「──わっ、何?」
 千尋は指先に何か異変を感じたのだろう、はじかれたように水際から後ずさる。その声に驚いた蛇は、するりと身をおどらせて再び水中へ隠れた。しなやかに泳いでいく方をたどってみれば、石の祠の前に釣り竿を手にした夢神の痩身がたたずんでいる。逆さ鳥居の面布がはらりとめくれ、その口元が微笑みを浮かべているのがハクの目に留まった。

『ゆめ は みち』

 水を渡って、抑揚のない、それでいて歌うような神の声が運ばれてくる。風を真っ向から浴びた千尋は、顔まわりの髪をなびかせながら目をしばたたいた。
「……ハク、今、何か言った?」
 彼は首を横に振る。
「千尋も、何か聞こえた?」
「うん……。風がしゃべってるみたいだった」
「夢神さまのお告げだよ」
「お告げ?」
「夢の中に、何か大切なものが隠されてるのかもしれないね。──千尋は近ごろ、どんな夢を見た?」
「夢かあ……。たくさん見てるはずなのに、起きたらあんまりよく思い出せないんだよね」
 千尋は片耳に手を当て、石の祠に向けて耳を澄ませる。風の中に声を聞こうとしているのだった。その横顔にハクの視線が向けられた。
「私もだよ」
「ハクもよく夢を見るの?」
「見るよ。長い夢も、短い夢もね」
 ゆめはみち。
 未知、三千、満ち、道。
 千尋の閉じられた目蓋に、朝日が柔らかく降りそそぐ。それを見つめながら、彼は夢神の言葉に思いを馳せていた。──何か大切なことを思い出しかけているという気がする。手を伸ばせばもうつかみ取ることができそうなほど近くに、それは浮かび上がってきているはずだ。




Boule de Neige