\ amantes amentes
「戻れなくなるよ」
 空耳かと思い最初は聞き流した千尋だったが、二度呼びかけられた時には、さすがに背筋が凍った。
 千尋が通う高校の敷地内には、不思議な石像が置かれている。手彫りで「賽」の字が刻印されたその石像は、学校が設立されるよりもずっと以前からその場所にあり、土地の守り神として言い伝えられているという。ダルマのような起き上がり小法師こぼしのような、ふっくらと丸みを帯びた体。奇妙な微笑みを浮かべているのっぺりとした顔は、見ようによっては不気味なようでもあり、愛嬌があるようでもあった。
 その石像とよく似た顔をした子供が、今、千尋の背後から声をかけてきたのだった。ひょっとすると他の誰かに話しているのかもしれないと、ある種の現実逃避に走りかけた千尋はきょろきょろと周囲を見回した。けれどまだ朝の早い時間、他に登校する生徒の姿は見当たらなかった。
「──戻れなくなる、って? それ、わたしに言ったの?」
 千尋は内緒話のように声をひそめながら、恐る恐るその子供にたずねてみる。
「うん、戻れなくなるよ。そんなに越えてしまったら」
 子供はニターッと口角を上げて笑ったまま、千尋に三度目の警告を与えた。姿かたちこそ彼女の腰の高さにさえ満たない子供だが、その言葉には動かざる巨石のような重みがあった。相手が普通の人間の子供ではないことを直感した千尋は、両脚にかすかな震えを覚えながらも、膝を折って目線の高さを合わせた。話をしなければならないと、心の声が告げていた。
「あなたは、わたしのことを知っているんだね」
 福々しい顔に微笑みをのせたまま、子供はどこか遠くを見ているような目で、千尋に向き合っている。
「知ってるよ。いつも仲間が教えてくれるから」
「仲間?」
「あれと似た石を、他の場所でも見たことがあるでしょ。みんな仲間だよ」
 子供が指差した石像は、確かに千尋にとって見覚えのあるものだった。森の中にたたずんでいる石人とよく似たものだ。仲間という言葉に、千尋は思わず身を乗り出した。
「もしかして、あなたも神様なの?」
「ずっと昔は人間だったよ。でも今は、"賽の神"とか"道祖神"って呼ばれてる」
 千尋が耳慣れない言葉を口にする調子でその名をくり返す間にも、「賽の神」の表情には一寸の変化のきざしさえ見られなかった。
「人間が向こうに越えていかないように、ここで見守ってるんだよ。向こうへ行ってしまったら、ほとんどが帰ってこれなくなるから」
「ほとんどが帰ってこれなく……」
「でも、あなたは何度も越えてるね。恋人の竜に会いに行くために」
 幼い頃のあの街での奔走を思い出し、つい表情を硬くしていた千尋だったが、「恋人」という言葉に、一瞬にして花のほころぶ気配をにじませた。
「──そんなこと、どうして知ってるの?」
「あなたはあの街にいる仲間に、名を付けたね。その子たちが、色んなことを教えてくれるんだよ」
 千尋ははじめ、相手が何を言っているのかわからなかった。けれどしばらくして、いつかあの時計台の前に広がる草原で、彼と二人、あちこちに点在する石像に名を付けるという遊びに興じたことが思い出された。二人だけの秘密のつもりが、思わぬところで見聞きされていたらしい。千尋の顔はにわかにほてりを帯び始める。
「仲間がいっぱいいるんだね。し、知らなかったなあ。──でもあなたは、ずっと昔は人間だったんだよね? なのに、どうして今は神さまなの?」
 気恥ずかしさから、千尋はあからさまに話題をそらそうとした。かわされるかと思ったが、意外にも賽の神はみずからその流れに乗ってきてくれた。
「うん。人間が望んだから、守り神になったんだよ。ちっとも珍しいことじゃないよ」
「ふうん。でも、人間が神さまになれるの?」
「なれるよ。とても簡単なことだよ」
 賽の神の声は、平穏そのものの奏でる音色のように安らかだった。

「"生贄"になればいいんだよ」

 穏やかなその声音には到底そぐわない言葉を耳にした時、千尋は胸の奥に不思議な疼きを覚えた。聞き逃してはいけない、と心の中から何かが訴えかけてくる。
 生贄。
 その言葉の表面的な意味は知っている。けれど、もっと深く理解しなければならない。息苦しくなりそうなほど、心臓が鼓動を速めているのがわかった。千尋は思わずセーラーの胸元を握りしめる。
「……あなたも、"生贄"だったの?」
 聞いてしまってから、残酷な質問だったかもしれないと後悔した。しかし賽の神は、喜怒哀楽の、最初と最後以外は何も知らないような顔のまま、こともなげに頷くのだった。
「人間だったころ、集落で"神隠し"にあう人がたくさん出たんだよ。だから村の生贄に選ばれて、境目を守る"賽の神"になった。ちっとも珍しいことじゃないよ」
 珍しいことじゃない。その口から二度聞かれた台詞を、千尋は胸の中で反芻してみる。
『見えたとしても、人に近い姿をとることもある。元々が人間だったという神さまもね』
 いつか山の神のやしろに向かう時、神々についてハクが言っていたことが、彼女の心に浮かび上がってくる。思い返してみれば、人に近い姿をとる神というのは、彼自身のことでもあるのだと気付かされる。
 ──ちりん、と鈴の音が聞こえてきた。それはどこか懐かしいような響きだった。つい気もそぞろになり、虚空へ耳を澄ませる千尋。いつどこで耳にした音色だろう。そのスカートの裾を、賽の神がくいと引く。まるでどこかへあやうげに漂っていこうとする彼女を、現実に連れ戻すかのようだった。
「あの竜は、もうこちらの住人じゃないよ」
 くさびを打ち込むかのような物言いに、千尋は両目を見開いた。
「でも、ハクだって、元々はこの世界のひとなんだよ」
「一度向こうへ根を下ろしてしまったら、もう簡単には境を越えられないよ。人間が"神隠し"されるのと同じで」
 寸分たがわぬ微笑みのまま、賽の神は彼女に言い聞かせようとする。
「もし帰り道がわからなくなったら、二人とも"霧の町"へ行くことになるよ」
「"霧の町"……?」
 聞き覚えのない地名に、千尋の瞳は不安の色を隠しきれない。
「住み家をなくした神々や人間が暮らす町だよ。"名無しの町"とも呼ばれてる」
『人に忘れられた神は、もはや何者でもない。名もなき存在になって、世界のはざまをむなしくさまようだけ』
 螺旋回廊でハクがぽつりとこぼした嘆きが、彼女の胸によみがえった。──心の水面に落とされたそのひとしずくは、幾重もの波紋をひろげて揺らぐ感情に、不思議と平静を取り戻させてくれるのだった。
 校庭へ差し込む朝日に透かしたように、賽の神の微笑みが少しずつ薄れてゆく。じきに登校する生徒たちが姿を現し始めるだろう。
「夢の通い路。恋の迷い路。あなたを慕うあの竜は、両方の道をたどっているんだね。迷いに迷って、もう"霧の町"に足を踏み入れかけてる。あなたを道連れにして」
「ハクは──。もしそうだとしても、わたしは」
 千尋は真正面から、賽の神に向き合う。
 未知の道行きを前にして、恐れを微塵も感じないと言えば嘘になる。けれどそれ以上に、彼女の心を奮い立たせ、満たしてくれる熱い想いがある。
「一緒に見つけたい。──どんなに迷っても、二人で帰ってこれる道を」
 絶対に一人にはしない。──いつか彼が、彼女の手を取ってあの街を駆けてくれたように。
 千尋の瞳にみなぎる決意を目の当たりにした賽の神は、それ以上、制止の警告を与えようとはしなかった。ただ一度頷いて、完全にその姿が消える間際、変わらぬ微笑みのまま彼女に告げた。
「入口はどこにでもある。でも、出口はたったひとつなんだよ」
 止まっていた時間が動き出す。
 一人、また一人と校門から生徒が入ってくる。挨拶をかわす声、慌ただしい足音が聞こえてくる。朝のにぎわいに背を押されるようにして、千尋は賽の神の石像の前から歩き出した。
 昼下がりの自習時間。あたたかい陽光のそそぐ窓辺の席で、つかの間の夢を見た。
 ──ちりん、と鈴の音が鳴る。鳴らしているのは、小さな子供の手だ。その指先は青空にたなびく雲の流れをたどり、夜空に散らばる無数の星を数える。
 もう一人、子供がいた。その手には、何か光るものが握りしめられている。それは青い空の青さを、星の輝きのまばゆさを照らし出す。
 子供たちはいつも一緒にいた。太陽の下でも、月の下でも、一対いっついの勾玉のようにぴたりとくっついたまま離れようとしない。互いが傍にいることで、二人の世界は満たされていた。幸せな日々が、どこまでも続くと信じて疑わなかった──。

 夢路を歩く千尋は、机に伏したままあどけなく笑っている。──笑いながら、閉じた瞳の端に、今にもこぼれそうなほどたくさんの涙を溜めていた。
 




Boule de Neige