[ 迷路
 貝もまた、渦を巻く形をとるもののひとつである。
 「栄螺社」の扁額を見上げた時、ハクの心にふと一抹のやましさが立ち昇ったかのように思われたのは、無理からぬことだった。
「わあ、古いお社。それに、不思議な形」
 その胸中など知る由もなく、隣の千尋はいつもの通り、無邪気な誘いを口にする。
「ねえハク、一緒に入ってみる?」
「──いや、私が先に行こう。千尋は私が出てきてから、入ってみるといいよ」
 逡巡に少しの間をおいて、やんわりとその手を押しとどめるハク。千尋はいかにも残念そうな顔をした。
「どうして? 一緒に入ったらだめ?」
「何があるかわからないから、念のためだよ」
「でも、せっかく"縁結神社"なんだもん。……ハクと入ってみたかった」
 ああ、とハクは天を仰ぐ。いくら手を出すまいと自制したところで、こうして理性を試すようなことを口にする千尋が真横にいては、決意が揺らぐのを止められそうにもない。
「まずは、縁神さまに頼まれたことをやらなくては。千尋はここにいて、誰か人が入ってこないように、見張っていてほしいんだ」
 一計を案じた彼は、千尋の使命感にうったえかけてみた。その効果は覿面で、ハクの本分を思い出したらしい彼女は、二つ返事で見張り役に徹することに同意してくれた。
「わかった。ちゃんと見張ってるね」
「うん。待っていて。すぐに戻るよ」
「何かあったら呼んでね、すぐに行くから」
 ともすれば千尋のみずみずしい唇に落ちていこうとする視線を、彼はどうにか社殿の入口へと送った。
 栄螺さざえという名の表す通り、木造の内部はゆるやかな螺旋をなしていた。回廊の中心には、二本の絡み合った杉の木の幹が、神殿の柱そのもののようにそびえている。これが縁神の神体なのだった。ゆっくりと螺旋回廊を昇りながら、ハクは「夫婦めおと杉」とも「和合杉」とも呼ばれる生々しい神体にその瞳を奪われていた。この社に千尋を連れて入らなかったことは、つくづく賢明な判断だったと思われてならなかった。
 千尋は御籤を引いて神意をたずねてみたいと言うが、ハクにしてみれば縁神に詣でるまでもないことだった。彼の心はすでに、千尋との確固たる繋がりを求めてやまないのだから。──そしてその思いは、日増しに他の何にも埋め合わせようのないほど深まってゆくばかりだった。
 年月を経てすすけた通路の壁は、古びた千社札や、まじないめいた落書きなどで埋め尽くされている。ハクは白い指先でそのひとつひとつを辿りながら、ここを訪れた人々の胸に渦巻く情念や、とめどない愛欲にじかに触れていた。そこにはもはや神や人の境などない。誰かを慕い、求めてやまない時には、誰しもが迷い人なのだと思い知らされる。
 ──千尋という迷路に足を踏み入れたが最後、どうあってもその壁に彼自身の名を刻み付けなければならない、という欲求にとりつかれてしまっている。紙と紙越しにほんの一瞬唇をかさねる程度の交わりでは、到底満足できない。
『ねえハク、一緒に入ってみる?』
 甘美な誘惑の声が、回廊の上から渦を巻いて彼のもとへ落ちてくる。いるはずのないその人の気配さえも濃密に感じられるようだ。人に近い肉体をもつことがはばかられたハクは、固く目を閉じながら、もう一つの姿へと転じた。
『一緒に入ったらだめ?』
 竜身をとってもなお、その声は悩ましい響きとなって彼の心を震わせた。彼は、彼を竜たらしめるもの、その清らかな水の気を絶やすことのないよう、内なる「炎」を鎮める努力をした。──ミイラ取りがミイラになってはいけない。目先の欲求にとらわれて、大いなる目的を見失ってはいけない。
 「縁結び」をうたうものの定めなのだろう。神体である夫婦杉の強い霊力によって、人々の情炎をかきたててやまないこの社は、これまでたびたび火事に見舞われてきたという。川の化身であった彼が縁神によってこの社へ導かれたのは、火伏せの依頼を受けたからにほかならなかった。
 帰り道を見つける手がかりは、できるだけ多くこの世界に足を運んでこそ得られるはずだ、とハクは信じてやまなかった。だが今のところ、他の神々の「神隠し」なくしてこちらへ渡ることはできない。願いを叶えるという対価を払うことが、その契約の条件である以上、うつつを抜かして立ち止まっている場合ではないのだった。
 螺旋回廊の最上階へ至ると、彼は再び青年の姿へ戻った。八角形に切り取られた木組みの天井にも、札がびっしりと貼られている。火災安全の護符らしきものもいくつか見えるが、どれも古びて剥がれかけていたり、文字が薄れて読みにくくなっていたりした。
 ハクは袂から取り出した竜の鱗を、札の代わりに柱に貼りつけた。よく見るとその柱は、神体である夫婦杉から伐り出されたものらしい。それに触れた瞬間、どこからか、子供の笑い声と足音が聞こえてきた。
 この通路は一方通行で、一度足を踏み入れれば、出口に至るまで誰ともすれ違うことのない構造になっている。──にもかかわらず、一体どこから現れたのか、二人の子供が回廊で鬼遊びをしているのだった。
「鬼さんこちら、鈴鳴る方へ」
 少年が、切髪の少女を追いかける。蝶のように、あちらへ行ったかと思えば、またこちらへ駆けてくる。ちりん、ちりん、と鈴の音を鳴らしながら。
「鬼さんこちら、鈴鳴る方へ」
 少女が、髪を束ねた少年を追いかける。風のように、あちらへ行ったかと思えば、またこちらへ駆けてくる。ちりん、ちりん、と鈴の音を鳴らしながら。
 戯れる子供たちの顔は見えない。まるで白い仮面をつけているように、その面差しは定かではなかった。けれどどういうわけか、ハクは彼らの顔を知っているような気がした。その声にも、その鈴の音にも、確かに聞き覚えがあった。
「──そなたたちは、誰だ?」
 呼びかけてみる彼だったが、どうやら少年と少女の耳には聞こえていないようだった。ただひたすら、飽きもせずに二人きりの鬼遊びに興じている。ハクはそれとよく似た光景を、どこかで見たという気がしてならなかった。ごく最近、あるいは、遥か以前に。
「私たちは、会ったことがあるはずだ。──いつか、どこかで」
 彼の心の奥底で、水の流れる音がする。

 ──どれほど道に迷おうとも、必ず出会わなければならない相手がいる。

 唐突に、御籤によって縁神の託宣を引き当てたかのごとく、ハクはそのことを理解した。理解した途端、永遠に遊び続けるかのように思われた子供たちの後ろ姿は、回廊の奥へと消えていき、その足音もふつりと途絶えてしまった。
 静寂の中、一人取り残された彼は途方に暮れるほかなかった。手がかりは得たものの、謎は深まるばかりだった。出会うべき相手とは、誰なのか。一体、どこをさがせばよいのか。出口の見えない迷路をさまよい、右も左もわからないような心もとなさを感じる。
「──ハク?」
 その時、彼が昇ってきた回廊から、気遣わしげな呼び声が聞こえてきた。
「ハク、そこにいる? あんまり遅いから、心配で来ちゃったんだけど……」
 夫婦杉の向こうからその人が顔をのぞかせた時、ハクは胸に奇妙なざわめきを覚えた。近づけば触れたくなる、触れれば必ず離しがたくなるとわかっていたが、目に見えない蔓にからめとられたように、二つの手が結ばれていくのを止めることができない。
「良かった、無事で。すぐに戻るって言ってたのに、ずっと出てこないんだもん」
 星のように輝く千尋の瞳が、何よりも近い場所にある。彼はそのきらめきが欲しくて欲しくてたまらない。
「もう夜になっちゃうよ。神社の人が来る前に、早く帰らなくちゃ」
「帰る、──どこへ?」
「えっ?」
「──私には、帰る場所などない」
 言葉には、魂が宿る。口にした瞬間、とうの昔に忘れたはずの喪失感が、その瞳を悲しみの涙でゆっくりと満たしていった。脳裏にふと浮かぶ見慣れた町の景色さえ、まるで初めからすべてが幻であったかのように、おぼろげに霞んでいく。
「私のあった場所は、もうどこにもない。存在した証は何一つとして残っていないし、誰も私を覚えてさえいない」
 あの町は、帰る場所ではなかった。枯れかけた葉がなすすべもなく川面を漂うように、ただそこへ流れ着いたというだけだ。だからどこへ行っても、満たされない。そこが自分のあるべき場所ではないと知っているから。
「人に忘れられた神は、もはや何者でもない。名もなき存在になって、世界のはざまをむなしくさまようだけ」
「……忘れられてなんかない。だって、わたしは覚えてるもん」
 震える千尋の瞳からも、涙がほろりとこぼれ落ちた。そのしずくにはまたしても、あの光る欠片が混じっているのだった。ハクは彼女の濡れた眦に、そっと唇を寄せた。自分のためだけに流れる、この世で最も小さな川を愛おしむ。
「──千尋の中には、きっと何かが隠されているね」
 彼女は鼻を小さくすする。
「……何か、って?」
「わからない。でも、多分、私になくてはならないものなんだと思う」
 粉々に砕けた何かの破片。元の形に戻すことができるなら、それは彼が進むべき道を示してくれるだろうか。
「だったら、ハクにあげるよ」
 千尋は自分の頬に、彼の手のひらをひたと押し当てた。震い付きたくなるほど、愛おしい温もりだった。
「全部、あげる。どれをあげたらいいのか、わたしにはわからないから──」
 




Boule de Neige