Z carpe diem
 今日は一段と町がにぎやかに感じられた。駅舎や目抜き通りはいつもよりずっと混雑しており、千尋ははぐれて迷子にならないように、ハクの手をしっかりと握り締めていなければならなかった。
「もしかして、今日って特別な日なの?」
 千尋がそわそわしながらたずねると、ハクは通りに面した土産物屋の黄色い壁に貼ってある、一枚のポスターを指差した。
「今夜、ここでは祭りが開かれるんだ。“うずしお祭”といってね」
「“うずしお祭”?」
 祭りという言葉に千尋は目を輝かせながら、聞いた名をくりかえす。
「それって、どんなお祭り? 何があるの?」
「来てみればわかるよ。店を開けるまでの間、ちょっと出かけてみようか」
「ハクとお祭りに? いいの? ──うれしい!」
 思いがけない誘いに、千尋の胸が高鳴った。足取りも軽やかにはしゃぐのを、満ち足りた表情で見守るハク。彼にとっては想像通りの反応だったらしい。
「トンネルで再会した日のことを覚えてる? あの時、千尋は言っていたね。こちら側から時計の音が聞こえてきて、祭りや縁日があるんじゃないかと思った、と」
「うん。本当にあったんだね、お祭り。昔のわたしに教えてあげたいなあ」
 あの町に引っ越してきた夏、小学生の千尋は幼心に、夜ごとどこかで夏祭りが開かれているのだと信じてやまなかった。両親や新しくできた友達、誰に聞いてみても、祭囃子のようなその音の正体を突き止めることはできなかったが。
 謎めいた「祭り」をその目で見てみたいという願いが、数年越しにようやく叶うとあって、千尋は待ちに待った宝箱の蓋を開けようとする子供のように、無邪気な高揚につつまれていた。うれしくて、隣のハクの腕にしがみついた。彼は肘から上は千尋の頬擦りするがままにさせておきながら、その手で彼女の耳の上をなでていた。小鳥に触れるような優しいしぐさだったが、千尋は耳元が無性にくすぐったいような気がして、頬を少し赤くしながら伏し目がちに笑っていた。
 横道へ折れていくと、くすんだ紫色の壁に蔦を這わせた花屋の前で、人だかりができていた。ひらひらと薄いものが、手から手へと配られていく。二人は順番待ちをして、渦巻きの模様が描かれた紙のお面をつけた子供から、まったく同じ仮面を二人分受け取った。ハクは千尋の手を引いて、花屋と隣の傘屋との間の細い路地に入っていく。
「千尋、後ろを向いてごらん。お面をつけてあげる」
「うん」
 千尋は仮面の下で目を閉じ、背後から聞こえてくるハクの心地よい声に耳を傾けた。
「"うずしお祭"は、仮面祭りとも言われているんだよ。こうやって、皆がお面をつけるから」
「ふうん。仮面祭り……」
 昔、縁日の屋台にならぶプラスチックのお面を買ってもらいたくて、しきりに母親にねだったことが千尋の脳裏に思い起こされた。顔を覆う仮面をちらとめくれば、往来を行き交う異形たちが皆同じ仮面をつけている。ある種異様なその光景を目の当たりにした千尋は、この不思議の町で初めて、奇妙な一体感につつまれているという気がした。
「お祭りの時にお面をつけたくなるのって、なんでだろう?」
「そうだね──」
 ハクは千尋の両肩に手を置き、耳元にそっと囁きかけてきた。
「顔を隠している間は、何者でもなくなるからじゃないかな。皆同じ顔だから、誰が誰なのかさえ分からないだろう?」
 千尋の耳たぶがほのかに色づいた。表通りから外れた裏路地には、今、彼と二人きりだった。その体温を、その息遣いをごく間近に感じる。
「……でも、お面をしてたって、ハクはハクでしょう?」
「そう思う? 本当に?」
 含みをもたせた声色が、千尋の心をますます落ち着かなくさせる。
「今の私は、千尋の知る私ではないかもしれないよ。お互い顔が見えないから、確かめようがないしね」
「顔が隠れてたって──。ハクのこと、他の誰かと間違えたりしないもん」
 彼は千尋の肩をつかんで、ゆっくりと自分の方へ向き直らせた。
「でもね。私には、千尋の知らない顔があるよ」
「──どんな顔?」
「仮面に隠れているからこそ、見えるんだよ。──だから約束してほしい。少しの間、それを外さないでいてくれると」
 うん、と千尋は頷いた。息苦しいような胸の高鳴りを感じていた。渦巻模様の奥に隠されたハクの顔を脳裏に思い浮かべようとして、目を閉じる。
 仮面越しに、彼女の唇にそっと触れてくるものを感じた。
 ──それは花びらにほんの一瞬指先がかすめただけのような、あまりにも控えめな感触だった。それでも千尋にとっては生まれて初めての瞬間だった。ふらりと後ずさりして蔦の這う壁に背中を預けた。お面の薄紙を通して、おそらく相手の顔があるだろう位置を見上げた。目ではなく、千尋はその心で彼を見つめていた。そこには確かに、たった今まで彼女が知ることのなかった顔があった。
 やがてハクは千尋の手をとり、灯りの差し込まない路地を抜けた。千尋はやや俯きがちに、それでもちらちらとお面をめくって目で彼の背中を追いながら、雑踏の中を進んでいく。心はまだあの壁際に寄りかかったままでいるかのようだった。時折指先で唇に触れてみては、あの湯屋のボイラー室で肌身に感じたような、むせ返るほどの熱気がどこからともなく襲いかかってきて、彼女の頬をますます熟れさせた。
 時計台の奏でる音色によく似た祭囃子に合わせて、あちこちで人々が飲み食いしながら歌い踊っていた。どの顔にも渦、渦、渦。町を取り巻く享楽の気配が、外から内へと螺旋をなしていた。数珠つなぎに街路に渡されている赤い提灯はその日だけは青く光り、ここにも渦巻が描かれている。
「──ねえ、ハク!」
 ようやく会話のきっかけを見出した千尋は、不自然に裏返る声でその背に呼びかけた。
「その……どうして、"うずしお祭"っていうの? 何か、意味があるのかな?」
 ハクがちらと振り返る。仮面がめくれて、かすかに見えた口元が笑っていた。
「私も人づてで聞いた話だけどね。昔、雨続きで水嵩が増してしまって、この町が海に飲まれそうになったことがあるんだ。それ以来、雨期が近づくとこうして祭りを開いて、町の無事を祈るようになったそうだよ」
「ふうん。そうだったんだ……」
 雨が降れば海ができる。この世界で千尋が学んだ「常識」のひとつだ。
「雨がまったく降らなくても、逆に降りすぎても困ってしまうね。──私の川も、きっとそうだったんだろう」
 行こうか、とハクが再び歩き出した。青い提灯に照らされたその後ろ姿を、千尋は仮面を目線の高さまでめくったまま、どこまでも追いかけていく。
 どこからか、鈴の音が聞こえてくる。
 千尋は奇妙な既視感を覚えていた。けれどその原因がいつか見た芝居の場面なのか、あるいはもっと昔どこかで目の当たりにした景色なのか──まだ定かではなかった。




Boule de Neige