] 霧の町
 いつ、どのようにしてその町を見つけたのか、はっきりとは思い出せない。
 魔女との間に弟子入りという名の主従契約を結び、まだ日の浅い頃だったかもしれない。命を受け、他所へ使いに出た時のことだろう。竜の姿で空を飛んでいた彼は、突如として方向感覚を失った。自分が向かっているのが、北か南か、東か西かさえわからない。
 そうしてあてどなくさまよう間に、気が付けばその町へたどり着いていたのだった。
 ──しとしとと冷たい雨の降る、霧深い町だった。朽ちかけた建物や、壊れて傾いた電飾看板などの立ち並ぶ退廃的な景観には、いかにも場末の町といった風情がある。とりわけハクの目に留まったのは、町の至るところに点在する物見塔や灯台だった。色の剥げたその壁面には、目や鼻、耳、口などの大きな浮彫が見てとれる。まるでその町に暮らす住人を監視しているかのようだ。
 町の住人たちは、奇妙な姿をしていた。ぼろきれをまとった身体を粗末な小舟に横たえている水上生活者には、目がなかった。声をかけたハクの顔がどこにあるのかわからずに、終始きょろきょろと不安げに顔を動かしていた。鼻や耳、口のない人々もいた。おそらく彼らは、見ることや話すことを、とうの昔に忘れてしまったのだろう──とハクは思い至った。
 住人の姿かたちはさまざまだった。元は神であったと思われる姿もあれば、かろうじて人間の名残をとどめているばかりの、崩れかけた異形も見られる。どのような姿であれ、他ではなかなか見ることのない人間がそこにいるということは、元の世界に通じる「何か」がその町にあるということだ。
 ──当時の彼は、あまりにも純粋に魔法の力を妄信していた。そのために帰り道を見失うことになるなどとは夢にも思わなかった。だから、その町にとりわけ強い関心を抱くことはなかった。得体の知れない町に手がかりを求めずとも、戻ろうと思えば、いつでも戻れるはずだと高を括っていたのだ。


 その町のことは、しばらく忘れていた。
 絶対君主の下、ひたすら滅私奉公に日々を費やした。魔法は決して全能になどなり得ないのだと悟った時には、すでに引き返すべき道を見失っていた。壊れるまで酷使され続ける道具のように自分を消耗させながら、しだいに落とし穴の瀬戸際へと追いやられていった。
 落ちるか落ちないかのぎりぎりのところで、彼女と出会った。
 そうして再び、飛翔することを思い出した。
 誰の指図も受けない。心のままに、飛びたいところへ飛んでゆく。
 ──千尋という存在が教えてくれた。
 いついかなる時にも、心はどこまでも自由なのだということを。


「お前は、あの子のようにはいかないよ」
 契約解消を願い出たハクに、魔女は煙草の煙とともに、こう吐き捨てた。
「お前がこっちに来てから、どれだけ時が経ったと思ってるんだい? もうすっかりこっちに馴染んでるじゃないか。名を思い出したから帰りたいだなんて、そう簡単にいくもんかね」
 もとより快諾を得られるはずもないことは承知していた。相手が心変わりするまで、根気強く交渉を続ける覚悟だった。だからどれほどしつこく煙にまかれようと、彼の心に迷いが生じることはなかった。
「何と言われようと、構いません。絶対に元の世界へ帰ってみせます。私の名の下に結んだ契約を、今すぐ解消してください」
「──お前、あたしとの約束を忘れたのかい? 忘れたとは言わせないよ。あの子を無事に帰してやったら、あたしはお前を"八つ裂き"にしてやると言ったはずだ。お前はあの時、確かに頷いたじゃないか」
 ハクは静かに首を振り、魔女の言葉を否定した。
「ですが、私の体や魂を八つ裂きにする、とは仰らなかった。──ならば"八つ裂き"にされるのは、私の書いた帳簿でも、契約書でも良いのではありませんか?」
 巨大な瞳をさらに見開いて、湯婆婆は盛大に舌打ちした。命を懸けた約定を交わすには、言葉が足らなかったのだ。
「──小賢しい竜め! 魔法を教えてやった恩も忘れて、よくもまあ偉そうな口を利くもんだよ」
 いまいましげな悪態とともに、赤い爪がバチンと鳴らされた。
 突如としてハクの手中に出現したもの。それはまぎれもなく、彼の真の名において交わされた契約書だった。「乙」の署名欄には、この世界の住人としての通り名ではなく、あの日奪われた神としての名が、本来あるべき形のままくっきりと記されている。千尋が取り返してくれた名だ。
「死にぞこないで恩知らずの竜なんか、もう用なしだよ。こっちから願い下げさ。トンネルの向こうでも、どこへでも行っちまいな!」
 魔女が、疫病神を追いはらうようなしぐさで降参を宣言した。ハクはこみ上げる喜びを隠しきれずに、契約書越しに「甲」たる相手へと問いかける。
「元の世界へ帰ることを、お許しくださると?」
「──ふん。帰れるものならね」
 何やら、含みのある物言いだった。やはり一筋縄ではいかないらしい。
「どんなに悪知恵を働かせようが、この世界の"決まり"からは逃れられないよ。契約書が消えても、帰り道がわからないんじゃ、どうしようもないじゃないか」
「ですが、本当の名を思い出しました。帰り道もおのずと見えてくるはずです」
 希望に心躍らせる彼は、楽観的だった。その浅はかな考えをあざ笑うかのように、魔女は巨大な鷲鼻から煙草の煙を吹き出した。
「この世界へやってくる者は、外の世界のすべてを捨てなければならない。再び帰りたいと望むのなら、手放したものを取り戻さなければならないんだ。──あの人間の子供は、ここに来てまだ日が浅かったから、運良く何も手放さずに済んだ。まあ、誰かさんの余計な世話もあったようだしね」
 じろりと魔女の眼球が動く。
「でも、ハク、お前はどうだい? ──お前には、欠けているものがある。なのにそのことに気付いてさえいない。そんな危うい状態で、いったいどうやって帰り道を探すっていうんだい?」
 ──欠けているものがある。
 そんなことは、まったくもって寝耳に水だった。
 何が欠けているというのだろう。ハクが尋ねようと口を開きかけた瞬間、目の前に広げていた契約書が、突然目には見えない力によってずたずたに切り裂かれた。彼は瞳を大きく見開き、自分を魔女に従属させていた紙切れのなれの果てを見つめた。はらはらと舞う紙吹雪の向こうに、興をそがれたような湯婆婆の仏頂面がある。"八つ裂き"の約定が、時を待たずして果たされたらしい。
 もはや彼がこの世界に負うべきものは、何一つとして存在しない。この塔に君臨する女王の絶対的な支配から解放された。望むならば、どこへでも行けるはずだ。川を越え、草原を渡り、約束を交わしたあの人の生きる世界へ。
 ──会いに行けるはずだった。
 自由を得てようやく、ハクは思い知らされた。
 鎖から解き放たれた心と体は、嘘のように軽い。けれど、何かが足りない。それが何かはわからない。魔女の言葉通り、あるべきはずのものが欠けてしまっているという感覚だけがある。
「私は、何を失っているのでしょう。それは、どこに行けば探し出せるのでしょう」
「……ふん。それを見つけるのが、お前に与えられた試練なんじゃないか」
 自分の王国に属さぬ者にこれ以上用はないとばかりに、魔女は視線を外した。


 この町は、迷える者のために存在するのかもしれない。
 明確な名は存在しないという。「霧の町」と呼ばれることもあれば、「名無しの町」や「掃きだめの町」「戻らずの町」といった通り名を口にする者もある。実際にたどり着くことはごく稀で、真偽の程の定かでない伝聞でのみ知られる、不思議の町だった。
 魔女との契約を解消した後、ハクは何度かこの町を訪れている。と言っても、明確にそこを目的地とするわけではない。空を飛びながらトンネルの向こうの世界について思案していると、目の前に霧が濃く立ち込めてきて、ふと気が付けばこの町にたたずんでいるのだった。指針を失った羅針盤のように、行くべき道を探し求めてさまよう彼を、町がみずから迎え入れているのだとしか考えられない。
 この町について、近頃ようやく知り得たことがある。それは、この町の様々なところに、向こうの世界へ通じる入口が点在するということだった。扉であったり、井戸であったりと、入口の形は定まらないが、どれもあの時計台のトンネルと似たようなものだろう。元人間と思われる住人は、その多くがそうした入口を通ってこの世界へやってきたという。
「"神隠し"にあったんだよ」
 目を失った水上生活者は、「霧の町」へ迷い込んだ経緯をハクに語った。
「向こうのことは覚えてない。でも、何かひどく怖いものに追われていたような気がする。──気が付いたら、ここにいた。同じような仲間が他にもいた。戻る場所も何も知らないから、ずっとここにいる。これまでも、これからも」
 神くずれの住人たちもまた、自分が何者であるのかさえ忘れて、ただそこに暮らしていた。──時折、思い出したように入口の前で立ち止まり、向こうの世界の人間を手招きで呼び寄せる。「隠された」人間というのは、何かしらの不運や憑き物のついているような者ばかりだという。「神隠し」によって人を災厄から守ることだけが、神たるものの本能として残されているらしい。隠し、隠され、他に行き場のない神や人間の共存する町。ハク自身も、道に迷い自分を見失ったが最後、そうした住人たちへの仲間入りを果たすことになるだろう。
 入り組んだ街路を進んでいくと、やがて町の果てへたどり着く。霧の中に長く巨大な橋が浮かんでいる。東西へ伸びるその橋の親柱には、「行橋」と刻んだ銘板をはめこんである。橋の下には、川の跡のようなものが見てとれた。白い砂や小石が敷き詰められ、さながら本物の流水のごとく紋様をなしている。
 見える者には、その「行橋」と対をなす、「戻橋」が見えるのだという。
 ──ハクの目には、「行橋」のみが見えている。
 これまで、何度もその橋を渡ってみた。いつも行き着く先は同じ、あの赤い時計台だった。その先へ「戻る」ことはできない。まだ、帰り道を見つけ出すことができずにいるから。
 ハクは霧がかった「行橋」の途中まで歩いていくと、ふと立ち止まった。ちょうど橋の中腹に差しかかったところだった。ここが「戻橋」と交差する場所なのだろう。欄干に手を添え、彼は橋から身を乗り出してみる。幻の橋の存在を探し求めて瞳を凝らすが、周囲にはただ深い霧が立ち込めるばかり。
「私には、必ず出会わなければならない相手がいる……」
 彼の唇から、縁神の社で得た啓示がこぼれた。その言葉はきらめく白砂のように、橋の下を流れる水無き川へと落ちてゆく。
 白い砂が、幾重もの流水紋をかたち作っている。渦を巻いたような紋様の上で、一人の子供が遊んでいるのが見えた。石蹴り遊びのように、片足飛びでひとつの渦からまた別の渦へと、器用に移動していく。
 少年ははたと振り返り、橋の高みから自分を見下ろすハクの存在に気が付いた。
 その顔は、渦潮の模様が描かれた紙の面で覆われている。小さな身にまとう白装束には、きらりと光るものを縫い付けてある。肩の上で切りそろえた髪が、紙の面のめくれかけた端とともに、水中を漂うようにゆるやかになびている。
「そなたは──……」
 橋の上から、ハクはかすかな声で呼びかけた。
 仮面に隠された、少年の顔を知っている。 
 少年もまた、誰よりもよく彼を知っているに違いない。
 互いの存在を認識した瞬間、少年の姿は、白砂の渦の中に吸い込まれるようにしてかき消えていった。
 ──失われた道を求めて。
 ハクは欄干から、水無き川に向かってその身を躍らせた。
 




Boule de Neige